第12話 歯を折り、骨を見せてでも走らぬか!
文字数 2,176文字
毎日、深夜に目覚めて走り始め、夜通し走って戻ってくる。
それを繰り返した。
100日目のその日。
「う!」
蛇が獣道を横切った。
決してその蛇に引っ掛かって転ぶ訳ではないが、ピンと張られたブービートラップに足を掬われるような格好で前のめりに、ズダ、と倒れ込んだ。スピードが乗ったランだったので転倒のエネルギーも半端なかった。
「あれ?」
痛みはない。
ちょうど大きな平たい石の上に倒れ込んだのでかなり強く体を打ち付けているはずなのだが、痛くないのでどこにダメージを受けたのかも最初の内は分からなかった。
とりあえず立ち上がってみる。
提灯の火はなんとか灯ったままだったので、拾い上げて体の前面をまずは照らしてみた。
片方ずつ腕を確認する。
白装束の腕をまくって見るが、特に傷は見られなかった。そのまま提灯を下の方に下ろしていく。
「あっ!?」
左膝の布が茶色く滲んでいる。かなりの出血のようだ。だが、全く痛くない。
「膝だからか・・・」
白の下履きをめくり上げると、膝のシワが血で滲み、まだ出血は続いているようだった。だが応急措置をしようにも暗くて傷口がはっきり見えないので放っておくしかない。痛くないので少し抑え気味に走り続けることにした。
下山の道程に入ると、膝ではない別の所に違和感を覚えた。
「なんだろ。なんか、舌が引っ掛かる」
舌先で前歯を触ってみた。
「あれ?わたしの歯、こんなに短かった?」
寺に戻ったひいなの姿を見て桐谷 は少し慌てた。
「ひいな、車に乗って」
日曜だったので救急センターに桐谷はひいなを連れて来てくれた。受付ロビーで看護師が車椅子を出してきてひいなはそれに座らせられた。担当は若い女医だった。ひいなの左膝を見ながら看護師と会話している。
「うわー、ひどいわー」
「パックリいっちゃってますねー」
膝が真横に一直線に切れて、本当にパックリと傷口が開いていた。
「ほら、見てください」
女医がひいな自身に患部を見せる。
『うえっ!骨が見える!』
傷の奥で白くグリグリと動いているのは、ひいなの膝の骨だった。
「じゃあ、局部麻酔しますね」
膝を立てた格好でベッドに仰向けに寝かされる。
膝に麻酔を打ち、女医と看護師が一緒になって何かをしている。
「転んだ場所は?」
「山の中です」
「土とか砂とかある場所でしたか?」
「いいえ。ちょうど平べったい石の上でしたので、そんなには」
「ああ。それは運が良かったですね」
そうなのか。そうなんだろうか。自分は運が良かったのだろうか。
そう思いながら、自分の膝を洗浄されているらしい。グリグリした感触が骨身に染みる。
「もし砂とかが傷口にいっぱい入ってたら破傷風の危険性が高くなりますからね」
「は・・・い」
洗い終わったようだ。
女医が軽い感じで言った。
「じゃあ、縫いまーす」
美容院で『シャンプーしまーす』とでも言うような軽さだとひいなは思った。ただ、麻酔はしているのだが、痛みは重たい鈍痛というような感じで全身に纏わりついてくる。
ひいなの首筋から脂汗が滲む。
結局、10針縫った。
そして医師はかなり絶望的なことを言った。
「しばらく運動しないでください」
「そういう訳にはいかないんです」
「・・・何?あなた、阿闍梨?」
「いいえ・・・まだ走り始めて100日ですし、それにわたしは仏道修行は短縮していきなり走らせて頂いているので、阿闍梨など、恐れ多いことです」
「ふうん。あのですね。左膝を絶対に曲げないでください」
「えっ」
「縫った部分が、ブチッ、て破けてしまいますから」
「どのぐらいまでなら曲げてもいいんでしょうか」
「気をつけながらなら椅子に座るぐらいまでは大丈夫でしょう。でも、間違っても屈伸したりしたらダメです。正座などももってのほかです」
寺に戻るとひいなは桐谷に泣き言を言った。
「お師匠。膝を曲げずに走ることなどできるでしょうか」
「這えばよかろう」
「は・・・は・・・い・・・」
「あるいは歩くのならばなんとかできるのではないか」
「で、ですが、岩肌を登る時はどうすれば・・・」
「右足で登ればよいではないか。左足は添えるだけとして」
「は・・・い。そ・・・ですね・・・」
「ひいな」
「はい」
「誰かそなたに走ってくれと頼んだか?」
「い、いいえ」
「ならば、工夫しなさい。ひいなの意思で走るのならば」
翌日から、緩やかな登りは桐谷のあの高速歩行を真似て歩いた。
そしてそれ以上の勾配は、本当に這って登った。
「ああ・・・でも、這って登るのもまた合理的かも」
ひいなは四つん這いの動物たちがなぜそんな格好で歩いたり走ったりするのか分からなかったが、自分がそれをやってみて意外とラクだということに気づいた。ラクということは合理的な運動方法なんだろう。
ひいなはお山を這って登り、這って下山した。
下りの方が膝への負担が大きいので行き帰りともに這ったのだ。
膝の抜糸は二週間後だという。それまではとにかく用心しながらの行だ。
そして、もうひとつの病院にはひいなはしばらく行けなかった。
歯医者、だ。
「笑ってみて」
「にこっ」
転倒した日、膝だけでなくひいなは桐谷に口腔も見せた。
前歯が一本、ちょうど歯の真ん中のあたりできれいに、パキッ、と折れていたからだ。だから半分の長さしかない。口を見せると乳歯が抜けた幼稚園児か小学生のようだった。
それを繰り返した。
100日目のその日。
「う!」
蛇が獣道を横切った。
決してその蛇に引っ掛かって転ぶ訳ではないが、ピンと張られたブービートラップに足を掬われるような格好で前のめりに、ズダ、と倒れ込んだ。スピードが乗ったランだったので転倒のエネルギーも半端なかった。
「あれ?」
痛みはない。
ちょうど大きな平たい石の上に倒れ込んだのでかなり強く体を打ち付けているはずなのだが、痛くないのでどこにダメージを受けたのかも最初の内は分からなかった。
とりあえず立ち上がってみる。
提灯の火はなんとか灯ったままだったので、拾い上げて体の前面をまずは照らしてみた。
片方ずつ腕を確認する。
白装束の腕をまくって見るが、特に傷は見られなかった。そのまま提灯を下の方に下ろしていく。
「あっ!?」
左膝の布が茶色く滲んでいる。かなりの出血のようだ。だが、全く痛くない。
「膝だからか・・・」
白の下履きをめくり上げると、膝のシワが血で滲み、まだ出血は続いているようだった。だが応急措置をしようにも暗くて傷口がはっきり見えないので放っておくしかない。痛くないので少し抑え気味に走り続けることにした。
下山の道程に入ると、膝ではない別の所に違和感を覚えた。
「なんだろ。なんか、舌が引っ掛かる」
舌先で前歯を触ってみた。
「あれ?わたしの歯、こんなに短かった?」
寺に戻ったひいなの姿を見て
「ひいな、車に乗って」
日曜だったので救急センターに桐谷はひいなを連れて来てくれた。受付ロビーで看護師が車椅子を出してきてひいなはそれに座らせられた。担当は若い女医だった。ひいなの左膝を見ながら看護師と会話している。
「うわー、ひどいわー」
「パックリいっちゃってますねー」
膝が真横に一直線に切れて、本当にパックリと傷口が開いていた。
「ほら、見てください」
女医がひいな自身に患部を見せる。
『うえっ!骨が見える!』
傷の奥で白くグリグリと動いているのは、ひいなの膝の骨だった。
「じゃあ、局部麻酔しますね」
膝を立てた格好でベッドに仰向けに寝かされる。
膝に麻酔を打ち、女医と看護師が一緒になって何かをしている。
「転んだ場所は?」
「山の中です」
「土とか砂とかある場所でしたか?」
「いいえ。ちょうど平べったい石の上でしたので、そんなには」
「ああ。それは運が良かったですね」
そうなのか。そうなんだろうか。自分は運が良かったのだろうか。
そう思いながら、自分の膝を洗浄されているらしい。グリグリした感触が骨身に染みる。
「もし砂とかが傷口にいっぱい入ってたら破傷風の危険性が高くなりますからね」
「は・・・い」
洗い終わったようだ。
女医が軽い感じで言った。
「じゃあ、縫いまーす」
美容院で『シャンプーしまーす』とでも言うような軽さだとひいなは思った。ただ、麻酔はしているのだが、痛みは重たい鈍痛というような感じで全身に纏わりついてくる。
ひいなの首筋から脂汗が滲む。
結局、10針縫った。
そして医師はかなり絶望的なことを言った。
「しばらく運動しないでください」
「そういう訳にはいかないんです」
「・・・何?あなた、阿闍梨?」
「いいえ・・・まだ走り始めて100日ですし、それにわたしは仏道修行は短縮していきなり走らせて頂いているので、阿闍梨など、恐れ多いことです」
「ふうん。あのですね。左膝を絶対に曲げないでください」
「えっ」
「縫った部分が、ブチッ、て破けてしまいますから」
「どのぐらいまでなら曲げてもいいんでしょうか」
「気をつけながらなら椅子に座るぐらいまでは大丈夫でしょう。でも、間違っても屈伸したりしたらダメです。正座などももってのほかです」
寺に戻るとひいなは桐谷に泣き言を言った。
「お師匠。膝を曲げずに走ることなどできるでしょうか」
「這えばよかろう」
「は・・・は・・・い・・・」
「あるいは歩くのならばなんとかできるのではないか」
「で、ですが、岩肌を登る時はどうすれば・・・」
「右足で登ればよいではないか。左足は添えるだけとして」
「は・・・い。そ・・・ですね・・・」
「ひいな」
「はい」
「誰かそなたに走ってくれと頼んだか?」
「い、いいえ」
「ならば、工夫しなさい。ひいなの意思で走るのならば」
翌日から、緩やかな登りは桐谷のあの高速歩行を真似て歩いた。
そしてそれ以上の勾配は、本当に這って登った。
「ああ・・・でも、這って登るのもまた合理的かも」
ひいなは四つん這いの動物たちがなぜそんな格好で歩いたり走ったりするのか分からなかったが、自分がそれをやってみて意外とラクだということに気づいた。ラクということは合理的な運動方法なんだろう。
ひいなはお山を這って登り、這って下山した。
下りの方が膝への負担が大きいので行き帰りともに這ったのだ。
膝の抜糸は二週間後だという。それまではとにかく用心しながらの行だ。
そして、もうひとつの病院にはひいなはしばらく行けなかった。
歯医者、だ。
「笑ってみて」
「にこっ」
転倒した日、膝だけでなくひいなは桐谷に口腔も見せた。
前歯が一本、ちょうど歯の真ん中のあたりできれいに、パキッ、と折れていたからだ。だから半分の長さしかない。口を見せると乳歯が抜けた幼稚園児か小学生のようだった。