『柳下鬼女の怪【偽典・蘆屋探偵事務所録】』(短編小説/成瀬川るるせ著)
文字数 4,466文字
僕、成瀬川るるせがバイトを終えて東京都杉並区高井戸の天下一品でこってりしたラーメンをビールで流し込んで、店を出た直後のことだ。
自動ドアの前に立ったら、人影が速いスピードで信号を渡ってきて、それから天下一品の前を横切っていったのが見えた。
「なんだ? ドラマの撮影か?」
僕はぼさぼさで梳かさない髪の毛をかいてから、あくびをした。
人影はそのまま上北沢の方へと駆け抜けていったが、この街じゃ奇行はよくあることだ。
気にしないに限る、と思い、自動ドアも開いたので天下一品を出た。
スマートフォンの画面で時刻をチェックする。午前二時を指していた。
蘆花恒春園……通称、蘆花公園。
その近くに事務所を構える友人は顔が広く、その友人が天一をこの時間でも開店状態にと、取り計らってくれていたのだ。
ありがたいこった。
持つべきものは友人だな、と悦に入って僕は、横断歩道を渡って世田谷区八幡山に向かって歩いた。
八幡山の駅前に来て、自動販売機でコーンポタージュスープを買う。あたたかい。
今は二月。ちょうど東京都内のどこの飲食店もガラガラの時期だ。
「これが三月に入ると引っ越しの時期になるんだけどな」
引っ越し……か。僕も転職を考えているところだ。いつまでも交通警備員として働くのはキツい。
「どーにかしなくちゃなぁ」
コーンポタージュを一気に飲み干す。
そして缶をポンポン叩いてコーンを残らず食べようとしていると、声をかけられた。
「成瀬川るるせさんですか?」
「どなたですか?」
「世田谷区八幡山・かまのくち八幡神社の社人です」
「はぁ。僕になにか御用で?」
「あと三十分しか、時間がないのです」
「三十分?」
二時半までは丑の刻だな。
なんか、嫌な予感はした。
「うちの者が逃げ出してしまったのです」
「うちの、って、神社関係のひと? もしかして、逃げたって」
「文字通り、驚いて、走って逃げ出したのです」
ああ。さっき見かけた奴だ。天一を横切った奴。
「いきなりですが。私にお告げがあったのです」
うわ、これ、関わらないほうがいい奴だ。
「『丑の刻参りする女性に神託を与えよ』と」
「しんたく……? 銀行?」
僕を無視してかまのくち八幡神社のひとは言う。
「霊夢です。今夜も参りに来ることでしょう。その女性に、夢の告げを知らせねばなりません。
うちの者の一人は、昨日、逃げました。そして、残る一人も、さっき」
「はぁ。なんで僕に」
「蘆花公園、と言えばわかる、とおっしゃっておりました。成瀬川さんは、蘆花公園、とだけ伝えれば協力をするだろう、と」
あ、あいつだ。あのひとだ。くっそ、あいつめぇ! 天一に席キープさせてくれていたのは絶対仕込みだ。
昨日の時点で予測していやがったな。常人じゃ予想なんて不可能だが、〈あのひと〉なら、できる。敏腕のプロであり、天才である〈あのひと〉なら。
「で。なんで逃げたの? どこへ逃げたの? なにを手伝えと?」
「なぜ逃げたかは、ついてきていただければ、お分かりになるか、と」
「どこへ逃げたの?」
「桜上水の焼肉ジョジョ園へでも行ったのでしょう。ジョジョ園が、我らが隠れ蓑として運営している飲食店でございます」
……マジか。飲食店の運営なんて、新興系のアレなのか?
「神社業界も大変ですね」
「それよりも、時間がありません。急ぎましょう」
なし崩し的に僕は神社のひとに連れていかれたのだった。
協力って、なにをすればいいんだ?
*****
「なーるほどねー」
世田谷区八幡山。かまのくち八幡神社。
境内の奥。
ご神木に五寸釘で、藁人形が差してある。周りはぐるりとしめ縄が囲んでいる。
「これが怖くて、見せたら逃げちゃったんだー」
棒読みで僕はそう言った。
そりゃ、逃げるよ。怖いもん。どうせ夜中になってから見せたんでしょ。
それに、丑の刻参りに来るひとに、お告げがあったので伝えるなんて、ちょい狂っている。大丈夫か?
「来たようです! 隠れましょう!」
白装束の女性。頭に金輪を逆さに被り、燃えている三本のろうそくをそこに差している。
「あれ? そういえば確か……」
「そうです。毎日続けるその丑の刻参りを他人に見られると、参っていた人物に呪いが跳ね返って来ると言われ、目撃者も殺してしまわないとならないと伝えられているのです」
「どうやって伝えるの?」
「だから、うちの者たちは逃げてしまったのです」
「信者さんでしょ? どーにかしなよ」
「いえ。ですから、〈あの方〉に相談したところ、あなたがお告げを言いに行く役割を担う手筈になったのです。こちらとしても最終手段だったのですが……」
あの方って、〈あのひと〉だよな……。
「一応聞くけど。マジで?」
「はい、これ、カンペです」
カンニングペーパー。略してカンペ。いつの時代の言葉だ、そりゃ。まあ、とにかく、言ってみるか。
僕はご神木の前に飛び出した。
「はぁい、彼女。元気に憎悪してるぅ~?」
白装束の女性がこちらを向いたのでウィンクもしてみた。
そしてカンペをそらんじる。
「三つの脚に火をともした金輪を載せ、怒りの心を持つならば、望み通りに〈鬼〉になっちゃうよぉ」
言い終えてから、僕は念のため、もう一度ウィンクした。
するとどうだろう、白装束の女性は顔色が変わり、長い髪の毛は空へ向かって逆立ち、その髪の毛は黒雲まで届くかのようで、そこから唸るような雷が鳴りはじまった。
「マジで、か……。本物の妖怪変化じゃんか」
後ろから、ポン、と肩を叩かれた。
僕が振り向くと、それは〈あのひと〉だった。
蘆花公園の近くに蘆屋探偵事務所を構える、普段なにをしているのかさっぱり不明な名探偵、蘆屋アシェラだった。
「普段なにをしているのか不明だなんて心外だよ、るるせくん」
「いや、だって……」
「それに今日の僕は……拝み屋だよ」
いつものフォーマルな衣装とは一転した、黒い和装のアシェラさんは、屹然と構えていた。
白装束の女性の額に、角が生える。
「ぐぉ! 角生えたぁ! 怖いよ、アシェラさん!」
「どうやらその姿を現したようだね、〈柳下鬼女〉が」
「柳下……なんだって?」
「曾我蕭白の屏風絵の、有名な題材だよ。1759年ごろの作品。奇想の系譜の、墨画さ」
「あの男はッ、報いを受けねばならないのよッ! 私を捨てて他の女を娶ったあの男を、呪い殺さねばならないの!
邪魔したわね! 邪魔したわね! 邪魔をしたわね! あなたたちも呪い殺されなさ……」
アシェラさんは、すっと、黒い和装の袖から取り出した形代(かたしろ)を、〈鬼女〉の方へ投げる。
するとどうしたことか、鬼女は形代を見て、目を引ん剝くようにして、押し黙った。
「さぁさぁ、形代に運命を転じ変えよう! かやぶきで編んだ藁人形、男女の身の丈と同じにつくり、夫婦の名を記してその中に込めた。
三段の高棚の五色の幣を立て、加えて供物を調え、身も心も尽くして、君のために祈ろう」
言葉と同時に形代は人間原寸大の二体の藁人形となり、そして燃えた。
鬼女が唸りだす。
「あああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁああああああぁぁああぁぁぁぁあ!」
「神前にて。謹んで祈り奉る。天地開闢そのとき以来、イザナギ、イザナミの両神が、天のイワクラで契りを交わし夫婦となり、
その夫婦の道が今にも伝わる。それを妖怪鬼神が邪魔をして、寿命の尽きていないひとの命を奪おうとするとはなんということか」
風が吹く。
強風だ。
雷が落ちた。
その後、静寂が戻る。
形代が変化した藁人形も、ご神体に打ち付けられた藁人形も、消し炭になっていた。
アシェラさんはこの女性のために、祈った。
そして、祈りは通じたのだ。
「還れ、絵画の中へ」
いつの間に用意したのか、屏風が置いてあり(たぶん神社の人が用意した)、「陰陽師」でもあるアシェラさんは女性をその屏風の中に閉じ込めた。
そして、立派な〈柳下鬼女図屏風〉が、完成した。
「完成したんじゃないよ、るるせくん。これは、もともとこういう絵画だったんだ。そこから鬼女が抜け出したから、僕がもとに戻した。それだけだよ」
うえー、うさんくさいー、と僕がぶーたれていると、アシェラさんは、
「どうしようもならん、のが、どうにかなる。これは僕自身の思想でもある」
と、きざっぽく笑った。
その笑顔がさわやかすぎて、僕は赤面した。
確かに、どうしようもならないのが、どうにかなった。
「これだから〈名探偵〉って奴は、いけすかないのさ」
「なにか言ったかい?」
「いえ、なにも」
*****
「ところで、るるせくん」
「なんですか、アシェラさん。天下一品も仕込みの一環だったなんて、酷いですよ」
「さぁ、なんのことやら。それよりも、だよ。蘆花公園にあるから僕の事務所は〈蘆〉屋探偵事務所、と名乗っているわけだけれど」
「はぁ。嫌な予感がする。それに蘆屋アシェラだからじゃないのですかぁ……」
「今後、事務所を移転して、本格的に探偵業をしようと思っていてね」
「あー、聞こえない聞こえない、僕にはなにも聞こえないぞー!」
「るるせくん、君はいつも、つれないことを言うなぁ」
「なぜため息したし。僕は知りませんってば。それにしても、この前の〈ご神託〉って本物だったんですか?」
ふぅ、とため息をつく探偵。
「そんなこともわからないのかい、るるせくん。ダメだなぁ。職務怠慢だよ」
「いや、所員じゃないし」
「狂言さ」
「狂言?」
「絵画に閉じ込めた怨嗟を、野に解き放ってしまったのさ。誰かがね。〈鬼〉になるのは当然じゃないか、もともと鬼なんだから。そりゃもとの鬼に戻るさ」
「柳下鬼女、ですか」
「そう。あのお告げとやらは、お告げの体をなしてない。ただ『あんたは鬼女だよ』って当たり前のことを言ってあげただけ」
「じゃあ、なんでそんなことを」
「拝み屋に押し付けるための狂言だったんだって、だから僕は言いたいのさ」
ああ。この名探偵にして陰陽師であるアシェラさんを、最初から頼っていたんだな。
それを、まどろっこしい真似をして。
「怒らない怒らない。珈琲飲むかい? うちの事務所で淹れる珈琲にはこだわっているよ」
「もう。そうやって。今回は徹頭徹尾、僕は囮役じゃないですかー」
「まぁまぁ。どうしようもならん、のが、どうにかなる。これが僕自身の思想さ」
「むぅー」
事件は解決した。
……だがこれはまだ、蘆屋探偵事務所が本格的に活動を始める、その前のお話。
〈了〉
自動ドアの前に立ったら、人影が速いスピードで信号を渡ってきて、それから天下一品の前を横切っていったのが見えた。
「なんだ? ドラマの撮影か?」
僕はぼさぼさで梳かさない髪の毛をかいてから、あくびをした。
人影はそのまま上北沢の方へと駆け抜けていったが、この街じゃ奇行はよくあることだ。
気にしないに限る、と思い、自動ドアも開いたので天下一品を出た。
スマートフォンの画面で時刻をチェックする。午前二時を指していた。
蘆花恒春園……通称、蘆花公園。
その近くに事務所を構える友人は顔が広く、その友人が天一をこの時間でも開店状態にと、取り計らってくれていたのだ。
ありがたいこった。
持つべきものは友人だな、と悦に入って僕は、横断歩道を渡って世田谷区八幡山に向かって歩いた。
八幡山の駅前に来て、自動販売機でコーンポタージュスープを買う。あたたかい。
今は二月。ちょうど東京都内のどこの飲食店もガラガラの時期だ。
「これが三月に入ると引っ越しの時期になるんだけどな」
引っ越し……か。僕も転職を考えているところだ。いつまでも交通警備員として働くのはキツい。
「どーにかしなくちゃなぁ」
コーンポタージュを一気に飲み干す。
そして缶をポンポン叩いてコーンを残らず食べようとしていると、声をかけられた。
「成瀬川るるせさんですか?」
「どなたですか?」
「世田谷区八幡山・かまのくち八幡神社の社人です」
「はぁ。僕になにか御用で?」
「あと三十分しか、時間がないのです」
「三十分?」
二時半までは丑の刻だな。
なんか、嫌な予感はした。
「うちの者が逃げ出してしまったのです」
「うちの、って、神社関係のひと? もしかして、逃げたって」
「文字通り、驚いて、走って逃げ出したのです」
ああ。さっき見かけた奴だ。天一を横切った奴。
「いきなりですが。私にお告げがあったのです」
うわ、これ、関わらないほうがいい奴だ。
「『丑の刻参りする女性に神託を与えよ』と」
「しんたく……? 銀行?」
僕を無視してかまのくち八幡神社のひとは言う。
「霊夢です。今夜も参りに来ることでしょう。その女性に、夢の告げを知らせねばなりません。
うちの者の一人は、昨日、逃げました。そして、残る一人も、さっき」
「はぁ。なんで僕に」
「蘆花公園、と言えばわかる、とおっしゃっておりました。成瀬川さんは、蘆花公園、とだけ伝えれば協力をするだろう、と」
あ、あいつだ。あのひとだ。くっそ、あいつめぇ! 天一に席キープさせてくれていたのは絶対仕込みだ。
昨日の時点で予測していやがったな。常人じゃ予想なんて不可能だが、〈あのひと〉なら、できる。敏腕のプロであり、天才である〈あのひと〉なら。
「で。なんで逃げたの? どこへ逃げたの? なにを手伝えと?」
「なぜ逃げたかは、ついてきていただければ、お分かりになるか、と」
「どこへ逃げたの?」
「桜上水の焼肉ジョジョ園へでも行ったのでしょう。ジョジョ園が、我らが隠れ蓑として運営している飲食店でございます」
……マジか。飲食店の運営なんて、新興系のアレなのか?
「神社業界も大変ですね」
「それよりも、時間がありません。急ぎましょう」
なし崩し的に僕は神社のひとに連れていかれたのだった。
協力って、なにをすればいいんだ?
*****
「なーるほどねー」
世田谷区八幡山。かまのくち八幡神社。
境内の奥。
ご神木に五寸釘で、藁人形が差してある。周りはぐるりとしめ縄が囲んでいる。
「これが怖くて、見せたら逃げちゃったんだー」
棒読みで僕はそう言った。
そりゃ、逃げるよ。怖いもん。どうせ夜中になってから見せたんでしょ。
それに、丑の刻参りに来るひとに、お告げがあったので伝えるなんて、ちょい狂っている。大丈夫か?
「来たようです! 隠れましょう!」
白装束の女性。頭に金輪を逆さに被り、燃えている三本のろうそくをそこに差している。
「あれ? そういえば確か……」
「そうです。毎日続けるその丑の刻参りを他人に見られると、参っていた人物に呪いが跳ね返って来ると言われ、目撃者も殺してしまわないとならないと伝えられているのです」
「どうやって伝えるの?」
「だから、うちの者たちは逃げてしまったのです」
「信者さんでしょ? どーにかしなよ」
「いえ。ですから、〈あの方〉に相談したところ、あなたがお告げを言いに行く役割を担う手筈になったのです。こちらとしても最終手段だったのですが……」
あの方って、〈あのひと〉だよな……。
「一応聞くけど。マジで?」
「はい、これ、カンペです」
カンニングペーパー。略してカンペ。いつの時代の言葉だ、そりゃ。まあ、とにかく、言ってみるか。
僕はご神木の前に飛び出した。
「はぁい、彼女。元気に憎悪してるぅ~?」
白装束の女性がこちらを向いたのでウィンクもしてみた。
そしてカンペをそらんじる。
「三つの脚に火をともした金輪を載せ、怒りの心を持つならば、望み通りに〈鬼〉になっちゃうよぉ」
言い終えてから、僕は念のため、もう一度ウィンクした。
するとどうだろう、白装束の女性は顔色が変わり、長い髪の毛は空へ向かって逆立ち、その髪の毛は黒雲まで届くかのようで、そこから唸るような雷が鳴りはじまった。
「マジで、か……。本物の妖怪変化じゃんか」
後ろから、ポン、と肩を叩かれた。
僕が振り向くと、それは〈あのひと〉だった。
蘆花公園の近くに蘆屋探偵事務所を構える、普段なにをしているのかさっぱり不明な名探偵、蘆屋アシェラだった。
「普段なにをしているのか不明だなんて心外だよ、るるせくん」
「いや、だって……」
「それに今日の僕は……拝み屋だよ」
いつものフォーマルな衣装とは一転した、黒い和装のアシェラさんは、屹然と構えていた。
白装束の女性の額に、角が生える。
「ぐぉ! 角生えたぁ! 怖いよ、アシェラさん!」
「どうやらその姿を現したようだね、〈柳下鬼女〉が」
「柳下……なんだって?」
「曾我蕭白の屏風絵の、有名な題材だよ。1759年ごろの作品。奇想の系譜の、墨画さ」
「あの男はッ、報いを受けねばならないのよッ! 私を捨てて他の女を娶ったあの男を、呪い殺さねばならないの!
邪魔したわね! 邪魔したわね! 邪魔をしたわね! あなたたちも呪い殺されなさ……」
アシェラさんは、すっと、黒い和装の袖から取り出した形代(かたしろ)を、〈鬼女〉の方へ投げる。
するとどうしたことか、鬼女は形代を見て、目を引ん剝くようにして、押し黙った。
「さぁさぁ、形代に運命を転じ変えよう! かやぶきで編んだ藁人形、男女の身の丈と同じにつくり、夫婦の名を記してその中に込めた。
三段の高棚の五色の幣を立て、加えて供物を調え、身も心も尽くして、君のために祈ろう」
言葉と同時に形代は人間原寸大の二体の藁人形となり、そして燃えた。
鬼女が唸りだす。
「あああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁああああああぁぁああぁぁぁぁあ!」
「神前にて。謹んで祈り奉る。天地開闢そのとき以来、イザナギ、イザナミの両神が、天のイワクラで契りを交わし夫婦となり、
その夫婦の道が今にも伝わる。それを妖怪鬼神が邪魔をして、寿命の尽きていないひとの命を奪おうとするとはなんということか」
風が吹く。
強風だ。
雷が落ちた。
その後、静寂が戻る。
形代が変化した藁人形も、ご神体に打ち付けられた藁人形も、消し炭になっていた。
アシェラさんはこの女性のために、祈った。
そして、祈りは通じたのだ。
「還れ、絵画の中へ」
いつの間に用意したのか、屏風が置いてあり(たぶん神社の人が用意した)、「陰陽師」でもあるアシェラさんは女性をその屏風の中に閉じ込めた。
そして、立派な〈柳下鬼女図屏風〉が、完成した。
「完成したんじゃないよ、るるせくん。これは、もともとこういう絵画だったんだ。そこから鬼女が抜け出したから、僕がもとに戻した。それだけだよ」
うえー、うさんくさいー、と僕がぶーたれていると、アシェラさんは、
「どうしようもならん、のが、どうにかなる。これは僕自身の思想でもある」
と、きざっぽく笑った。
その笑顔がさわやかすぎて、僕は赤面した。
確かに、どうしようもならないのが、どうにかなった。
「これだから〈名探偵〉って奴は、いけすかないのさ」
「なにか言ったかい?」
「いえ、なにも」
*****
「ところで、るるせくん」
「なんですか、アシェラさん。天下一品も仕込みの一環だったなんて、酷いですよ」
「さぁ、なんのことやら。それよりも、だよ。蘆花公園にあるから僕の事務所は〈蘆〉屋探偵事務所、と名乗っているわけだけれど」
「はぁ。嫌な予感がする。それに蘆屋アシェラだからじゃないのですかぁ……」
「今後、事務所を移転して、本格的に探偵業をしようと思っていてね」
「あー、聞こえない聞こえない、僕にはなにも聞こえないぞー!」
「るるせくん、君はいつも、つれないことを言うなぁ」
「なぜため息したし。僕は知りませんってば。それにしても、この前の〈ご神託〉って本物だったんですか?」
ふぅ、とため息をつく探偵。
「そんなこともわからないのかい、るるせくん。ダメだなぁ。職務怠慢だよ」
「いや、所員じゃないし」
「狂言さ」
「狂言?」
「絵画に閉じ込めた怨嗟を、野に解き放ってしまったのさ。誰かがね。〈鬼〉になるのは当然じゃないか、もともと鬼なんだから。そりゃもとの鬼に戻るさ」
「柳下鬼女、ですか」
「そう。あのお告げとやらは、お告げの体をなしてない。ただ『あんたは鬼女だよ』って当たり前のことを言ってあげただけ」
「じゃあ、なんでそんなことを」
「拝み屋に押し付けるための狂言だったんだって、だから僕は言いたいのさ」
ああ。この名探偵にして陰陽師であるアシェラさんを、最初から頼っていたんだな。
それを、まどろっこしい真似をして。
「怒らない怒らない。珈琲飲むかい? うちの事務所で淹れる珈琲にはこだわっているよ」
「もう。そうやって。今回は徹頭徹尾、僕は囮役じゃないですかー」
「まぁまぁ。どうしようもならん、のが、どうにかなる。これが僕自身の思想さ」
「むぅー」
事件は解決した。
……だがこれはまだ、蘆屋探偵事務所が本格的に活動を始める、その前のお話。
〈了〉