第2話 走る女

文字数 8,499文字

 ひいなは元来姿勢がよく、いつも顔を上げて歩いている。だが、今朝は更に胸を張ったウォーキング・フォームでまるで競歩の選手のように校門をハイスピードで通り抜けた。

「よお、ひいな坊」
「・・・・・・」

 後ろからとんびが、追いかけて来てひいなに並んだ。

「なんだ、無視かよ」
「静かにして」
「なんだ?まだ余裕で間に合うぞ。そんなに速歩きしなくたって」
「黙って!」

 やむなくとんびはひいなと並んで黙って歩く。

 超高速で。

「おいおいおい、お二人さーん!まだ部活の時間じゃないぞー」

 その男子の声もふたりの耳に入っているかどうか分からなかった。

 廊下も、階段も、二人はデッド・ヒートを繰り広げて、同じクラス、隣同士の座席に同時にゴールインした。

「なんだってんだよ・・・」
「うるさい、とんび」
「なんだよ。新しいトレーニング法か?」
「そうだよ」
「なんだ?人生全て『全力疾走』かあ?」

 とんびが息を切らしながら冗談のようにそう言うと間隙なくひいなは返した。

「その通りだよっ!」

 部活の時間、ひいなはトラックをほぼ全力疾走していた。
 キャプテンの小倉(こくら)が怒声を上げる。

「ひいな!速すぎる!」
「はいっ!」

 だが返事だけでひいなは一切ペースダウンしない。それどころか尻上がりに速度を上げるいわゆるビルド・アップ走を超高速で行った。小倉が呟いた。

「しまった・・・ひいながまだアップだと思ってうかつだったわ。タイム、測っておけばよかった」

 正確ではないが、ウォーミングアップのランからいきなりレースモードを超えるペースに突入したひいなはそのまま一気に5,000mを走り切った。

 小倉の感覚だが、おそらく女子の高校記録を分単位で超えていた。

 ただし、ひいなはそのままトラックにぶっ倒れた。
 裸足の足裏を冷やすように砂地のトラックに、ぴたっと着けて、仰向けでよく伸びる足の膝を立てて肢体を男女全部員に晒した。

 喘ぐ喉とそれに合わせて小刻みに上下する胸とが、男子だけでなく女子にも不思議なときめきを抱かせた。


「大丈夫?」

 昨夜のLEDの逆光から見下ろす華乃と同じシチュエーションにある小倉に、ひいなは告げた。

「キャプテン、わたし、駅伝、出ます」
「ほんとに!?」
「はい」
「でも、シューズは?」
「ほぼ、裸足に近い感覚のシューズを見つけました」
「どこの?ナイキ?アシックス?アディダス?ニューバランス?」
足袋(たび)、です」
「足袋!」

 部活の帰り、朝と同じように超高速で歩くひいなにとんびはほとんど走るようにして着いて行った。ふたりとも話を交わす余裕すらなく、ひいなが家とは違う方向に足を向けても目的地を尋ねる余裕すらとんびはなかった。

「いらっしゃいませ」

 ひいなが入って行ったのはデパートの向かいにある和裁品店。老舗で、端切れの布や裁縫道具一式、それから襦袢や褌、サラシと言った、古い時代の日本人のファッションリーダー的な店だった。ひいなととんびのそれぞれの祖母も通っていた店だ。

「いらっしゃいませ。御用命は?」
「足袋を探してるんです」
「足袋、ですか?お着物をお召しになられる?」
「いいえ。走るんです」

 ひいなはひとりでその店を経営している老いた婦人に事情を相談した。アスファルトの道を10kmから20km、駅伝の選手として走るのだと。

「そうですか・・・ならば、この日本舞踊用の足袋はいかがですか?」
「えっ」

 脇でやりとりを聞いていたとんびもさすがにそれはないだろうという目で婦人を見た。だが、婦人は優しい笑みでふたりに答える。

「踊りというものはとても繊細な感覚が求められます。そして畳の上は地面以上に過酷な条件です」
「それは意外でした。畳は整えられた安全な素材だと思っていましたけど」
「お客様。たとえば戦国時代のお城の中をご想像ください。それは饗応の場でありながら大名同士が常に精神を弛緩させることなく対峙し合い、社交の一挙手一投足に至るまで緊張感が求められる場所です。何百枚もの畳が敷き詰められたそのような場で身に付ける衣装は肌着に至るまであらゆる過酷な状況でも機能的に着こなせる代物でなくではなりません。ましてや二本の足でお立ちになるその足元であれば最重要でしょう」

 そして婦人はダメ押しのように付け足してくれた。

「我が家はもともと鎧兜を取り扱っておりました。武器商人、でございます」

 和裁品店の帰り道、とんびは今度こそひいなに問い質した。

「ひいな。何をしようとしてるんだ」
「別に。速く走りたいだけ」
「なあ」
「なに」
「誰か、前に居るのか」

 ひいなが、ぶつっ、と立ち止まった。
 だがそれはひいなの意思というよりは、前列が渋滞した時に立ち止まる運動会の入場行進のようだった。

「とんび。まさかとは思うけど見えるの?」
「・・・・・・・・・ぼんやりとな」

 ひいなはまだ確信が持てなかった。とんびの答えに間があったからだ。ひいなは慎重に応対した。

「とんび。何か、見える?わたしには何も見えないけど」
「・・・・・足袋を履いてるな」
華乃(かの)。バレちゃってるみたい」

 その瞬間、とんびの前に一人の可憐な少女のシルエットが姿を現した。

「わわわわっ!ほ、ほんとにいた!」
「え!?とんび、やっぱり見えてなかった!?この、嘘つき!」
「ひいな。もういい。いずれこの男子には気づかれておっただろう」
「でも、華乃・・・」
「あ、あのう・・・」

 とんびが華乃に話しかける。

「なんだ」
「お、俺、とんび、って言います。あ、あなたは?」
「華乃だ」
「幽霊?」
「ちがう。ひいなの婆だ」

 ひいながとんびに事情をあらかた説明した。

「そ、そうか。華乃さんか」
「とんび。そなたそんなに昔の服装が珍しいか?」
「い、いえ。着物じゃなくて、その・・・」

 ひいなは、察した。そして釘を刺した。

「とんび。華乃はまだ14歳なんだよ。変な気持ちを起こしたら犯罪だからね」
「お、俺は別に!」
「わらわの時代では年齢は関係ない。12,13歳で嫁いで14,15には子を2人くらいは持っておる者もざらであったぞ」
「へ、へえ・・・」
「とんび!」

 3人はコンビニの前で鉄製の手すりに腰掛けてしばらく話した。

「ひいな。今日は一日よくわたしに着いてきたな」
「もう必死だったよ!華乃は歩くのも走るのも速いにも程があるよ!」
「ところでひいな。昨日の答えをまだ聞いていなかったぞ」
「あ。何のために走るのか、だよね」
「そうだ」
「・・・ごめん。まだよくわからないよ」
「そうか。分かった。ひいな自身の人生のことだ。ゆっくりと考えればよい」
「華乃さん」
「なんだ、とんび」
「『走る』ってそんな大袈裟に考えなきゃいけないんですか」
「?というと?」
「今や走る人は街に溢れかえってます。ちょっと前まではダイエットのために走る人がかなりの割合いたけど今は純粋に趣味として楽しみとして走っている人が大勢います。無理に理由をつけなくても、ただ走ればいいんじゃないですか?」
「そうか。とんびの言うことも一理ある。だが、わらわはそうはいかなかったのだ」
「どうしてですか」
「戦場では、走らぬと死ぬからだ」
「うっ・・・・・」
「わらわは走るのが好きだ。幼少の頃から鍛錬も自主的に自分なりの手法で重ねてきておった。永遠に演習だけの日々を送れるのであればそういう走りがしたかった」
「すみません・・・」
「よいのだ。ところでとんびは何故走るのだ?」
「お、俺は・・・」

 とんびが口を開こうとするとひいなが遮った。

「とんびにその答えはまだまだ早いよ」
「お。その言葉そっくりひいな坊に返してやるよ。ひいなだって華乃さんみたいに命懸けで走ってる訳じゃない癖に」
「・・・とんびのバカ」

 ひいなが突然駆け出した。

「あ、あれ?なんで?」
「うまくいかぬものだのう」

 一番年下の華乃の方が男女の機微を知り尽くしているようだった。

 ひいなたちが出場するのは京都で開催される都道府県対抗女子駅伝だった。
 ひいなたちの県は実業団のめぼしいチームもなく、陸上貧困県と言われていたが、虚仮国庫(こけこっこ)高校の特に女子陸上部はひいなが入学した年の2、3年年生が突然変異のように速い選手が揃っていて、特に中・長距離のレースではインターハイでも上位に喰らい込んでいた。そして今年二年生に進級したひいなはインターハイ出場を決め、裸足を武器にトラックでの10,000mと5,000mではインターハイ・チャンピオンすら狙える記録を連発していた。
 そしてこれまではシューズを履かざるを得ないロードではスムースなランができないというネックがあったが、それも一気に解決した。

 快晴の空の下、県陸上界の期待を集め、ひいなはアンカーとしてキャプテンである小倉の到着を待っていた。
 レースは大混戦となり、一位の京都とひいなたちの県のタイム差は5分。最後の区間は一番長い20kmで、5分ならばなんとかならぬのか、というのが県の幹部たちの本音だった。

 小倉は大健闘した。

「キャプテン!ナイスラン!」

 デッドヒートの末にアフリカからの留学生に競り勝って順位を三つ上げた。

「いけ!ひいな!」
「はい!キャプテン!」

 小倉からタスキを受け取ったひいなは、まさしくロケットスタートを切った。
 その足元を中継車のカメラが捉える。
 実況解説をするアナウンサーも興奮気味に中継する。

『高校二年生の親鳥(おやどり)ひいな選手、なんと地下足袋でのレースとなります!解説の野田さん。現在は厚底でカーボンプレートすら装着したハイテク・シューズでのハイスピードなレース展開が主流になっていますが、親鳥選手の走りをどうご覧になりますか?』
『そうですねえ。かつてはアベベという裸足でオリンピックのマラソン金メダルという偉大な選手もいるわけですから一概に無謀な試みとは言えないですね。ただ、この走りは今の主流のフォームの中のどれとも違いますね。そしてペースが速すぎます。これでは10kmを過ぎた辺りで失速するでしょう』
『はい。ただ、一位の京都との差は5分ですから追いつくためにはこれぐらいのハイペースでないと厳しいのでは?』
「それこそ無謀というものです。しかも京都アンカーの神楽(かぐら)(さくら)選手は高校3年生ながら次のオリンピックでは女子マラソンの本命と言われている長距離の女王候補ですからね。親鳥選手には荷が重いでしょう』

 だが、ひいなは上位の選手を軽々と抜き続けた。

『親鳥選手、前方を並走する三人を交差点の大外から一気に抜き去りました!これで10位!』
『まだ5km経過ですからね。これからが踏ん張りどころですよ』

 ひいなの白い足袋の足裏が、ハムストリングスの高さを超え、お尻の付け根あたりを蹴りそうなぐらいのダイナミックな走りを見せる。

『本来、親鳥選手はピッチ走法と聞いていたのですが』
『焦る余りに自分のフォームを見失っているのでしょう』

 ひいなはテレビや動画でしか観たことのなかった前回オリンピックの銅メダリストも抜いた。それだけでなく1kmにも渡るほぼダッシュでの駆け引きの末に抜かれたメダリストは、ひいなに置き去りにされた瞬間に肉離れを起こして倒れ込み、棄権に追い込まれた。

 しかもこの地獄のような1kmもの無酸素ダッシュの間に2人して5人を抜き去っていた。

 沿道のギャラリーも、ようやくひいなの存在に注目し始める。

 ひときわ小柄で、ボーイッシュな顔がかわいらしく、四肢の走るための筋肉とその配置のバランスが絶妙。しかも凹んだ腹筋から臀部・ハムストリングス・ふくらはぎと直線に近いスリムな曲線と、その先の純白の足袋。

 誰もがひいなのランから目を離せなくなった。

「がんばれー!」
「親鳥選手!ファイト!」

 ギャラリーたちもひいなを応援し始める。

「はっ!」

 ひいなは3位の選手を特にスパートもせずに慣性のスピードで抜き去りとうとう2位に上がった。

 だが、ひいな自身は内心悲鳴を上げていた。

「か、華乃!速すぎるよ!」

 ひいなの50m前方で華乃が速力を落とさないままで首だけひいなの方に振り返る。にこ、と笑ってさらにスピードを上げる。

「まだまだ!ひいな!着いて来るのだ!」

 華乃がずっとひいなのペースメーカーとして先導していたのだ。

 だが、仮に他の選手の目に見えていたとしても、ひいな以外の誰も華乃に着いて行くことはできなかっただろう。

 それから数kmにわたっては華乃とひいなの2人だけの激走だった。
 その華乃が初めて自分以外の他人をこう評した。

「先頭の女子。速いな」

 ひいなは、ぎりっ、と奥歯を噛んだ。
 それは勝機が依然見えないことへの焦りでも、未だトップとの差を詰めきれない悔しさの感情でも無かった。

 神楽桜への嫉妬だった。

 華乃という、領民のため・一国の未来のために戦場を全力疾走した少女。

 そういうこれまでの憧れの選手とは全くスケールの違うアスリートから、現世の人間として最初に褒められるのは自分でありたい。

 だから、神楽桜に嫉妬した。

「華乃っ!」
「なんだ!」
「もっと、速く!」

 ひいなの決意を聞いて、華乃が更に走りを変えた。

 ストライドが倍になったのではないかと思う推進力の伸びを見せる。
 足裏が完全に臀部と太腿の付け根まで蹴り上げられている。

 それを見て、ひいなはどうしたか。

 顔を、真上に向けた。

 そうすることによって無理やりに薄い胸をいっぱいに反り返らせた。

 腰が痛くなるぐらいに。

 すると胸筋に背筋が追いついてくるような感覚になった。

 真上に上げた顔が、背筋の、つまり後ろに残ろうとするひいなのカラダを、一瞬にして前へ引きずり倒すような前方への推進力が生み出された。

 顔がその推進力によってまた前のめって下を向きそうになる。

 また顔を真上に向ける。

 それを繰り返して絶対に視線を落とさないように、絶対に俯かないようにした。

 胸を張り続けた。

 顔を前に向けると視線がまっすぐに前方の華乃を捉え続け、いつしかひいなは華乃のすぐ背後のスリップ・ストリームに入っていた。

 神楽桜の背中が、華乃の透き通った美しい背中の向こう側に見えてきた。

 華乃は、すうっ、と身体を左に流した。

 どうやらここから先は一人で行くしかなさそうだ。

「ひいな、征けっ!」
「はっ!」

 ひいながスパートの気合の声を発すると、神楽は振り返って驚愕の顔をした。

 それはひいなに追いつかれそうになっていることの焦りの表情では決してなかった。

「このわたしに追いつこうなどと、小賢しい小娘(ガキ)がっ!」

 音声としてはっきりとひいなの耳に聞こえた気がした。

 だが、ひいなは走る女だ。
 答えはまだ出ないが、どうしてだか分からずに走らずにはいられない女だ。
 いくら常勝京都のアンカーであろうとも誰もひいなが走ることを止める権利などない。

 否!
 仮にそのような理不尽な権利がこの世の誰かに付されたとしても、ひいなは抗い尽くしてそして走るだろう。

 殺されるまで。

「行くぞぉ!」

 ひいなは怒鳴った。

 長距離走でスパートを仕掛けている人間が気合を発したところで生理学的に有利になることなどありはしない。呼吸を乱して失速する怖れすらある。
 が、ひいなは瞬時に察したのだ。

 この神楽桜という自分よりも僅か一歳だけ年長の女に対しては、気合をぶつけ続けないと本当に殺されると思った。

 ランで殺す。

 できない話ではない。
 現にスポーツの実況では『自滅しました!』という用語が頻繁に繰り出され、あたかも勝負に負けることは死を意味するかのようなやりとりがなされる。

 ランで殺す。

 ひいなは思えば自分の身の周りが凶器で充満していることに気がつく。

 硬いアスファルト。

 高速でスレスレを走る縁石。

 間接的ではあるが気温、湿度、風。

 沿道の声援も捉え方次第では精神的プレッシャーとして敵を滅ぼすのに使えないこともない。

 そして、あり得ないこととは思ったが、対向車線を走る一般車両。
 それから規制されたランニング用の車線を走る中継車、先導の白バイ。

 ランナーたちはヘルメットも着用しない頭部を晒し、極限まで布を省いた四肢も腹部も剥き出しにしたランニング・ウェアのみで走る。

 ひいなに至っては足の爪先すらシューズには守られておらず、日本古来の足袋なのだ。

「親鳥っ!」

 神楽はひいなの名前を知っていた。マークしていたということだろう。
 だが、残り2kmとなった優勝間近の通過地点でここまで接近されるとまでは思っていなかったろう。

 ひいなはその神楽の僅かに残った精神的優位すら叩き潰す一声を放った。

「神楽!どけっ!」

 ひいなの怒声で神楽の攻撃本能のスイッチが入った。カーブに差し掛かるタイミングでひいながインから強引に押し抜こうとスピード・アップしたとき、それは行使された。

「親鳥ぃっ!死ねっ!」

 神楽が瞬発的に腕の振りを変え、左肘をほぼ水平に真後ろ、つまりひいなの思い切り反らした胸にスゥイングしてきた。

「うおっ!」

 急激なブレーキングで一歩緩め、肘を空振りさせるひいな。そのまま神楽の後ろについてスリップストリームに入る。

 ひいなは決して油断したわけではなかったが神楽をそれでもみくびっていた。華乃というひいなにしか見えないペースメーカーの力を借りたとはいえ、5分もあった神楽との差を詰めたことで、それが神楽の全力であり、追いついた自分に精神的にもスピードの面でも分があると踏んでいたのだ。

 だが、これは、駅伝だ。

 胸の尖端であろうが先にゴールラインに到達したものの総取りだ。

 神楽はひいなを背後に(はべ)らせたまま魔法のようなスピードアップを見せた。

「ふ・・・ぅ・・・う」

 ひいなは瞬時にダメージを受ける。

 神楽のランにはまだ上のギアがあったことを見せつけられて、がくっ、と膝から崩れ落ちそうになったところを無理矢理に顔を上げて神楽の肩甲骨のど真ん中を睨みつけ、ストライドが縮こまるのを回避した。

「コラー!」
「えっ!?」

 だが神楽の掛け声は奇抜な選手と言われるひいなのそれをすら超えてひいなを子供扱いするようだった。意表を突いた言葉での気合を繰り出され、思わず怯むひいな。フィジカルだけでなく、敵のメンタルの条件反射の部分まで知り尽くした恐るべき戦法だった。
 だが、それでも神楽は許してくれなかった。

「ストーップ!」
「ななっ!?」

 僅か1m背後を走るひいなの目の前で本当に神楽は一瞬ランをストップさせた。

 ペダルブレーキもサイドブレーキもギアをバックに切り替えるかのような動作まで総動員してひいなも急停止しようとした。

 が、当然ひいなの頭部は慣性のままに前方に投げ出されるように前に動き続ける。

 このスピードでのストップだ、手をつくことすら叶わずに顔面かあるいは額の部分からアスファルトに自らダイブするように上体が倒れ込んでいくひいな。

『ああっ!親鳥選手転倒!転倒です!』

 死ねるかよ!

 実況の怒鳴り声がウーファーをビリビリ歪ませるような大音量で全国に流れた瞬間、怒りによってひいなの思考のスピードが最速となった。

「クソ野郎ぉっ!」

 ひいなは何も考えずに頭部を亀のように丸め込み、激突せんとするアスファルトをヴェリィ・ショートのうなじで迎え入れた。

 ひいなは、でんぐり返った。

「馬鹿野郎ぉぉ!」

 舌を噛む危険すら侵して汚い言葉で気合を入れる。
 一回転ではスピードを殺せずに合計二回転、でんぐり返しで前方にローリングし、そのままの勢いでつんのめりながらも二本足で立ち上がって、ローリングの効用で更に加速したのではないかと思える推進力を得、ストライドを1.5倍に広げる。

 沿道のギャラリーが、隣に並んでいる者同士で思わず笑い合って手を叩き、ひいなを指差して、そしてまた笑みをこぼす。

 最後にギャラリーたちはこう合唱した。

「親鳥選手、がんばれ!」

 だがひいなはそんな長閑な声援など全く脳からはシャットアウトし、この一念だけで神楽を追う。

「神楽!殺してやるっ!」

 ひいなはもはや完走すらどうでもよいと思っていた。
 30m先行する神楽に1秒でも早く追いついて、そしてそのまま蹴殺そうと思った。

 だが、ひいなにもう一つ問題が生じていた。

『右の踵が、破けた』

 今のローリングの一蓮の動きで激しく踵部分をアスファルトと擦り付けてしまった。
 破けた足袋の踵部分の布が、ベロン、と足裏とアスファルトの接地面に入り込み、滑り始めたのだ。

 ひいなは決断した。

「せっ!」

 走り続けたままで右足を大きく前に振り上げる。
 振り子の動作で右足が降りてくる瞬間、ハードル走の選手のように上体をクロスさせて左手の指先を思い切り右の爪先に伸ばす。

「えぇぇぇぇっい!」

 ヒュルッ!

 たったワンストロークで右の足袋を脱ぎ剥がした。

 ギャラリーがどよめいているがそれどころではない。ひいなは左足も同じように振り上げる。

「てぇぇぇぇぇっ!」

 同じようにワンストロークで左足の足袋を脱いだ。

 ぽい、と右指先から足袋を空中でリリースし、ひいなは激したままの感情で走り続ける。

 裸足!

 ひいなはこれで完全に裸足のランナーとなった。


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