第14話 ひそかに護り居るもの
文字数 4,487文字
最後のランを走り切ったひいなは、寸暇を惜しんだ。翌日にはもう不動明王と一対一で向き合う時間をスタートさせたいと思った。
だが、ひいなは僧侶ではない。
あくまでも、『ランナー』として比叡山の山中を走ることを許されたのだ。したがって、正式な形での堂入りは叶わぬことだと最初から分別していた。
だからこそ、柔軟な発想が生まれた。
これは師匠である桐谷 の大胆な提案である。
「ひいな。川のほとりの観音堂の隣の、お地蔵様のその後ろに、不動明王がおわす」
そう言った後、静かに言い放った。
「屋外だ」
是非も否応もない。
それ以外にないからそうするまでのことだった。
ひいなは1人用のテントの貸し出しを受け、いつもの死装束で、いわば『在野』の不動尊のもとへと向かった。
春ならば桜の咲く川縁の遊歩道。
そのすぐ隣にこのお不動がおられた。
姿形としては石仏のようで、前に並んでおられるお地蔵さまほどの背丈だ。
剣を持っておられる。
お立ちになっておられる場所は、お地蔵さまの背後。
後ろに控えて、そしてこの街の安寧を護っておられるのだという。
時としてその剣で悪を断ち切るような厳しさで。
お不動のちょうど正面にテントを張る。これで寒風や夜露をしのぐことができる。
そして、テントの前の地面にそのまま結跏趺坐で座り、印を結んで唱えた。
「ノウマク・サンマンダバサラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
それをひたすらに繰り返した。
たった今から9日間、食事も摂らず、水も飲まず、眠ることも、横になることもせずに、ただひたすらに不動明王に向かい、真言を唱え続ける。
正式な僧侶でもない、行者でもない、ただの走る女であるひいな。
Born Runner Female であるひいな。
日が暮れて闇になった。
この場所は人通りが少ない。
わずかに川の土手を歩くひとたちの視界に入る程度で、その闇の中で純白の死装束を身に纏うひいなに対して接触を試みる無謀な人間はいなかった。
夜が更けていけばひいなを亡霊と恐れわななく人すら出てくるだろう。
この四年間、弛緩することなく日々を過ごして来た。
山中を走り、日々の食事すら節制の極みだった。それはランと、正式な行者でないランナーであるひいなの最後のそれでもやはり『行』である9日間に渡る死を賭した営み。
初日の夜、夜通し真言を唱え続けていた。女子ではあるが、この荒行に挑みかけるスタンスを保つためにずっと結跏趺坐で座していた。
凍死の危険があるほどまで気温が下がってきた明け方にはテントに入って同じように股を晒す姿で座り、開け放ったテントの入り口から不動明王を唱え続けた。
猛烈な睡魔が訪れたが、長い睫毛を、ぱち、ぱち、ぱち、と三度可憐に動かすと、静かに眠気は消えていった。
「おなかすいたな」
小さな声で真言を唱える中にそういう女子らしい言い様でのつぶやきを入れると、自分の顔がホテルラウンジのハイティーで思いつく限りのスイーツを前にした時のような笑みをこぼしているのが分かった。
ただ、口で「おなかすいたな」と言ってみるのみであって、四年間の節制を経てきているので、不思議と空腹は感じなかった。
だが。
「かゆい」
虫刺されではない。
風呂に入らないからのかゆみでもない。
喉と気管支の境目あたり、ちょうど声帯が位置する部分であろうか、乾いて乾いて仕方がなかった。
それをかゆいと感じた。
水を飲まない。
それはきっと生物としての存在を放棄する行為ではなかろうか。
生きるという意志を放棄する行為ではなかろうか。
なぜにこのような苦行を仏道に賭ける先達が思いついたのか。
だが、ひいなにはそれをも深刻には捉え切らないのどかさがあった。
くっ、と顎を上に向けて、白く細い喉元を不動明王の正面に晒す。
そのまま真上に向け、唇を、ぱかっ、と大きく開けた。
何を言うかと思ったら。
「ここに雨が入って来てもそれはわたしのせいじゃない!」
そう言って、けらけらと独り笑いした。
3日を過ぎ、4日を過ぎ、5日目。
折り返しの日だ。
昨日、一昨日は激しい雨が降ったので、まさしく天に向かって口を開けていれば、ひいなのルールによると『雨が勝手に口に入って来たんだから水を飲んだことにはならない』という理屈だったが、ひいなはそうせずにテントの中で座して真言を唱え続けた。
晴れ間に、お手洗いへ行った。
土手の上の50mほど離れた場所に公衆便所があるのだ。
和式便所にしゃがみ、小用を足し終わると何気なく白い陶器に視線を下ろした。
「血だ・・・」
それは、月ごとの女子の血ではない。
血尿だった。
だが、ひいなは驚かなかった。師匠である桐谷から血尿が出るが驚く必要はないと教わっていたのだ。
桐谷も同様に9日間水を絶った行を行ったわけだが、やはり血尿が出たという。それは人間が体内に生成された毒素を外に放出するためには尿を出すことは必然で、水を飲まないのであれば、血管を流れる血を水分として使うほか無く、血に毒素をまぜて体外に放出しようとするために、尿が血に染まるのだ。
ひいなは驚かないだけではなく、こんなことすら思った。
「わたしもこれで一人前だ」
ひいなは陸上部の中距離選手として競技を極めるにあたり、メンタルをも誰よりも鍛えてきたという自負があった。そもそも裸足で走ることに対して周囲の好奇の目を黙らせるためにメンタルをぶっとく太らせて来た。
その中で本を読んだ。
読む本はアスリートのものではなかった。
戦後以来、『偉大』と呼ばれた実業の経営者たちの経営書だった。
その中にあり得ぬエピソードをひいなは見つけていた。
『社長ならば血の小便が出るほどに悩み尽くし考え尽くさんとあかん』
間違いなく中二病であるこの経営者の言葉を、だが決してひいなは小馬鹿にしたりしなかった。むしろそれは本当のことだと思っていた。
もちろん、苦労自慢になることほど愚かなことはない。だが、心身の困苦を一切伴わずして成功する人間がもし本当に存在したとしたら。
そんな成功は虚しいだけではないか。
合理的なトレーニングを繰り返し、最大効率で身になる努力をひたすらしたというだけでの成果だとしたら。
ひいなはそういうものにはあまり魅力を感じなかった。
辛酸。
それを経ない栄光には興味はなかった。
血尿を出すということは、ひいなにとってとても象徴的な、辛酸の証だったのだ。
「おい。あれ、女じゃねえか?」
7日目の深夜。
ひいなが眠気を払うために、また三度、長いまつ毛を、ぱち、ぱち、ぱち、と動かしていると、土手の方から男の声がした。
バイクの排気音とアクセルを空砲のように空回しする音も聞こえた。
何人もいるようで、その男の声に他の男たちが呼応する。
「ほんとに女かあ?ホームレスのオヤジじゃねえの?」
「行ってみるべ」
今時希少な、小規模な暴走族のグループだった。
男たちはバイクを土手に置いて、ひいなが結跏趺坐をしている場所まで突然奇声を発したりしながら歩いてきた。
「ヒョホー!女の子ちゃんだぜ!」
「ねえ、キミ、何歳?」
ひいなは振り返ることもせず、真言を唱え続けた。
「ねえ、狂ってんの?」
相手にしない。
相手にしないでいると、一番最初に『女じゃねえか?』と言った男が『観世音菩薩』と朱塗りに白字の幟 を引き抜いて地面に放り捨て、その土台となっていたコンクリートブロックを一個、片手で持ち上げた。
「ねえ。無視するんならこの石コロ、ブロックで砕いちゃうよ」
男は『石コロ』と呼ばわった不動明王の真上でコンクリートブロックを構えた。
ひいなはゆっくりと立ち上がって男に向かい、言った。
「なにがしたいの」
「ナニがしてえ」
男たちが爆笑する。
だが、ひいなは真顔で、眉も、頬の筋肉も全く動かさずに、言った。
「すればいい」
男の顔が険しくなる。男もひいなに真顔で言った。
「本気じゃないと思ってるんだな。俺は、何をするにも本気だ。ナニをするのにもな。俺が『殺す』って言ったら冗談だと思ってヘラヘラ笑ってた奴が居た。俺はほんとにナイフでそいつの胸を刺した」
「・・・・・・」
「死ななかったが、そいつは刺されて初めて俺が本気だって知ったろうよ。バカが」
その場にいる男たちはある意味全員真面目だった。真面目に悪党だった。
本気に悪党だった。
だからひいなも本気で言った。
「すればいい。わたしはそれでも真言をやめない」
「真言、ってその呪文か?ふ。無理だ。俺にナニを突き立てられて善がって善がって呪文など唱えられないぐらいに気持ちよくしてやるよ」
「わたしは本気で言ってる。したいんならすればいい」
「そうしたら俺がその石コロの仏を壊さないと約束するって思うのか?」
「知らない。多分あなたの性根ならばわたしを犯した後でやっぱり不動明王を壊すかもしれない」
「ふ。達観したつもりかよ」
「達観などしてない。今も怖くて堪らない。でも現実にこうしてわたしは犯されようとしてる」
「ものわかりがいいな」
「どうすることもできないだけ。それに、わたしが今あなたに蹂躙されたら、多分わたしは死ぬと思う」
「なんだ。舌でも噛み切るのか」
「そんなことせずとも死ぬと思う。わたしはこの7日間何も食べていないし水も一滴も飲んでいない。いつ死んでもおかしくない状態。あなたに乱暴されたら衰弱したわたしのカラダはとても耐え切れないと思う」
「ぷ。そんなんなら呪文を唱え続けることもできないじゃないか」
「いいえ。唱え続ける。この荒行は不動明王とわたしが一体になることが目的。そのために飲まず食わずで死地へと自分を追い込む」
「中二病がぁ」
「中二病で構わない。今、わたしは既に不動明王と一体となっている。そのわたしを犯すということは不動明王を犯すことにほかならない。すればいい」
「脅してるのか」
「脅しじゃない。言ったでしょう?わたしは本気だと。中二病だと。わたしは奇跡などを信じてるんじゃない。ただ冷徹に事実を言っているだけ。不動明王を犯したら、あなたは五体満足でいられるかしらね」
「この野郎・・・」
「わたしはお風呂に入ってないから、多分臭い。我慢して」
くそが!と怒鳴り、男はぞんざいに腕を伸ばしてひいなの死装束の胸をこじ開けた。
サラシで押さえつけられた乳房の谷間に挿した懐刀が男たちの目に入った。
「やめろ」
一番背が低く幼い顔をした少年が男を制した。
ひいなはその少年に話しかける。
「あなたがリーダーね」
「そうだ」
「あなたは、できる?」
「いや・・・」
少年はひいなの懐刀に視線を向けたまま呟いた。
「俺はまだ死にたくない」
そう言って、ザッ、と背中を向けて、行くぞ!と全員に号令をかけた。
「だが!」
「『行くぞ』と俺が言っている」
少年がそう言うと、男はコンクリートブロックを砂利に叩きつけて、そして土手の方に戻って行った。
ほ・・・と乾き切った唇から安堵の息を漏らし、衰弱してふらふらするカラダを支えながら不動明王に合掌した。
あと、2日。
だが、ひいなは僧侶ではない。
あくまでも、『ランナー』として比叡山の山中を走ることを許されたのだ。したがって、正式な形での堂入りは叶わぬことだと最初から分別していた。
だからこそ、柔軟な発想が生まれた。
これは師匠である
「ひいな。川のほとりの観音堂の隣の、お地蔵様のその後ろに、不動明王がおわす」
そう言った後、静かに言い放った。
「屋外だ」
是非も否応もない。
それ以外にないからそうするまでのことだった。
ひいなは1人用のテントの貸し出しを受け、いつもの死装束で、いわば『在野』の不動尊のもとへと向かった。
春ならば桜の咲く川縁の遊歩道。
そのすぐ隣にこのお不動がおられた。
姿形としては石仏のようで、前に並んでおられるお地蔵さまほどの背丈だ。
剣を持っておられる。
お立ちになっておられる場所は、お地蔵さまの背後。
後ろに控えて、そしてこの街の安寧を護っておられるのだという。
時としてその剣で悪を断ち切るような厳しさで。
お不動のちょうど正面にテントを張る。これで寒風や夜露をしのぐことができる。
そして、テントの前の地面にそのまま結跏趺坐で座り、印を結んで唱えた。
「ノウマク・サンマンダバサラダン・センダ・マカロシャダ・ソワタヤ・ウンタラタ・カンマン」
それをひたすらに繰り返した。
たった今から9日間、食事も摂らず、水も飲まず、眠ることも、横になることもせずに、ただひたすらに不動明王に向かい、真言を唱え続ける。
正式な僧侶でもない、行者でもない、ただの走る女であるひいな。
Born Runner Female であるひいな。
日が暮れて闇になった。
この場所は人通りが少ない。
わずかに川の土手を歩くひとたちの視界に入る程度で、その闇の中で純白の死装束を身に纏うひいなに対して接触を試みる無謀な人間はいなかった。
夜が更けていけばひいなを亡霊と恐れわななく人すら出てくるだろう。
この四年間、弛緩することなく日々を過ごして来た。
山中を走り、日々の食事すら節制の極みだった。それはランと、正式な行者でないランナーであるひいなの最後のそれでもやはり『行』である9日間に渡る死を賭した営み。
初日の夜、夜通し真言を唱え続けていた。女子ではあるが、この荒行に挑みかけるスタンスを保つためにずっと結跏趺坐で座していた。
凍死の危険があるほどまで気温が下がってきた明け方にはテントに入って同じように股を晒す姿で座り、開け放ったテントの入り口から不動明王を唱え続けた。
猛烈な睡魔が訪れたが、長い睫毛を、ぱち、ぱち、ぱち、と三度可憐に動かすと、静かに眠気は消えていった。
「おなかすいたな」
小さな声で真言を唱える中にそういう女子らしい言い様でのつぶやきを入れると、自分の顔がホテルラウンジのハイティーで思いつく限りのスイーツを前にした時のような笑みをこぼしているのが分かった。
ただ、口で「おなかすいたな」と言ってみるのみであって、四年間の節制を経てきているので、不思議と空腹は感じなかった。
だが。
「かゆい」
虫刺されではない。
風呂に入らないからのかゆみでもない。
喉と気管支の境目あたり、ちょうど声帯が位置する部分であろうか、乾いて乾いて仕方がなかった。
それをかゆいと感じた。
水を飲まない。
それはきっと生物としての存在を放棄する行為ではなかろうか。
生きるという意志を放棄する行為ではなかろうか。
なぜにこのような苦行を仏道に賭ける先達が思いついたのか。
だが、ひいなにはそれをも深刻には捉え切らないのどかさがあった。
くっ、と顎を上に向けて、白く細い喉元を不動明王の正面に晒す。
そのまま真上に向け、唇を、ぱかっ、と大きく開けた。
何を言うかと思ったら。
「ここに雨が入って来てもそれはわたしのせいじゃない!」
そう言って、けらけらと独り笑いした。
3日を過ぎ、4日を過ぎ、5日目。
折り返しの日だ。
昨日、一昨日は激しい雨が降ったので、まさしく天に向かって口を開けていれば、ひいなのルールによると『雨が勝手に口に入って来たんだから水を飲んだことにはならない』という理屈だったが、ひいなはそうせずにテントの中で座して真言を唱え続けた。
晴れ間に、お手洗いへ行った。
土手の上の50mほど離れた場所に公衆便所があるのだ。
和式便所にしゃがみ、小用を足し終わると何気なく白い陶器に視線を下ろした。
「血だ・・・」
それは、月ごとの女子の血ではない。
血尿だった。
だが、ひいなは驚かなかった。師匠である桐谷から血尿が出るが驚く必要はないと教わっていたのだ。
桐谷も同様に9日間水を絶った行を行ったわけだが、やはり血尿が出たという。それは人間が体内に生成された毒素を外に放出するためには尿を出すことは必然で、水を飲まないのであれば、血管を流れる血を水分として使うほか無く、血に毒素をまぜて体外に放出しようとするために、尿が血に染まるのだ。
ひいなは驚かないだけではなく、こんなことすら思った。
「わたしもこれで一人前だ」
ひいなは陸上部の中距離選手として競技を極めるにあたり、メンタルをも誰よりも鍛えてきたという自負があった。そもそも裸足で走ることに対して周囲の好奇の目を黙らせるためにメンタルをぶっとく太らせて来た。
その中で本を読んだ。
読む本はアスリートのものではなかった。
戦後以来、『偉大』と呼ばれた実業の経営者たちの経営書だった。
その中にあり得ぬエピソードをひいなは見つけていた。
『社長ならば血の小便が出るほどに悩み尽くし考え尽くさんとあかん』
間違いなく中二病であるこの経営者の言葉を、だが決してひいなは小馬鹿にしたりしなかった。むしろそれは本当のことだと思っていた。
もちろん、苦労自慢になることほど愚かなことはない。だが、心身の困苦を一切伴わずして成功する人間がもし本当に存在したとしたら。
そんな成功は虚しいだけではないか。
合理的なトレーニングを繰り返し、最大効率で身になる努力をひたすらしたというだけでの成果だとしたら。
ひいなはそういうものにはあまり魅力を感じなかった。
辛酸。
それを経ない栄光には興味はなかった。
血尿を出すということは、ひいなにとってとても象徴的な、辛酸の証だったのだ。
「おい。あれ、女じゃねえか?」
7日目の深夜。
ひいなが眠気を払うために、また三度、長いまつ毛を、ぱち、ぱち、ぱち、と動かしていると、土手の方から男の声がした。
バイクの排気音とアクセルを空砲のように空回しする音も聞こえた。
何人もいるようで、その男の声に他の男たちが呼応する。
「ほんとに女かあ?ホームレスのオヤジじゃねえの?」
「行ってみるべ」
今時希少な、小規模な暴走族のグループだった。
男たちはバイクを土手に置いて、ひいなが結跏趺坐をしている場所まで突然奇声を発したりしながら歩いてきた。
「ヒョホー!女の子ちゃんだぜ!」
「ねえ、キミ、何歳?」
ひいなは振り返ることもせず、真言を唱え続けた。
「ねえ、狂ってんの?」
相手にしない。
相手にしないでいると、一番最初に『女じゃねえか?』と言った男が『観世音菩薩』と朱塗りに白字の
「ねえ。無視するんならこの石コロ、ブロックで砕いちゃうよ」
男は『石コロ』と呼ばわった不動明王の真上でコンクリートブロックを構えた。
ひいなはゆっくりと立ち上がって男に向かい、言った。
「なにがしたいの」
「ナニがしてえ」
男たちが爆笑する。
だが、ひいなは真顔で、眉も、頬の筋肉も全く動かさずに、言った。
「すればいい」
男の顔が険しくなる。男もひいなに真顔で言った。
「本気じゃないと思ってるんだな。俺は、何をするにも本気だ。ナニをするのにもな。俺が『殺す』って言ったら冗談だと思ってヘラヘラ笑ってた奴が居た。俺はほんとにナイフでそいつの胸を刺した」
「・・・・・・」
「死ななかったが、そいつは刺されて初めて俺が本気だって知ったろうよ。バカが」
その場にいる男たちはある意味全員真面目だった。真面目に悪党だった。
本気に悪党だった。
だからひいなも本気で言った。
「すればいい。わたしはそれでも真言をやめない」
「真言、ってその呪文か?ふ。無理だ。俺にナニを突き立てられて善がって善がって呪文など唱えられないぐらいに気持ちよくしてやるよ」
「わたしは本気で言ってる。したいんならすればいい」
「そうしたら俺がその石コロの仏を壊さないと約束するって思うのか?」
「知らない。多分あなたの性根ならばわたしを犯した後でやっぱり不動明王を壊すかもしれない」
「ふ。達観したつもりかよ」
「達観などしてない。今も怖くて堪らない。でも現実にこうしてわたしは犯されようとしてる」
「ものわかりがいいな」
「どうすることもできないだけ。それに、わたしが今あなたに蹂躙されたら、多分わたしは死ぬと思う」
「なんだ。舌でも噛み切るのか」
「そんなことせずとも死ぬと思う。わたしはこの7日間何も食べていないし水も一滴も飲んでいない。いつ死んでもおかしくない状態。あなたに乱暴されたら衰弱したわたしのカラダはとても耐え切れないと思う」
「ぷ。そんなんなら呪文を唱え続けることもできないじゃないか」
「いいえ。唱え続ける。この荒行は不動明王とわたしが一体になることが目的。そのために飲まず食わずで死地へと自分を追い込む」
「中二病がぁ」
「中二病で構わない。今、わたしは既に不動明王と一体となっている。そのわたしを犯すということは不動明王を犯すことにほかならない。すればいい」
「脅してるのか」
「脅しじゃない。言ったでしょう?わたしは本気だと。中二病だと。わたしは奇跡などを信じてるんじゃない。ただ冷徹に事実を言っているだけ。不動明王を犯したら、あなたは五体満足でいられるかしらね」
「この野郎・・・」
「わたしはお風呂に入ってないから、多分臭い。我慢して」
くそが!と怒鳴り、男はぞんざいに腕を伸ばしてひいなの死装束の胸をこじ開けた。
サラシで押さえつけられた乳房の谷間に挿した懐刀が男たちの目に入った。
「やめろ」
一番背が低く幼い顔をした少年が男を制した。
ひいなはその少年に話しかける。
「あなたがリーダーね」
「そうだ」
「あなたは、できる?」
「いや・・・」
少年はひいなの懐刀に視線を向けたまま呟いた。
「俺はまだ死にたくない」
そう言って、ザッ、と背中を向けて、行くぞ!と全員に号令をかけた。
「だが!」
「『行くぞ』と俺が言っている」
少年がそう言うと、男はコンクリートブロックを砂利に叩きつけて、そして土手の方に戻って行った。
ほ・・・と乾き切った唇から安堵の息を漏らし、衰弱してふらふらするカラダを支えながら不動明王に合掌した。
あと、2日。