第15話 日に向かって走るべし

文字数 2,214文字

 9日目。

 最後の夜。

 ひいなははや自分の肉体というものがとろけて消えてしまったのだろうという感覚にあった。

 眠気はもはや意識にすらなく、衰弱していく過程でも意外なほど無意識でいられた。
 苦しい、という感覚をどこかのラインで通り越していたのだろうと自己分析した。

 今自分は白の死装束を身につけている。

 三途の川や死出の山、魂はひとり旅の空。

 もしこの下履きの白いズボンが、仮にスカートだったとしても、無造作に結跏趺坐して恥じらいなども持たないだろう。

 意味がないから。

 もはや自分の身も誰のものかわからぬ感覚で麻痺してしまい、意識すら自分のものではない。

 決して投げやりな意味ではなく、ココロから『どうでもいい』と思えた。

 向き合い、真言を唱え続けていた不動明王の石像が、だんだんと二重にみえ三重に見え、そのうちにぼやけて輪郭が分からなくなった。
 溶け出した輪郭が、別の輪郭に変わっていく。

「ああ・・・なつかしい・・・」

 華乃(かの)のバストアップの映像だった。5年前と少しも変わらない。
 自分が高校二年生で華乃が現れてくれたその時、ひいなの感情は、『可憐ね・・・』そういう羨ましさを持ったものだった。その可憐な少女のままの姿の華乃は、声まで発した。

『ひいな。元気か』

 元気だよ、と声にならずに乾き切り襞という襞がひび割れて血が滲んでいる唇で、清浄な、でも激情な存在である華乃に返事をした。

『そうか。ならばよい』

 幻視だろうか。
 幻聴だろうか。

 身体が限界を超えたので脳の活動が自由化し、こういう映像や音声を勝手に脳内で作り出すのだろうか。

 仮にそうだったとしても、ひいなはそれを科学的に分析しようなどという野暮さは持ち合わせていなかった。

 だって、目の前にいるのだから。

 それが脳の作り出す幻視・幻聴だったとしても、そのための脳内物質の分泌等を自分の脳に促す存在と、理由とがあると強く感じた。

『南無不動明王』

 お不動さまのてほどきにほかならないと、ひいなは事実を認めた。

「ようやく遭えた。華乃。嬉しい」

 ひいながにこりと笑顔もどきの表情を作ると、華乃も笑い返してくれた。

「ひいな、わらわの願いをきいておくれ」
「なに」
「一緒に走ってほしい」
「華乃・・・わたしはこれ以上あり得ないだろうというランをこの比叡山のお山でやってきた」
「わかる」
「華乃が戦場で両親を殺された赤子を背負い、激戦の地まで駆け、さあ、これからだ!というイメージは思念できた。華乃。わたしのこの4年間のランは、あなたと一緒に走る資格をもらえるようなランだったの?」
「それはひいなが決めること」
「お願い。華乃。教えて。千日の命懸けのランを走り切って、そして今こうして命が尽きようとする不思議な感覚になった9日間の食べず、飲まず、寝ず、横にならず、の苦行が明けようとしているこのわたしは、本当にあなたと一緒に走る資格を貰えるの?」
「もう一度言う。それは、ひいなが、決めること」
「意地悪しないで」
「ひいな」

 幻視に抱かれた。
 でも、すり抜けずに、華乃の筋肉と柔らさが交互に感じられる腕がひいなの脇の下から差し込まれて抱きしめられ、華乃の小さな手の平がひいなの背骨あたりをまさぐると、それは実体のあるほんとうのことだとしか思えなかった。
 その上で、ひいなは華乃に甘えた。

「ひとことでいい。ひとことでいいから、(ねぎら)って?」
「・・・ひいな」
「はい」
「そなたは『走る人』だ。ひいながわらわに教えてくれた西洋の語彙、『ランナー』だ。そなたはどこまで行ってもランナーであり、そのランで誰かの嘆きを溶かしていく」
「・・・・・嬉しい」
「わらわは世辞は決して言わない。そなたのランは美しい。かつ苦悩に満ちている。わらわの方こそそなたと一緒に走りたいのだ。そなたのランが好きなのだ」

 正座をして向き合い、ひいなと華乃はしばらく抱擁し合った。
 十分に互いの肌から滋養を自らの皮膚に浸透させた上で、華乃は立ち上がった。

「出発地点で待っている」

 朝露が溶けるように、華乃の姿と声が消えた。

「わかった。すぐに行く」

 満願の朝だ。

 きれいにテントを畳んで担ぎ、まっすぐに立ち上がった。

 短い髪は少しだけ伸びて。
 頬はこけたが却って精悍さと可愛らしさが増し。
 薄かった胸は更に胸囲を縮めたが、その分サラシをきつく巻いてほぼ起伏も消えてしまった乳房と乳房のあばらすら浮き上がった浅い谷間に懐刀(ふところがたな)を差し込んだ。

 白の下履きの裾を、ハムストリングスの上まで器用にくるくるとめくりあげる。

 白いショート・パンツと同様の形状になる。

 脚は伸ばしたままで上半身を折り畳み、摩耗して面積が半分になった草鞋の縄を片手でしかもワンストロークで外す。

 足袋も、神楽(かぐら)(さくら)を死なせたレースの時のように、ワンストロークで脱ぎ去り、生の足を朝の冷気で冷えた地面に着けて、その地面の起伏に形を変えられてしまう柔らかさの足裏と土踏まずをなじませる。

 足の指を、クン、と上方に反らす。

 背筋を極限までにまっすぐに伸ばす。

 印を結んだ。

「南無不動明王!どうぞわたしのランを、あなたのご意向のままに!」

 二の句を告げる。

「わたしのランを遍く日本国中の人たちを救い尽くすために!わたしのランを世界平和のために!御使役を!」

 最後に、三の句を告げる。

「なにとぞ、華乃と共に!」

 パン、パン、と手を打って、そしてグラグラになった自分の足で土手をランし始めた。
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