第13話 不動明王と共に走れ!
文字数 1,391文字
本来の千日回峰行は7年に及ぶ。
1年目、2年目、3年目は100日ずつ、その後4年目、5年目は200日ずつ歩く。
そこで堂入りという最も過酷な行に入る。
9日間、食糧も、水も絶ち、眠ることも、横になることもできないという命懸けの行だ。
行者の瞳孔が開いたままになっても、それでも続行する。
失敗したら、そこで自害せねばならぬのだ。
自決用の懐刀を胸に抱き、走り、そして人間の欲を断ち切った行を行う。
最後の6年目、7年目で残りの日数を歩く。
すべてこれ、人間業ではない。
ひいなは得度した正式な僧侶ではない。
ただの、走る人間だ。
生まれながらにして走る人間だ。
ひいなは走ることに重きを置き、特別の計らいを得て師匠である阿闍梨、桐谷 の全責任の下に年間250日、4年間での満願を目指すのだ。
なぜか。
「華乃が、待ってる」
今18歳のひいなは、4年後には22歳となっているであろう。
早く、会いたい。
走り切れば、それは叶うであろう。
そして、4年。
「お師匠。今日が最後のランです」
「うむ。ひいな。だが、本当にやるのか」
「はい。何度も何度も考えましたが、それを抜きには華乃に顔向けできません」
「・・・分かった」
ひいなは、決断した。
9日間の『堂入り』を。
桐谷は更なる厳しさを告げなくてはならなかった。
「だが、ひいな。ひいなは僧侶ではない。それをごく私的な行として行わねばならぬ」
「はい。分かっております」
「僧団としての支援もしてやれぬ。ひとりで、ひっそりと、お堂に籠らねばならぬ」
「覚悟の上です」
「わかった。行っておいで」
「行って参ります」
ランの最後の日、ひいなは思うところがあった。
実は、この四年間、深夜、山中のランのタイムを計測し続けていたのだ。
本日ただ今、出立して、千回繰り返してきたそのランの、最速記録を出す誓いを不動明王に立てた。
「はっ!」
気合一声、駆け始める。
無音だ。
音がしない。
ひいなは足袋と、足袋の親指と人差し指とに縄を食い込ませるようにして装着する草鞋とで、比叡山の山肌を、そっとなぞらえて来た。
完璧なプロネーションを手に入れた。
もしもロードで裸足となれば、おそらくはどのような悪路であっても、すべての起伏をその足裏と美しい指とで吸収し尽くして行くであろう。
無音で。
高速で登り切り、神社に参拝し、そして更に数倍のスピードで下り続けた。
「あ」
今の今まで出会わなかったものに、今日のこの日に出会ってしまった。
「熊」
鉢合わせだった。
下りの獣道の途中のせせらぎを飛んで越えた時、その真横に成獣の熊が居た。
ゴアアっ!
どうする?
どうするどうする?
どうするどうするどうする?
『どうもこうもないよね』
ひいなは恐れなかった。
熊は神の遣い。
もしその歯牙にかかるのであれば、それは神の思し召しだとひいなは腹を据えた。熊と真正面で向き合う。
「征くが、よいか」
熊は動かなかった。
熊は何も言わなかった。
そのままひいなを見送った。
死装束である麻の白装束を着て、開き切らない蓮の花の形をした笠をかぶり、自らしつらえた足袋と草鞋を履いて、サラシを巻いた胸の乳房の辺りに懐刀を抱いて、今まさに高速の逆落としで山を駆け下りる。
転んだならば、どこまでも滑落していくであろう山を、ただただ素晴らしいスピードで、駆け抜けた。
新しいタイムを、築き上げた。
1年目、2年目、3年目は100日ずつ、その後4年目、5年目は200日ずつ歩く。
そこで堂入りという最も過酷な行に入る。
9日間、食糧も、水も絶ち、眠ることも、横になることもできないという命懸けの行だ。
行者の瞳孔が開いたままになっても、それでも続行する。
失敗したら、そこで自害せねばならぬのだ。
自決用の懐刀を胸に抱き、走り、そして人間の欲を断ち切った行を行う。
最後の6年目、7年目で残りの日数を歩く。
すべてこれ、人間業ではない。
ひいなは得度した正式な僧侶ではない。
ただの、走る人間だ。
生まれながらにして走る人間だ。
ひいなは走ることに重きを置き、特別の計らいを得て師匠である阿闍梨、
なぜか。
「華乃が、待ってる」
今18歳のひいなは、4年後には22歳となっているであろう。
早く、会いたい。
走り切れば、それは叶うであろう。
そして、4年。
「お師匠。今日が最後のランです」
「うむ。ひいな。だが、本当にやるのか」
「はい。何度も何度も考えましたが、それを抜きには華乃に顔向けできません」
「・・・分かった」
ひいなは、決断した。
9日間の『堂入り』を。
桐谷は更なる厳しさを告げなくてはならなかった。
「だが、ひいな。ひいなは僧侶ではない。それをごく私的な行として行わねばならぬ」
「はい。分かっております」
「僧団としての支援もしてやれぬ。ひとりで、ひっそりと、お堂に籠らねばならぬ」
「覚悟の上です」
「わかった。行っておいで」
「行って参ります」
ランの最後の日、ひいなは思うところがあった。
実は、この四年間、深夜、山中のランのタイムを計測し続けていたのだ。
本日ただ今、出立して、千回繰り返してきたそのランの、最速記録を出す誓いを不動明王に立てた。
「はっ!」
気合一声、駆け始める。
無音だ。
音がしない。
ひいなは足袋と、足袋の親指と人差し指とに縄を食い込ませるようにして装着する草鞋とで、比叡山の山肌を、そっとなぞらえて来た。
完璧なプロネーションを手に入れた。
もしもロードで裸足となれば、おそらくはどのような悪路であっても、すべての起伏をその足裏と美しい指とで吸収し尽くして行くであろう。
無音で。
高速で登り切り、神社に参拝し、そして更に数倍のスピードで下り続けた。
「あ」
今の今まで出会わなかったものに、今日のこの日に出会ってしまった。
「熊」
鉢合わせだった。
下りの獣道の途中のせせらぎを飛んで越えた時、その真横に成獣の熊が居た。
ゴアアっ!
どうする?
どうするどうする?
どうするどうするどうする?
『どうもこうもないよね』
ひいなは恐れなかった。
熊は神の遣い。
もしその歯牙にかかるのであれば、それは神の思し召しだとひいなは腹を据えた。熊と真正面で向き合う。
「征くが、よいか」
熊は動かなかった。
熊は何も言わなかった。
そのままひいなを見送った。
死装束である麻の白装束を着て、開き切らない蓮の花の形をした笠をかぶり、自らしつらえた足袋と草鞋を履いて、サラシを巻いた胸の乳房の辺りに懐刀を抱いて、今まさに高速の逆落としで山を駆け下りる。
転んだならば、どこまでも滑落していくであろう山を、ただただ素晴らしいスピードで、駆け抜けた。
新しいタイムを、築き上げた。