第8話 ランする阿闍梨

文字数 1,327文字

 阿闍梨は若かった。そして彼はひいなの師匠でもあったが、これまで見たどの人間とも違う人間だった。

 千日回峰を始める一ヶ月前。
 ひいなは阿闍梨に呼び出された。
 場所はクロスカントリー・コース。

「ようし。ひいな。俺と勝負だ!」
「はい!負けません!」

 市中に新たに作られたばかりの人工のクロス・カントリーコース。一周800mで公式レースにも使用可能な本格的なコースだった。
 走路にはウッド・チップが敷き詰められ、平坦な部分はほとんどない。必ず登りか下りとなっている。
 高校時代のランニング・ウェアを着て今日はひいなは裸足で走る。
 片や師匠の桐谷(きりたに)はこれも自らのユニフォームと言える白装束に足袋、そして草鞋履きで走る。

 50周すると40km。

「行きます!」

 ひいなの掛け声がスタートの合図だった。

 飛び出すひいな。桐谷はそれを見送って静かな走り出しだ。

 スタートした瞬間から登り坂にかかる。ゆっくりとカーブしながら100mほど登り、それからすぐさま下りに。ヘアピンのような走路を駆け下りながらやや緩い上りを走ったその先に、谷があった。

「せっ!」

 突然の急降下をひいなは行う。最速のスピードで谷を駆け落ち、駆け落ちた落下エネルギーを即座に谷底から這い上がるダッシュのエネルギーに変える。

 谷の時点で既にひいなは桐谷に100mの差をつけて独走態勢に入った。このまま最終周まで逃げ切るつもりでいた。

 実際10周、20周と距離を重ねるごとに徐々にひいなは差を広げ、30周目には桐谷を追い抜いた。

「ふうむ。周回遅れだな。ちょっと気分が悪いな」

 そう言って桐谷は徐々にランニング・フォームを変えて行った。ゆっくり、ゆっくりと、まるでペースダウンするかのように穏やかさ・ゆったりさを兼ね備えて行った。

 異変は40周目に起こった。

「はっ、はっ、はっ・・・」
「ノウマク・サンマンダーバザラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
「うあっ!」

 阿闍梨は走っているのではない、歩いていた。
 その歩いている阿闍梨に、全力疾走しているはずのひいなはブチ抜かれた。

「く、っそぉっ!」

 そのまま置き去りにされたひいなは目の前の阿闍梨の『高速歩行』を見て喘ぎ声で呟いた。

「人間じゃ、ない・・・」

 50周を走り終える頃にはひいなのフォームはガタガタに崩れていた。したがって、ふだん絶対に痛めない部位が傷だらけだった。

「ほう・・・出血しておるな」
「平気です」
「なにが平気なのだ」
「えっ・・・」
「そなた、なにが平気なのだ、答えてみよ!」

 喝を入れられるように師匠であり阿闍梨である桐谷から詰問され、ひいなは顔面蒼白で答えた。

「が、我慢できます・・・」
「ほう。千日間、我慢し通せるというのか」
「うっ・・・」
「土壌には未知の細菌が潜んでおる。それは地上の生物ではない、この比叡山に万年前に激突した隕石が乗せてきた大宇宙の菌かもしれぬ。そして、その誰も治療法の分からぬ菌によって化膿し、倍にも腫れ上がった足で、千日間、そなたは走れるのか」

 桐谷の口調はさっきと打って変わって穏やかな、むしろ憐みのこもった語調になっていた。

「も、申し訳、ございませんでした」

 ひいなはとうとう涙をこぼした。

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