第1話 走るなら、素足に裸足でしょ

文字数 5,662文字

 元気な女子だ。
 名前は親鳥(おやどり)ひいな。
 先週が17歳の誕生日だった。虚仮国庫(こけこっこ)高校の二年生だ。

 陸上部に所属している。

 砂地のグラウンドは滑りやすいからとクラス対抗リレーなどの折に裸足で走る小学生はごく稀に見かけるが、高校生のひいなは普段の練習の時も、レースの時も裸足だ。

 凹んだ腹筋を見せる丈の短いラン専用のユニフォームの上と、稼働しやすいように短くカットされたランニング・パンツの下から続くハムストリングス、ふくらはぎは、直線に近い緩やかな曲線で素脚を風に触れさせ、細いアキレス腱からアーチを描く土踏まず。

 その最先端の足指は。

 きれいなピンクの爪に至るまで、美しかった。

「ひいな!ラストぉ!」
「はっ!」

 低身長に応じてコンパスはコンパクトだが、それを極限までに伸ばし切る。
 けれども、ピッチ走法なのだ。

 裸足なので踵からの着地ではなく、足の小指の付け根あたりから滑らかなプロネーションを経由して、くるん、と地面をなぞるように動かす。

 ローリングを繰り返すように、一旦ふくらはぎまでくっつく程に蹴上げられた、かわいらしくさえあるつま先が、シュン、と上に反るぐらいに前方に振り出され、全く乱れないスムースなフォームで、永遠に続くアニメ画の反復映像のようだ。

 ひいなはトラックの前方を走る男子選手の大きな背中を捕らえた。

「とんび!勝負!」

 全く音を立てずに高速で近づくひいなに気づいた若鳥(わかどり)とんびは慌てて更にストライドを伸ばす。とんびはひいなと対照的に、長身を活かしてガンガンストライドを繰り出して行く走り方だ。

 両者、併走したまま第3コーナーを通過した。

 脳裏に留めておくべきは、ひいながアウトコースを走っているという事実だ。

 ひいなの脚の動きがより細かく・速くなっていく。だが、ストライドは極限に伸びている。そのままピッチを上げているのだ。

 ピッチ走法の状態のまま、地面スレスレを低空飛行しているような、前方への推進力のバケモノのような境地に達している。

 勝負は、既にあった。

 ひいながとんびの5m先でゴールラインを飛んで行った。

「あー!ブチ抜くと気持ちいー!」
「うるせー、だまれ、ひいな坊」

 むっ、とするひいな。
 一個の人格を備えた女子として尊重されるべきひいなに対して『坊』などという愛称を未だにつけるとんびをひいなは憎々しく思っている。

「とんび。せめて、ひいな

って呼んでよ」
「なあにが『嬢』だよ。この坊ちゃん女子が」

 がっ、と、つま先でとんびの脛を蹴るひいな。蹴った瞬間に、足指の、親指と人差し指とで、つねった。

「痛ってえ!なんてえ、足指の力だよ」
「ふっふっふっ。とどのつまりとんびはわたしに一生勝てないのさ」
「だまれ、ひいな坊」

 ひゃひゃひゃ、と笑いながらクールダウンしているとひいなは後ろから声をかけられた。

「ひいな」
「はい、キャプテン」

 女子部キャプテンの小倉(こくら)がひいなの前に立った。男子ほどに背が高い小倉と小さなひいなが見つめ合うと、角度がちょうど45°になる。

「ひいな。そろそろ駅伝に出る気ないかな?」
「小倉キャプテン。わたしはシューズを履いたら走りがガタガタになります。トラックだから裸足で走れるんであって、土の地面でないアスファルトを、それも金属片やガラスのカケラなんかが実際に落ちているロードのレースを走るのはわたし自身も危険ですし、レースの順位を上げるお役には立てないと思います。むしろ足を引っ張るかと」
「うーん、ダメかあ・・・」
「すみません、キャプテン」

 ひいなは中距離の選手で、トラックで行われる5,000m、10,000mの両方ともで既にインターハイの出場権を得ていた。まだ二年生だが、今季のインターハイではチャンピオンを狙える位置に居た。

「とんび、一緒に帰ろ?」
「ああ、しょうがない」
「ちょっと待ってて。足、洗うから」

 水場で水道水を流し放しにして片足立ちでふくらはぎからアキレス腱、土踏まずのアーチ、足指まで手のひらで撫ぜるようにして洗うひいな。

「アイシングもしとかないとね」

 今度は水場に両足を浸け、蛇口のあたりにハムストリングスを近づける。より脚の付け根まで冷やすためにランニング用のパンツを手の指先でめくるひいな。

 思わず視線を外すとんび。

 ・・・・・・・・・

「あー。トレーニングの後の果汁100%は最高だな」

 家にたどり着いて着替えもそこそこに冷蔵庫のドアを乱暴に開けてオレンジ・ジュースの紙パックを取り出す。

 くっ、と顎を天井に向け、パックの注ぎ口に唇が触れないようにしてジュースの細い柱を口腔に注ぎ込む。

「ほらあ、ひいな!お行儀が悪い!」
「いいじゃない、母さん。この方が合理的だよ」
「屁理屈ばっかり。それからスリッパぐらい履きなさい」
「ううん。感覚を常に確かめておきたいんだ」

 ひいなは通学用に止むを得ずスニーカーを履く時もソックスを着けない。
 家ではソックスも、スリッパも使わない。
 夏も冬も、素脚に裸足で過ごす。

 けれどもひいなはとてもデリケートだった。

 お風呂から上がって自部屋に戻ると下着のままでベッドの上であぐらをかいて、足の手入れを始めた。

 たっぷりのオイルを擦り込む。

 トラックのラバーや、時に砂地を過酷に走るひいなの足裏は、けれども赤子の肌のように柔らかですべすべしていた。
 足指も、両方10本とも形よく健康にピンク色だ。

「キャプテンに悪いことしちゃったな・・・わたしもアベベみたいにフルマラソンを裸足で走れたらな」

 かつて裸足でオリンピックのマラソンを走り金メダルを獲った英雄にひいなは憧れを持っていた。
 それから、ランニング用のサンダルのみで裸足に近い状態で過酷な山岳コースを登り滑り落ちるように駆け下りるメキシコの走る民族にも。

 だが、ひいなが、芸術を愛でるように恋焦がれているのはアフリカの長距離女子選手たちのランニング・フォームだ。

「切り上がったお尻。直線に近いコンパクトな四肢。腕を胸に畳み込んだ美しいフォーム。高速ピッチなのに身長の倍ぐらい水平移動するような前方への推進力。まるでネコ科の猛獣が肉球でもって大地への衝撃を吸収し尽くして走るようなスムースさ」

 ふわわわ、とあくびした。

「なぜ、できない・・・このわたしよ・・・」

 ・・・・・・・・・・・

 寝落ちしたのかな、とぼんやりと寝ぼけたように考えていると天井のLEDを逆光にして人の輪郭が見えた。

「えっ・・・」
「目が覚めたか。ひいな」
「これって・・・霊現象?・・・」
「なに。わたしを霊魂だと」
「ち、違うの?」

 だが会話の内容とは離れて、ひいなが恐怖とは別に抱いていた感情は単なる二者択一の疑問だった。

『この人は、男?女?』

 じっと観察する。
 ベッドで仰向けに見上げるひいなを見下ろす小さな顔はLEDの逆光で輪郭の黒い線が強調されているけれども、もうひとつ強調されているものがあった。

 まつ毛が、とても長い。

 ひとつ気付くともうひとつ気付いた。
 それから、次次と。

 唇が、潤っている。
 顎の線が華奢。
 首が細い。
 肩が可憐。
 胸が薄い。
 ひいなの両頬の脇でベッドのやわらかな布の上に突き立てられている腕が。
 長い。

 女だと断定できるとひいなは安心した。警戒心を解いたひいなの心の動きは即座に『彼女』に伝わる。

「女のひとなんだね」
「ああ、そうだ」
「じゃあ、安心」
「変わった女子だな、ひいなは。わたしが誰とか、どうでもいいのか?」
「誰?」
「ひいな。そなたの婆の婆の婆のそのまた婆の、もっと婆だ」
「むずかしいな。つまり、わたしのおばあちゃん?」
「ずっと、昔のな」
「でも、若いね。わたしよりもずっと幼く見える。幾つ?」
「数えで15だ」
「うわっ。犯罪だ・・・」
「はんざい・・・咎?」
「ああでもその言い方は、おばあちゃんだ」
「ひいな」
「なに」
「わらわは、華乃(カノ)。何代も前のそなたの先祖だ」
「そうだと思った」
「なぜ」
「だって。わたしとおんなじで、ちっこいから」
「ふ」
「なにしに来たの」
「そなたは速く走りたいのであろう」
「うん」
「どのくらい」
「えー。うーん、取り敢えずはオリンピックの選手ぐらいに」
「距離は」
「10,000m」
「それは何里(なんり)だ」
「えっと・・・1里が確か4kmちょっとだから・・・二里と少しかな」
「二里あまりか。たったそれだけでよいのか?」
「えっ?」
「わらわは五十里駆けたぞ。朝出立して夕刻までに」
「えっ」

 ひいなはしばらく脳内で計算してみた。

 最低でも200km以上走ったということだ。不可能ではないだろう。フルマラソンを2時間で走破できる男子トップランナーはザラにいる世だ。
 それにウルトラマラソンと呼ばれる超長距離のレースで英雄と呼ばれるアスリートならばできるだろう。

 だが、目の前にいる婆と自称する華乃は、数え年15、つまり満で言えば14歳だという。

 しかも、小柄なひいなよりも更に一回り小さく見える。

「嘘だ」
「嘘ではない」
「嘘だ嘘だ嘘だあっ!嘘だと言って?」
「どうしたのだ、ひいな」
「だって・・・これ以上できない、っていう努力をしてわたしは今のランニングフォームを固めた。今のスピードを得た。華乃の言うことが本当だとしたら努力がまだまだ身になっていないってことになる」
「座ってもよいか」

 華乃はひいなの両頬をかすめるように突き立てていた両腕を解いた。ふたりはベッドの上で隣同士に並んで座る。ひいながしおらしく肩幅をさらに狭めて問いかけた。

「どこを走ったの?ロード?トラック?」
「なんだそれは」
「あ、そっか・・・ええと、道を走ったの?」
「平坦ではないがな。山道だ」
「ふうん・・・トレイルか・・・岩場?」
「岩場、砂利、ぬかるみ、すべてあったな。イクサバだからな」
「イクサバ?」

 ひいなは漢字変換を何度か繰り返して、あっ!と言った。

戦場(イクサバ)!」
「そうだ。わらわは戦場を駆けた。領民を守るために。わらわの父親は国の棟梁だったのだ」
「えらいの?」
「人格はさておき地位は偉い」

 ああ、確執があったのだとひいなは了解した上で華乃の話を聞いた。

「わらわの任務はの、兄が敵と対峙しておる戦場に爆薬の導火線を届けることだった。その最新式の導火線は開発が遅れに遅れ、あわや兄のその無能な指揮によって部隊が全滅せんとする状況にギリギリ間に合うかどうかという頃合いで完成したのじゃ」

 兄とも確執があったと分かったが、ひいなは素朴な疑問をぶつけた。

「導火線がそんなに重要なの?」
「そうだ。わらわの国は爆薬での戦術を得意としており、その導火線は爆発の間隙を緻密に計算できるものだった。仕掛けられる刻限に間に合わせるためには獣道を使ってでも最短距離を行く必要があった。国で一番脚の速いわらわが走って行くしかなかったのだ」
「馬は?」
「山林の狸か熊しか通れぬ道では無理であろう」
「それで・・・間に合ったの?」
「わからぬ。現地にたどり着き、敵の大将に大音声でわらわ自らが語りかけたところまでしか覚えておらん」
「ふうん・・・ところで、華乃はなんなの?」
「婆だと言ったが」
「そうじゃなくて。幽霊?それとも実体?」

 そう言ってひいなは薄く柔らかげな黒い布でできた袖のないまるでタンクトップのような着物から出ている華乃の二の腕をさわろうとしたが、すり抜けた。やや驚いたひいなを見て華乃自身が分析した。

「ふむ。実体ではないようだ。だが、霊魂とも思えぬ」
「は・・・ははは」

 曖昧に笑うひいなの目に、実体ではない華乃の眼球が向けられた。
 華乃が自ら分析する。

「ひいな。こういう話を知っておるか。(いにしえ)の武将が敵地へ赴く山中の行軍の跡を、横笛を吹くことを生業とする楽師がずっとついて来たという。武将は勇猛で知られる人物であったが笛の達人でもあり、秘伝の曲をまだ誰にも伝えていなかった。死地へ赴く武将から楽師は秘伝の曲を伝授されたいと慕って跡を追ったのだ。武将は果たして山中で人を遠ざけ、盾を地面に敷いて二人で座り、笛を吹き秘伝の曲を伝えた。名残を惜しむように楽師は涙を流し礼を言って山を降りて行ったという」
「すごい話だね」
「ひいな。そなたの『速く走りたい』という一念が、その戦場の絶体絶命の状況にあるわらわの精神を呼び寄せたのかもしれぬな」

 だが、ひいなは不満だった。
 華乃の物言いがランニングについて自信に満ち溢れ、ひいなよりも数段上のレベルであるという前提での発言だからだ。悔し紛れにひいなは訊いた。

「わたしはいつも裸足で走ってるわ。整地された地面ではあるけどね。華乃は?まさか裸足じゃないでしょ?」
「裸足ではない」

 ひいなは少し自信を取り戻した。だが、次の瞬間にもっと深い嘆きの谷に突き落とされた。

足袋(たび)だ」
「た、足袋っ!?」

 どうした?という表情で華乃はひいなの視線に視線を合わせる。ひいなはだが質問を続けるしかなかった。

「い、岩場を足袋で?」
「ああ。その代わりわらわが自分で設え(しつら)た特別な仕様のものだ。それを100足用意した。足の裏の布地の接地に違和感を感じたらすぐさま履き替えてな」
「あ、足を怪我したりは?」
「獣は足袋すら履いとらんが野山を全力で駆け回っても怪我などせぬぞ?要は全神経を走りに集中できるかどうかだ」
「ご、ごめん!あ、足を見せてっ!」

 触ることはできないので華乃は足袋を脱いで素足をひいなに見せてやった。

 ひいなはため息を何度もついた。
 触れられないことが残念なぐらいに美しい脚、そして足の踵からつま先までのフォルムだった。

 毎晩ケアしている自分の脚と足よりもはるかに整ったフォルムと華奢だが強靭なしなやかさを持った足指。
 おそらく男ならば、なんとしても触れたいと思うであろう純度の高い滑らかさを持つ足裏。

「か、華乃」
「なんだ、ひいな」
「わたしに走り方を教えて?」
「・・・ああ。おそらくそれがそなたの祖先としてのわらわの勤めなのだろうな。だが、肝心なことをそなたに訊くが、よいか」
「う、うん・・・」
「そなたは、何のために走るのだ?」


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