第3話 闘う女

文字数 2,223文字

 ひいなは怒りのままに走る。
 普通どんなに怒っていようとも身体はそれに追いつかず、犯罪被害者やテロの犠牲者や戦争で瞬時に爆弾で殺されたひとたちは、抗うことのできぬ自分の無念さを思いながら死んでいったはずだ。

 だからこそ、ひいなは、そうするわけにはいかなかった。

 せめて、ランという、自分の肉体のみでもって闘うこの局面において、ましてやアスリートの端くれだという自負を持って生きてきた自分が自分のカラダすら自らの意思ですり減らして消し尽くす前に、前方を走るたったひとりの女の駆け引きに陥れられたその無念の歯ぎしりでもって終わるわけにいかなかった。

 死したひとたちに顔向けできないとすら思った。

『華乃は、領民の歯ぎしりを我が身に引き当てて走った。一国が滅ぼされる無念さを持って走った!』

「ゆ・る・さ・んーっ!」

 ひいなの怒声を背中で聞いて前を向いたまま神楽も怒鳴る。

「バカかあ!」

 神楽はひいなを狂っていると思った。
 今までレースで神楽が対峙してきたのはオリンピックのメダリスト、世界選手権の覇者、レースを主な収入源とし世界を転戦するプロのランナー、そういった者どもを、フィジカルの走りと姑息一歩手前の駆け引きとで滅ぼし尽くしてきた。その結果での高校3年生での京都のアンカーなのだ。

 駅伝の絶対女王なのだ。

 だが、ホンモノのクレイジー・ランナーとの遭遇はおそらくひいなが初めてだった。

 だから、更にもう一歩踏み込んだ攻撃を、神楽自身も決断した。

 糞、糞、糞、と呪文のように唱えながらストライドを通常の2倍に伸ばし、その流れるように素足の裸足の足裏と足指へのプロネーションでアスファルトや、それから小石、砂、あるいは目視できぬほどの金属片やガラス片の衝撃をも吸収し尽くして走るひいな。

 年頃のギャラリーたちは生の走りと中継される画像とを見ながら、ひいなの素裸の脚と足とを性的な対象物とすら見做すような視線を送っていたし、事実ひいなは美しかった。

 だが、その実のひいなは、口元に一番汚い言葉を連呼しながら高速走行する。

 いや、それはもはや飛行のレベルだった。

 着地の瞬間に一瞬にしてピンクの足裏でアスファルトをなぞり、0.000001秒後には整った形の、そしてこの日のために透明なペディキュアをコーティングのように塗った艶のある爪先と足指で大地を蹴って低空スレスレを前方にすっ飛んでいる。

 ここで特筆すべきは、遂に神楽が僅かながら失速したことだ。

 神楽にとってはひいなの走っている今の動機が全く知れず、まさかテロや戦争で死した者たちへのシンパシーだなどと思いもよらぬために、とうとうメンタルに支障をきたし始めたのだ。

 だが、ちょうどいいと思った。

 自分の失速のタイミングで、それを実行しようと神楽は思った。

 ゴールとなる陸上競技場への残り500mのストレート。

 神楽はずっと沿道の縁石スレスレを走っていたのだが、僅かにセンターライン寄りに位置をずらした。

 ひいなはそれに合わせて更に縁石ギリギリに寄る。

 もう一度インからブチ抜く試みをするために。

 ひいなはコンパクトな上半身のフォームを更にコンパクトにする。
 脇を締めて腕を完全に畳み込む。

 神楽と縁石のスペースを強行突破するために。

 ストライドが縁石に近づき、ギャラリーがそこに視線を落とすと、新幹線の車体とプラット・フォームのスペースのようにほぼ0の隙間で高速の運動を繰り返している。

 長身の神楽と縁石との間に、人間0.5人分の隙間がある。

 ひいなはストライドとピッチを、もうこれ以上あげたら筋肉を断裂するという極限まで伸ばした。

 同時に、神楽もここしか無いというタイミングで位置を縁石ギリギリに戻した。

 ひいなは更に縁石に体を寄せ、その瞬間に僅かに縁石に足指が接触した。

 プチ

 小指の爪が、はがれた。

「知るかあっ!」

 その痛みはほったらかしにして今日最速のスピードに達する。

 おそらくこの間の数十メートルの間のスピードのみを計測したならば。

 100m男子スプリントの秒速を超えていたであろう。

「親鳥、死ねぇえっ!」

 神楽が今度は水平よりやや上に肘を繰り出してきた。

 ひいなの顔面を潰すために。
 そして、後頭部からアスファルトに叩きつけるために。

「糞ぉぉっ!」

 ひいなは突き出した。

 右拳を。

「嫌っ!」

 神楽の最後の言葉は少女らしく可憐さとエロティックさを含んでいた。

 ひいなの右ストレートで二の腕の裏側にカウンターを撃ち込まれた神楽は、ずだあっ、と側頭部からアスファルトに激突した。

 そのまま一旦後方に体の回転軸が向きかかった後、すぐさまゴッ、ロロロロロロ!と側転で寝転んだ状態でゴール方面に向かってローリングする。

 だが、慣性が弱まると、そのままぐったりと仰向けに寝た状態で、ひいなに置き去りにされた。

「ぜは、ぜは、ぜは、ぜ・は、ぜ・・は、ぜ・・・は、ぜっ、ぜっ、ぜっ」

 ひいなもランと、最後の右腕のパンチの動きとで完全に燃料切れとなり、脚が止まりかけた。

 素脚のハムストリングスは酸欠状態から皮膚の下に紫色の血管が見えており、左足小指の爪のはがれた部分からは滲むような出血が、歩行とともに目立ちはじめていた。

「ぜ・は、、、、、ぜ・は、、、、」

 自らハムストリングスを唯一稼働する手のひらでもみしだきながら、まるで敗者のようにゴールテープを切った。

 レースの結果は、ひいな、神楽ともに失格だった。



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