『玉藻香炉・中巻【偽典・蘆屋探偵事務所録2】』(中編小説/成瀬川るるせ著)

文字数 6,233文字

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 居酒屋の代金をアシェラさんのポケットマネーから全額出した僕らは、外に出た。
 さっきはあんなに暖かいと思っていたのに、屋内から出てみると、少し寒い。
 スプリングコートを着たアシェラさんはおきらくさんに、姫宮邸に向かうよう、お願いをした。
「いいわよ、アシェラさん。今度、またお酒おごってね」
「もちろんですよ、おきらく博士」
「やだもぅ、こんなところで博士だなんていわないでよぉ」
 そう言ってるおきらくさんも白衣姿で、博士そのものなのだが。
「頭痛と吐き気。あれね、私の勘では、間違いなく『毒キノコ』ね!」
 僕は思わず口を大きく開けて、
「毒キノコぉ?」
 と、素っ頓狂な声を上げてしまった。
 やれやれ、とかぶりを振る探偵・蘆屋アシェラ。
「毒キノコはね、るるせくん。頭痛と吐き気がするものだよ」
「なんですか、その『教団』とやらは、毒キノコを食べる集団だとでもいうんですか」
「そうは言ってないよ、僕は」
「含みのある言い方ですねぇ、アシェラさん」
「るるせくんは、もうちょっと、こう、〈大局観〉とでも呼べるものを身につけるといいよ」
「そんな、将棋の棋士じゃあるまいし、〈大局観〉なんて無理ですってば」
 と、そこまで言って、ハッとした。探偵には、状況を大きな視野で見積もる感覚である〈大局観〉が必要なのではないのだろうか。
「いやいや、でも僕は探偵じゃないし、ましてや蘆屋探偵事務所の所員でも、ない」
「るるせくん、君もつれないことを言うなぁ」
「いや、だって……」
 このご時世に私立探偵だなんて、名乗るの恥ずかしいだろ、とは言えない僕だった。

「とにかくおきらくさん、姫宮助手の〈解毒〉を頼みます」
 アシェラさんは、よどみなく、おきらくさんにそう言い、姫宮邸の住所を教えた。
 んん? 〈解毒〉?

 ほどなく、呼んでおいたタクシーが、店の前に止まる。
 おきらくさんはそのタクシーに乗り込み、
「任せてー。じゃー、またねー」
 と、開けた窓から手を振り、そして去っていった。


「と、いうわけで、だ。るるせくん」
「なんですかぁ、アシェラさん」
 とても嫌な予感がした。
「酒の締めに、〈ヨドバシ〉でオムライスを食べてから帰ろう」
 僕は顔を両手で覆って、身体を折り曲げた。
「なんてこった……。〈ヨドバシ〉でオムライスを食べて、しかも『帰る』と?」
「腹が減っては戦はできないものさ」
「気取った調子で言わないでください!」



 結局、僕はアシェラさんに押し切られ、近くの〈ヨドバシ〉でオムライスを食べることになった。



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〈ヨドバシ〉でふわふわオムライスが届くのと、アシェラさんの頭を黒髪ロングの女性があんぐりと開けた口で噛みつくのは同時だった。
「痛い痛い痛い痛い痛いって!」
 そりゃそうだ。椅子に座った後ろから頭を歯で噛みつかれているのだから。
「ああああああぁぁぁ」
 必死に噛みつかれているのを振りほどこうとするアシェラさんと、噛みついて離さない黒髪の女性。
「わかった、わかった、今度、秘蔵のワインを飲ませてあげるから! 歯でひとの頭を噛むのをやめるんだ、旭さん」
 アシェラさんの『秘蔵のワイン』の一言で、ぱっと離れて、瞳をキラキラさせた女性。
 このひとこそは、蘆屋探偵事務所の新人探偵・旭山リサさんである。

「ワイン! ワイン! 秘蔵のワイン! 牛肉と一緒に召し上がるの~! わーい」
 噛まれた歯形がついた頭を抱えるアシェラさんは、
「痛たたたたた」
 と、悲痛な声をもらした。

「お酒、なんで私を誘ってくれなかったんですかー、アシェラ所長!」
「ふむ。今日の居酒屋には、とんこつラーメンがメニューになかったからね」
 旭さんはとんこつラーメンが好きなので、茶化すように言う。居酒屋にとんこつラーメンはあまり置いてないだろう。
「そんな。私だってお酒飲みたかったですよー。今度、焼肉おごってくださいね!」
 旭さんは肉も好きだ。
「わかった」
 アシェラさんはテキトーに返事する。

 このやりとりを聞いて、僕は大きく息を吐いた。
 まったく、この蘆屋アシェラという男は、何人の女性に食べ物や飲み物をおごる約束をしたら気が済むのだろうか。

「心の声が駄々洩れだよ、るるせくん」
「あ、すみません、アシェラさん」
「まったく君というひとは。僕を肉食系男子だと勘違いさせるような発言は控えたまえ」
「へいへい」
「肉食系なのは、旭くんだけでじゅうぶんだよ」
「肉食系の意味がちがーう!」
 旭山リサさんは腕を振り上げて怒った。そしてぽかぽかとアシェラさんの背中を叩く。
「うん。いつも通りの蘆屋探偵事務所になってきた」
 と、僕は安堵した。
 だが、アシェラさんは、
「そうじゃないだろう、るるせくん。姫宮くんのこと、失念しているのではないかい?」
 と、片目を瞑って、ポーズを決める。
 それで僕に今の状況を思い出させてくれた。


「そうだった。姫宮さんが、大変なことに。って、なんで僕らは悠長にオムライスを食べようとしているんですか!」
「そこから説明し直しかい? 腹が減っては戦ができない。特に旭くんの胃袋は、満たされなければならないのだよ」
「なるほど」
「なるほどじゃないですっ!」
 ポカリ、とげんこつで僕は旭さんに頭を叩かれた。
「痛たたたた」



「さて」
 探偵は話題を本題に移す。
 旭山リサさんも、僕の横の席に着席し、僕と旭さんは、この〈探偵〉と向かい合うかたちになった。
「今回の事件の発端について語ろうか」
 オムライス、冷めちゃいますよ、とは誰も言わない。〈ヨドバシ〉は今、臨時作戦会議室になっているからだ。オムライスのことは、語るべきではない。
 おなかを満たす前に、今の状況の把握で心を少しでも満たせ。



          **********



「発端は、ポテトチップス焼き鳥味の愛好家であるそばえ氏と、その相棒である妖狐・ミレハ嬢の命が女禍教団という団体に狙われたことによる。

人間であるそばえ氏はともかく、妖狐であるミレハ嬢の命が狙われているのが、問題だった。どこにも相談できたもんじゃない。警察はひとの命は守るかもしれないが、妖狐の命は守らない。
妖狐は、あやかしだからね。そこで、〈陰陽師〉でもある〈探偵〉の僕、蘆屋アシェラの経営する、この蘆屋探偵事務所を訪れることとなったのさ。
なぜ、そばえ氏は命を狙われることになったのか。そして、女禍教団とはなにか。それが当然聞きたいだろうが、事情はかなり入り組んでいる。面倒ではあるが、説明していこう。

そばえ氏の相棒であるミレハ嬢は、そばえ氏が今は電脳空間に〈使役〉している妖狐だ。その正体は、玉藻の前。九尾の狐とか九尾狐狸と日本では言われる大妖だ。
だが、大陸の方では、九尾は、千年狐狸精と呼ばれ、封神の時代に、妲己という名前で殷の紂王をたぶらかしたことで有名だ。

その妲己を操っていたのが、〈女禍〉という大妖だ。〈女禍〉は、蛇身人首の大妖で、莫大な力を保有する。その〈女禍〉を崇める教団が、〈女禍教団〉、つまり、そばえ氏の命を狙う者たちの集まりだ。
そばえ氏の電脳上で使役するかたちになっている妖狐、ミレハ嬢はつまり、女禍の部下だ、という位置づけになる。

もともと女禍の命令を無視するきらいがあった九尾の狐は、女禍にとって厄介な妖狐だった。今、ミレハ嬢として顕現している間に抹殺しようと思っても、無理はない。
なぜなら、そばえ氏が〈使役〉しているという関係上、大昔のような絶大な力は持っていないからだ。

では次に、なぜそばえ氏はそんなミレハ嬢を使役して相棒としているか、ということだ、が。
ミレハ嬢は九尾の狐であり、最前説明したように、玉藻の前という名前で親しまれているあやかしなんだ。

玉藻の前は浄瑠璃、歌舞伎などの演目にもなっている。だが、ここで僕が説明したいのは、岡本綺堂の『玉藻の前』という文学作品だ。
岡本綺堂の図式でいうと、ミレハ嬢が玉藻の前であるということは、そばえ氏は千枝松、という人物に相当することになる。
千枝松と玉藻の前は、永遠を交わした関係性を持つ。
その関係性は強大な力を有してしまう可能性があるため、女禍教団にとっては、邪魔なのだよ。

岡本綺堂については、ほら、るるせくん、説明したまえ。まさか、覚えているよね、岡本綺堂の物語を」



 僕は挙動不審になって、コップの水を飲み、それから覚めたオムライスを眺めてから、
「ええ、なんとなく」
 と、俯きながら答えた。恥ずかしい。僕が文学の説明を?

 ……致し方なし、か。
 僕は顔を上げることにした。



「岡本綺堂の『玉藻の前』は、平安時代が舞台です。
千枝松とみくず……のちに玉藻の前と呼ばれることになるみくずというひとは、幼い時から兄妹のように育った、と書かれています。

無理難題な歌の題を出され、誰も答えられないところを、みくずは自作の歌で答えてしまう。
お題を出したのは上皇なのですが、上皇の気に入るところとなり、
千枝松はみくずを奪われてしまうのです。

あるとき、通りがかった陰陽師が、みくずの家は『凶宅』だ、と告げます。
みくずは玉藻の前と名前を変えますが、『凶宅』なことがたくさん起こります。
ある日、にわか雨の降りしきる中、偶然、玉藻の前は千枝松と出会ってしまいます。千枝松には『死相』が出る。

都を退廃に導いた玉藻の前はこの世の春を謳歌しますが、正体を暴かれてしまいます。玉藻の前は、九尾の狐というあやかしだったのです。
千枝松は九尾の討伐に加わり、玉藻の前を殺しました。
殺した玉藻の前は〈石〉となり、その石は霊的な力を持つ〈殺生石〉と呼ばれました。
さすらい人となった千枝松は殺生石に取りすがり、最愛の者を殺したことを悔やみ、殺生石のそばで息絶える。

こうして、玉藻の前と千枝松は、永遠の愛で結ばれた……、たしか、そういう物語だったか、と」



 アシェラさんは、
「40点くらいかな。控えめに言って、赤点回避、って感じだね」
 と微笑んだ。
 僕は微笑むアシェラさんから目をそらす。そのとき若干、僕の顔は赤くなっていたかもしれない。



「るるせくんの説明した話。千枝松はそばえ氏であり、ミレハ嬢は玉藻の前である、という僕らの推測。
それは当たっているか間違っているかはわからないが、少なくとも〈女禍教団〉の方ではそう思っている確率が高いだろうね。
なぜなら、その方が都合がいいからだ。つまりは、ミレハ嬢と一緒に、そばえ氏も殺害したいのさ」


 僕は反論する。
「でも、アシェラさん。あやかしを〈使役〉できるようなひとなら、そばえ氏はじゅうぶん、自分でも戦えるんじゃないですか?」

「ことはそう単純じゃないのだよ。そばえ氏は、ブイチューバーと呼ばれるタレント業を生業としているスターなんだ」
「それがなにかまずいのですか」
「るるせくんも、頭が回らないなぁ。電脳上にいるミレハ嬢が、『本物の妖狐』だとバレたら、まずいじゃないか。そして、それを使役する力を持っているなんて知れてみろ」
「あ、そりゃたしかに、まずいですね……」


「と、いうことで、だ。旭くん」
「ぐー、ぐー」
「おい、寝るな、旭くん!」
「もうお肉食べきれないよぉ……、ぐー、ぐー」

 アシェラさんは旭さんの脳天にチョップを振り落とした。
「痛いっ」

「ふぅ。起きたみたいだね、旭くん」
「やだなぁ、所長。私がおなかがすきすぎて眠ってしまった、なんてわけがないじゃないですかぁ」
「食べていいよ、僕のオムライス。それからるるせくんのも」
「え? 本当に? わーい」
「アシェラさん、このオムライス冷めてますが……」


 二人分の冷めたオムライスをがつがつ食べる旭さんに、僕とアシェラさんは、すこし心がほっこりしたのは内緒だ。


 旭さんがオムライスを平らげたのを確認してから、アシェラさんは旭さんに問う。
「旭くん。トロッコ問題、というものをご存知かな」



「トロッコ問題? ええ、知ってますとも!」




 咳ばらいをひとつして、旭山リサさんは、このジレンマを説明する。

「トロッコ問題とは、『ある人を助けるために他の人を犠牲にするのは許されるか?』という倫理学の思考実験のことです。
人間がどんな風に道徳的ジレンマを解決するかの手がかりとなると考えられていて、道徳心理学、神経倫理学では重要な論題として扱われているんですよね。

まず前提として、以下のようなトラブル (a) が発生したものとする。
(a) 線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。

そしてA氏が以下の状況に置かれているものとする。
(1) この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。

しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。

A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。
また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。
これに『あなた』は道徳的に見て『許される』か、『許されない』かで答えるものとする。


……つまり単純に『5人を助ける為に他の1人を殺してもよいか』という問題なんですよ。トロッコ問題というのは。
功利主義に基づくなら一人を犠牲にして五人を助けるべきで。
でも義務論に従えば、誰かを他の目的のために利用すべきではなく、何もするべきではない、という答えが導かれるんですよね」


「エクセレント。90点をあげよう」
「わーい」
「それでは問題です。そばえ氏とミレハ嬢の二人を助けるために、そばえ氏の命を狙う大集団である女禍教団を壊滅させるのは、許されるか?」
「まったく……、ひとが悪いなぁ、アシェラさん。答えなんて決まってるじゃないですか」

 ふむ、と首を縦に振ってから、アシェラさんは言う。
「そばえ氏は藤宮古氏に頼んで、警備にあたってもらっている」
 ああ、ふじさんが警備にあたっているのか。
「では、あとは君らが敵の本拠地に乗り込むだけだ」

「は? 君ら?」
 なんか嫌な予感がする。
「はい?」
 旭さんも素っ頓狂な声を出した。

「僕は姫宮助手のところへ向かう。女子高生(だが、絶対女子高生ではない)が吐き気と頭痛に見舞われているのだよ? 様子を見てくるに決まっているじゃないか。じゃ、頑張ってね」


「…………」
 旭さんはあっけにとられている。
「……探偵がいないのにどうやって解決を?」
 旭さんの代わりに、僕が言ってみた。


 するとアシェラさんは、軽い調子で僕の質問に答える。



「どうしようもならん、のが、どうにかなる。これが僕自身の思想さ。さあ、行っておいで」
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登場人物紹介

【アシェラ/蘆屋都々(あしやとと)】

電子文芸部を発足した人。推理しない探偵事務所所長。

NOVEL DAYS内にて『天使と悪魔の聖書漫談』を連載。

Twitterで気になる人にクソリプを送りまくる性癖あり。

来るもの拒まず、去るのは寂しい、ただのオタク。

【成瀬川るるせ】

眠ることが大好き。宵越しの金は持たない主義でありたい、ただのアブノーマル男子。

NOVEL DAYSで『死神はいつも嘘を吐く』、『【抹茶ラテの作法と実践(The Book of Matcha Ratte)】』シリーズなどを掲載している。

NOVEL DAYSの個人ページはこちら

【そばえ】

カクヨムで連載小説を書きつつ、バーチャルとリアルを行き来している不器用なのにあちこち手をつける多趣味な人間。

妖狐の娘の道すがら-ミレハ帰郷記』(玖山 戯)

【姫宮未調】

作中は所長により、所長助手のJKの肩書きを持つ仔犬系女子。

実際は年齢不詳女性。自称人間になりたい豆柴。

カクヨムをメインに風呂敷を広げ、ジャンル問わず50作品以上書いている。

時違えども君を想ふ』はエブリスタの妄想コンテストの優秀作品の末端に入れた唯一作品。

それ以外はマイナー街道をひた走り、マイナー受けしかしないものばかり書いてしまう残念系中性女子。

【旭山リサ(あさひやま・りさ)】

おしゃれなパスタより、チャーシュー大盛り豚骨ラーメン大好き女子。

作者ページは、こちら

【おきらく】

しがない物かき。Twitterではうるさかったけど、最近は比較的うるさくない。現在、過去作を掲載中。アイコンは自創作キャラのハジメです。

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