第6話 小規模な戦場
文字数 2,532文字
「悪いね、エルセン」
「ノ。構わんよ。それでひいなが満足するなら」
「お礼はミスター・リャンの中華でどう?」
「ノ。Sushiの方がわたしの好みだ」
「オーケイ。なら、『将軍』で握りの『excellent』を」
派遣隊のアテンド役として無償奉仕をしてくれるのは華僑のエルセン。痩身で長身の五十代前半の男だ。
彼が右ハンドルのマニュアル車で送迎を買って出たのは国境付近のこの国の国土としては珍しい湿地帯を含む腐葉土が続くエリアだった。
日本のトレイル・ランニングやクロスカントリーコースによくあるのと似通った地面を久しぶりに走りたいと言ったらエルセンがここを勧めてくれたのだ。
「わたしたちがランしてる間、エルセンはどうするの?」
「車の中で小説でも書いてるさ」
エルセンはそう言ってスマホをハンドルのグリップに固定し、コンパクトなワイヤレス・キーボードを組んだ膝の上に置いて、タイピングを始めた。
車から出て走り始めるひいなとユキ。
「エルセンの好きな作家って誰なんだろ」
「ヘミングウェイとオスカー・ワイルドだって。知ってる?」
「ヘミングウェイは『老人と海』の人でしょ?ユキはオスカー・ワイルドって知ってるの?」
「知らない」
迷子になる訳にはいかないので、目印を決めて同じ場所を周回コースのようにして走ることにした。大体一周3kmぐらいの四角形を岩とクリークとで定めた。
「ひいな。ラン用のサンダルって走りやすいの?」
「裸足や足袋には及ばないけど、紐を足の甲にフィットさせて締める作業が結構好き」
順調に周回数を重ねる。スタート地点に戻るたびに車の中のエルセンに手を振って愛想を振り、また淡々と悪路と良路の繰り返しを爪先に記憶させるように走った。
違和感は5周目の1km地点で生じた。
地面が揺れている感覚を、サンダル履きのひいなが鋭く感じ取ったのだ。
「なんだろう。何か動物の群れでも走ってるのかな?」
「どのぐらいの距離?」
「ユキ。いくらわたしの足裏が感度いいって言ってもそこまでは分かんないよ」
「そう。なんでだろ。何か嫌な感じがする」
「・・・それはわたしも感じてる」
地面の振動が徐々に大きくなることをひいなは感じ取ってはいた。地鳴りのような音を耳でそろそろ聞き取り始めてもいた。
だが、引き返してコースを見失うことの方がリスクが高いと考えたことと、若干の好奇心が勝ったためにそのまま走り続け、500mほど進んだところで視覚ではっきりとそれを確認し、死ぬほどの後悔をふたりはした。
「銃を持ってる!」
それは騎馬に乗った少数民族同士の戦闘だった。スピードはそれほどなさそうだが、頑丈な馬に2人ずつ乗り、後ろの人間が手綱を取って前に座る人間がライフルのような銃で、やはり馬で逃げる一団を追っているところのようだった。追う側の方が、最初の一発を発砲した。
シパン!
ひいなが想像していたのよりも余りにも軽いオモチャのような発砲音に拍子抜けした。
だが音がオモチャのようであろうとも間違いなく馬上の射撃手は実弾を敵の背中に向けて撃っており、つまり、これは、戦争だった。
小規模なそれであろうとも、紛れもない戦争だった。
「ユキ!止まっちゃダメ!」
「う、うんっ!」
ふたりはコース通りに走る。ちょうど折り返し地点で後はエルセンの車まで戻るだけだ。それに、この戦争にふたりは関係ないはずだった。
だが、追う側の馬の一頭が、ひいなとユキの走る方向へと逸れてふたりを追ってきた。
「なんで!?」
ユキはそう疑問形で叫んだが、ふたりには理由が十分過ぎるほどに分かっていた。
ひいなとユキが、
民族同士の戦闘の際、民間人への略奪・強盗行為だけでなく、レイプも恒常的に行なわれていることをふたりは渡航前から知っていた。
「ユキ!もう少しで『細道』だよ!」
「うん!」
コースの折り返し途中からは人間が縦に並ばないと走れないような林道に差しかかかる。そこまでたどり着けば馬に乗る彼らは諦めると考えていた。
だが、甘くはなかった。
馬に乗る内の1人が飛び降りて、ランでひいなとユキを追ってきた。
林道に入る。
ひいなとユキの走力は少なくとも日本の女子長距離ランナーとしてはトップレベルだ。
討手が男とは言え、追いつかれるはずがなかった。だが、ユキがもう一度叫んだ。
「なんで!?」
討手の男はまだ後方にいるが遅れることなくふたりの走路を完璧にフォローして走ってくる。
銃こそ携行していないが、ナイフで武装していることは明らかだった。
もし、ひいなとユキがミスって転倒したりペースを落としたりすることがあれば、ナイフをかざされ、陵辱されることは明白だった。
『これがホンモノの戦場を駆ける人間とそうでない人間との差か・・・』
ひいなは冷静にそう悟り、今となっては華乃の名を、まるで神仏を念じるように呼ばわるのみだった。
林道を抜けた。
ひいなとユキのランがダイナミックさを取り戻しスピードアップもするけれども、それは男とて同じだった。
「あっ!」
「ああっ!」
だがひいなとユキは歓喜の叫びを上げた。
銃声が風に乗って届いたからだろう、エルセンがコースを逆走して車で向かってきてくれていたのだ。
エルセンはふたりの姿を確認し、車を止めて、運転席から駆け出してきた。
「ひいな、ユキ、急げ!」
そうふたりに叫びながら護身用のリボルバーを両手で構える。
そのまま銃口を空に向けて発砲した。
パン!
討手の男は冷静だった。
エルセンが威嚇発砲した瞬間に、ずだっ、と地面に伏せて両手をカエルのように前に伸ばし、反撃しない意思を示した。
「乗れっ!」
エルセンはひいなとユキがバックシートに駆け込むのを気配で確認した後、銃を男に向けたまま後退りし、運転席に座るなりアクセルを踏み込んで『戦場』から離脱した。
「すまない!わたしのミステークだ!ふたりを危険に晒してしまった!」
顔面蒼白でダートをハンドルとアクセル操作するエルセンの背後でユキは両手で顔を覆って嗚咽していた。
だが、ひいなは。
『わたしは戦場に居合わせた。戦場を実体験した・・・』
ひいなの心拍数は振り切れていたが、それには間違いなく不思議な高揚感も混じっていた。
「ノ。構わんよ。それでひいなが満足するなら」
「お礼はミスター・リャンの中華でどう?」
「ノ。Sushiの方がわたしの好みだ」
「オーケイ。なら、『将軍』で握りの『excellent』を」
派遣隊のアテンド役として無償奉仕をしてくれるのは華僑のエルセン。痩身で長身の五十代前半の男だ。
彼が右ハンドルのマニュアル車で送迎を買って出たのは国境付近のこの国の国土としては珍しい湿地帯を含む腐葉土が続くエリアだった。
日本のトレイル・ランニングやクロスカントリーコースによくあるのと似通った地面を久しぶりに走りたいと言ったらエルセンがここを勧めてくれたのだ。
「わたしたちがランしてる間、エルセンはどうするの?」
「車の中で小説でも書いてるさ」
エルセンはそう言ってスマホをハンドルのグリップに固定し、コンパクトなワイヤレス・キーボードを組んだ膝の上に置いて、タイピングを始めた。
車から出て走り始めるひいなとユキ。
「エルセンの好きな作家って誰なんだろ」
「ヘミングウェイとオスカー・ワイルドだって。知ってる?」
「ヘミングウェイは『老人と海』の人でしょ?ユキはオスカー・ワイルドって知ってるの?」
「知らない」
迷子になる訳にはいかないので、目印を決めて同じ場所を周回コースのようにして走ることにした。大体一周3kmぐらいの四角形を岩とクリークとで定めた。
「ひいな。ラン用のサンダルって走りやすいの?」
「裸足や足袋には及ばないけど、紐を足の甲にフィットさせて締める作業が結構好き」
順調に周回数を重ねる。スタート地点に戻るたびに車の中のエルセンに手を振って愛想を振り、また淡々と悪路と良路の繰り返しを爪先に記憶させるように走った。
違和感は5周目の1km地点で生じた。
地面が揺れている感覚を、サンダル履きのひいなが鋭く感じ取ったのだ。
「なんだろう。何か動物の群れでも走ってるのかな?」
「どのぐらいの距離?」
「ユキ。いくらわたしの足裏が感度いいって言ってもそこまでは分かんないよ」
「そう。なんでだろ。何か嫌な感じがする」
「・・・それはわたしも感じてる」
地面の振動が徐々に大きくなることをひいなは感じ取ってはいた。地鳴りのような音を耳でそろそろ聞き取り始めてもいた。
だが、引き返してコースを見失うことの方がリスクが高いと考えたことと、若干の好奇心が勝ったためにそのまま走り続け、500mほど進んだところで視覚ではっきりとそれを確認し、死ぬほどの後悔をふたりはした。
「銃を持ってる!」
それは騎馬に乗った少数民族同士の戦闘だった。スピードはそれほどなさそうだが、頑丈な馬に2人ずつ乗り、後ろの人間が手綱を取って前に座る人間がライフルのような銃で、やはり馬で逃げる一団を追っているところのようだった。追う側の方が、最初の一発を発砲した。
シパン!
ひいなが想像していたのよりも余りにも軽いオモチャのような発砲音に拍子抜けした。
だが音がオモチャのようであろうとも間違いなく馬上の射撃手は実弾を敵の背中に向けて撃っており、つまり、これは、戦争だった。
小規模なそれであろうとも、紛れもない戦争だった。
「ユキ!止まっちゃダメ!」
「う、うんっ!」
ふたりはコース通りに走る。ちょうど折り返し地点で後はエルセンの車まで戻るだけだ。それに、この戦争にふたりは関係ないはずだった。
だが、追う側の馬の一頭が、ひいなとユキの走る方向へと逸れてふたりを追ってきた。
「なんで!?」
ユキはそう疑問形で叫んだが、ふたりには理由が十分過ぎるほどに分かっていた。
ひいなとユキが、
女
だからだ。民族同士の戦闘の際、民間人への略奪・強盗行為だけでなく、レイプも恒常的に行なわれていることをふたりは渡航前から知っていた。
「ユキ!もう少しで『細道』だよ!」
「うん!」
コースの折り返し途中からは人間が縦に並ばないと走れないような林道に差しかかかる。そこまでたどり着けば馬に乗る彼らは諦めると考えていた。
だが、甘くはなかった。
馬に乗る内の1人が飛び降りて、ランでひいなとユキを追ってきた。
林道に入る。
ひいなとユキの走力は少なくとも日本の女子長距離ランナーとしてはトップレベルだ。
討手が男とは言え、追いつかれるはずがなかった。だが、ユキがもう一度叫んだ。
「なんで!?」
討手の男はまだ後方にいるが遅れることなくふたりの走路を完璧にフォローして走ってくる。
銃こそ携行していないが、ナイフで武装していることは明らかだった。
もし、ひいなとユキがミスって転倒したりペースを落としたりすることがあれば、ナイフをかざされ、陵辱されることは明白だった。
『これがホンモノの戦場を駆ける人間とそうでない人間との差か・・・』
ひいなは冷静にそう悟り、今となっては華乃の名を、まるで神仏を念じるように呼ばわるのみだった。
林道を抜けた。
ひいなとユキのランがダイナミックさを取り戻しスピードアップもするけれども、それは男とて同じだった。
「あっ!」
「ああっ!」
だがひいなとユキは歓喜の叫びを上げた。
銃声が風に乗って届いたからだろう、エルセンがコースを逆走して車で向かってきてくれていたのだ。
エルセンはふたりの姿を確認し、車を止めて、運転席から駆け出してきた。
「ひいな、ユキ、急げ!」
そうふたりに叫びながら護身用のリボルバーを両手で構える。
そのまま銃口を空に向けて発砲した。
パン!
討手の男は冷静だった。
エルセンが威嚇発砲した瞬間に、ずだっ、と地面に伏せて両手をカエルのように前に伸ばし、反撃しない意思を示した。
「乗れっ!」
エルセンはひいなとユキがバックシートに駆け込むのを気配で確認した後、銃を男に向けたまま後退りし、運転席に座るなりアクセルを踏み込んで『戦場』から離脱した。
「すまない!わたしのミステークだ!ふたりを危険に晒してしまった!」
顔面蒼白でダートをハンドルとアクセル操作するエルセンの背後でユキは両手で顔を覆って嗚咽していた。
だが、ひいなは。
『わたしは戦場に居合わせた。戦場を実体験した・・・』
ひいなの心拍数は振り切れていたが、それには間違いなく不思議な高揚感も混じっていた。