『アリスとテレスと月の少女』(掌編小説/アシェラ著)
文字数 3,805文字
寺山修司少女詩集より
きみ、知ってるかい?
海の起源は、たった一しずくの女の子のなみだだったんだ。
そのなみだが、どうして止まらなくなって地球を水びたしにしてしまったかは、どんな科学の本にも出ていないが、ぼくだけは知っているんだよ。
少女は天を指差し「つき」と答えた。
ちかごろアリスのたのしみは夜中こっそり家を抜け出し学校の中を見て回ること。田舎町の古びた校舎に警備会社の鐘は鳴らず。防犯意識とさようなら。扉を開けるのは容易である。弟のテレスは付いてこない。家でモニタに向かいアセンブラをいじるのが趣味という。変わっていると思うが、変わっていると思われたいアリスにしてみれば少々気に入らない。
正門から堂々と入り、廊下を歩く。今夜は月がとても明るい。窓から差し込む光は影をつくり、何かいそう。退屈しのぎにお化けでも出てはくれまいか。アリスは幽霊を怖がらない。小さい頃、よく遊んだ記憶があったから。
1階の教室の扉を開ける。スライド式の扉をがらがらと。もちろん鍵はかかっていない。ひょっとしたら、この世から鍵は失われてしまったのだろうか。もし全ての鍵が失われたら、全ての扉は開くだろうか。つまらないことを考え始めたがすぐに終えた。意識は鍵から教室の窓際に。先客がいたのだ。顔は逆光で見えない。アリスは驚いてしまって、しりもちをついた。そうしたら先客もアリスに気づいたのか、なぜかしりもちをついた。
顔は見えないが、互いに互いを見つめあった。背格好からして、おそらく同世代の子どもだろう。アリスは立ち上がってスカートのおしりをぽんぽんとはたいた。床にへばったままの誰かに近づいてみる。
「幽霊?」
そう聞いたのは、まだ床にへばる少女であった。少女はそう聞きながら、怯えた風ではない。むしろ好奇心から出た言葉の響きがある。その声音にアリスは思わず笑った。その笑い声は、ひょっとしたら艶かしく聞こえたかもしれない。
「足はあるよ」
アリスがそう言うと、少女も立ち上がる。
「でも最近の幽霊は、足があるのが普通でしょ?」
そうだろうか。少し思い巡らし、そうかもしれないと思った。見たことの無い少女だ。少なくとも、学校の生徒ではないだろう。田舎町の学校は皆が顔見知りだ。特に可愛い女の子は皆チェックしていた。
「私、アリス。あなたは?」
「かぐや姫」
「へえ、竹から生まれたの?」
かぐや姫と名乗る少女はふるふると首を振って、右腕を真っ直ぐ上に伸ばし言った。
「月から来たの」
ならばこれはかぐや姫の後日談。帝と離れ離れになったかぐや姫がついに地球へと戻ってきたのだ。
けれど、こんな田舎町にやってくるとは、随分と昔のことだから場所を忘れてしまったのだろうか。ここは京都からは随分離れているというのに。それに、今の帝はもっと遠い。
「月から来たのなら教えてくれる? 私、うさぎを探しているの。月にうさぎはいた?」
「見たことない。カニならいるけど」
たわいもない戯言に興じるのはとても楽しい。なんせここは夜の学校なのだ。夜の学校ほど心が自由になれる場所は無い。昼の束縛から解き放たれる反動に違いなかった。
「かぐや姫はここで何してたの?」
「かぐやでいい。あなたに会いにここに来たの」
「私に?」
「うそ。本当は別に会いたい男の子がいたの。でもあなたが来ちゃった。残念」
「誰か待ってたの? 邪魔なら帰るよ」
「ううん。ごめんね。待ってるのは私が勝手に。だから来るはずない」
かぐやは淡々と語る。不思議な子だとアリスは思った。会話をしているようで会話をしていない。ひょっとすると、彼女こそ幽霊なのではないだろうか。
「その子が好きなの?」
「好きじゃない。嫌い。もし会えたら、一発殴ってやりたいと思って。それでこうして待ってるの」
テレスは長々と書いたアセンブラのコードを全て消去した。中学の教科書に載っている数学の公式を一通りプログラム化したところで満足したのだ。アセンブラはパズルのような快感をテレスに与えてくれる。
スマホのメッセンジャーを開いたが、彼女から返事は無かった。
うさぎ、というハンドルネームの女の子。女の子というのも自称だが、テレスは疑ってはいない。仮に男だったとしても、きっと心は少女に違いない。うさぎと知り合ったのは古い掲示板サイト。誰も書き込まず、放置された廃墟のようなそこで、テレスは独り言をつぶやくのが好きだった。
人と交流するために用意され、誰もよりつかない空間。そういうところをテレスは好む。テレスはそこで二進数の問題を黙々と作り続けた。誰も計算しない問題を作ってはそのまま。テレス自身でさえ解くことがない。答えはどこにも書かれない。しかし答えは必ず存在している。そのことを証明(と言って、単に問題を解いただけだが)したのがうさぎだった。以来、なんとなくテレスはうさぎとコミュニケーションを維持した。
うさぎは別に数学が好きというわけではなかった。解ける問題がそこにあったから解いただけらしい。だからテレスもうさぎのために問題を作るようなこともなかった。掲示板はいつの間にか閉鎖された。何故いまさらという気持ちが半分と、ようやくかという気持ちが半分。
うさぎと話すのは嫌ではなかった。特に楽しいとかいうことも無かったけれど、やめたいと思うほどでもなかったのだ。うさぎとはよく宇宙の話をした。素粒子とか微粒子とか、そういうのが好きらしい。テレスは電子をもっぱら好んだが、原子への関心も人並にはあった。「いつか月に行きたい」 それがうさぎの口癖だった。
「いつか地球に帰りたい。そう思ってたの。帰ってこれて良かったわ」
さほど嬉しそうにもせずに月から来たという少女はつぶやいた。アリスは「へぇ」と興味なさそうに応じた。関心の薄さがかぐやの気に入らなかったらしい。かぐやはちらとアリスを見ると、尋ねてきた。
「あなたが、そうなの?」
「何の話?」
「二進数の問題。四進数と十六進数も。誰も見ていないのに、飽きることなく延々と。ずっと掲示板に書いてた」
「掲示板って、どこの?」
「インターネットの」
「知らないなあ。私はそんなにネットとか見ないし。二進数はなんとなく覚えてるけど、他は聞き覚えないし」
「学校で習うのよ」
「私、不真面目な生徒だから」
弟は真面目な生徒だ、とアリスは思う。いつも何か計算をして、最初から分かっている答えを眺めては満足するような変態だけれど。きちんと勉強をするし、生活態度も良好。友人もいて、運動にも励む。典型的な優等生。
対するアリスは典型的な問題児、というほどでもない半端者。親に隠れてタバコを吸っても、いまいち好きになれず続かない。アナーキーを気取ってそっち系の文学を読み漁るも右から左で身に付かず。なんだかんだで試験前には勉強なんかをして、標準点をこえてしまう。それで結局、夜中に人のいない校舎をうろつく程度の悪人に落ち着いた。何かに反抗するほどの気力もない。
「ねえ、海の起源って知ってる?」
かぐやが尋ねた。
「きげんって、大元って意味の起源?」
「そう。あんなにたくさんの水があるけれど、それだって最初は一滴の水だったのでしょう?」
「そうなのかな。そんな風に思ったことは無いけれど。水素とか酸素とか、そういうのが沢山あって一気に出来たんじゃない?」
「私もそう思ってたの。でも、彼はそうじゃないって」
「何て?」
「海の起源は、ひとしずくの女の子のなみだだって」
テレスはその時たまたま手元にあった詩集に書かれていた、ちょっといい感じのセリフをうさぎに伝えた。うさぎは随分気に入ってくれたようだ。テレスが考えた言葉だと勘違いしているようだったが、特に訂正はせずに放置した。いずればれる。ばれたときの反応が少し楽しみだと思った。
詩集は、姉のアリスが持っていたものだ。やさぐれたいのに、やさぐれ切れない。中途半端な悪わるですらない半端者の姉。
ただ、海は確かに女の子から生まれたものだとテレスは思った。母なる大地と父なる海、というのは嘘だ。というか嘘であってほしい。それよりもこの世の綺麗なもの全ての起源は女の子だと思う方が楽しいではないか。大地に立っているだけで母の煩わしさを思い、海を見るだけで父の鬱陶しさを思う。そんなのは嫌なのだ。
アリスはテレスの気持ちを理解していた。それはアリスもテレスと同じ気持ちだったから。そこから逃げようとして逃げられないのがアリス。そこで耐えようとして耐えられてしまうのがテレス。二人はよく似ていた。だから、仲は良くなかった。けれど、いがみあうこともなかった。
かぐやの言葉をアリスは知っていた。けれどそれをかぐやに言うのは野暮だと思った。
「万物の起源は水だって誰かが言ってたね」とアリスが言った。
「そうなの?」とかぐやは首をかしげた。
「そう。だから、今の話が本当ならさ。万物の起源は女の子かもしれないね」
詩的情緒を捨て去り、論理的茶番へと展開する。だが感じ入るものは無くとも楽しむことは出来る。かぐやは、「なにそれ」と笑った。かぐやが見せる初めての笑顔はとても綺麗。
きみ、知ってるかい?
海の起源は、たった一しずくの女の子のなみだだったんだ。
そのなみだが、どうして止まらなくなって地球を水びたしにしてしまったかは、どんな科学の本にも出ていないが、ぼくだけは知っているんだよ。
少女は天を指差し「つき」と答えた。
ちかごろアリスのたのしみは夜中こっそり家を抜け出し学校の中を見て回ること。田舎町の古びた校舎に警備会社の鐘は鳴らず。防犯意識とさようなら。扉を開けるのは容易である。弟のテレスは付いてこない。家でモニタに向かいアセンブラをいじるのが趣味という。変わっていると思うが、変わっていると思われたいアリスにしてみれば少々気に入らない。
正門から堂々と入り、廊下を歩く。今夜は月がとても明るい。窓から差し込む光は影をつくり、何かいそう。退屈しのぎにお化けでも出てはくれまいか。アリスは幽霊を怖がらない。小さい頃、よく遊んだ記憶があったから。
1階の教室の扉を開ける。スライド式の扉をがらがらと。もちろん鍵はかかっていない。ひょっとしたら、この世から鍵は失われてしまったのだろうか。もし全ての鍵が失われたら、全ての扉は開くだろうか。つまらないことを考え始めたがすぐに終えた。意識は鍵から教室の窓際に。先客がいたのだ。顔は逆光で見えない。アリスは驚いてしまって、しりもちをついた。そうしたら先客もアリスに気づいたのか、なぜかしりもちをついた。
顔は見えないが、互いに互いを見つめあった。背格好からして、おそらく同世代の子どもだろう。アリスは立ち上がってスカートのおしりをぽんぽんとはたいた。床にへばったままの誰かに近づいてみる。
「幽霊?」
そう聞いたのは、まだ床にへばる少女であった。少女はそう聞きながら、怯えた風ではない。むしろ好奇心から出た言葉の響きがある。その声音にアリスは思わず笑った。その笑い声は、ひょっとしたら艶かしく聞こえたかもしれない。
「足はあるよ」
アリスがそう言うと、少女も立ち上がる。
「でも最近の幽霊は、足があるのが普通でしょ?」
そうだろうか。少し思い巡らし、そうかもしれないと思った。見たことの無い少女だ。少なくとも、学校の生徒ではないだろう。田舎町の学校は皆が顔見知りだ。特に可愛い女の子は皆チェックしていた。
「私、アリス。あなたは?」
「かぐや姫」
「へえ、竹から生まれたの?」
かぐや姫と名乗る少女はふるふると首を振って、右腕を真っ直ぐ上に伸ばし言った。
「月から来たの」
ならばこれはかぐや姫の後日談。帝と離れ離れになったかぐや姫がついに地球へと戻ってきたのだ。
けれど、こんな田舎町にやってくるとは、随分と昔のことだから場所を忘れてしまったのだろうか。ここは京都からは随分離れているというのに。それに、今の帝はもっと遠い。
「月から来たのなら教えてくれる? 私、うさぎを探しているの。月にうさぎはいた?」
「見たことない。カニならいるけど」
たわいもない戯言に興じるのはとても楽しい。なんせここは夜の学校なのだ。夜の学校ほど心が自由になれる場所は無い。昼の束縛から解き放たれる反動に違いなかった。
「かぐや姫はここで何してたの?」
「かぐやでいい。あなたに会いにここに来たの」
「私に?」
「うそ。本当は別に会いたい男の子がいたの。でもあなたが来ちゃった。残念」
「誰か待ってたの? 邪魔なら帰るよ」
「ううん。ごめんね。待ってるのは私が勝手に。だから来るはずない」
かぐやは淡々と語る。不思議な子だとアリスは思った。会話をしているようで会話をしていない。ひょっとすると、彼女こそ幽霊なのではないだろうか。
「その子が好きなの?」
「好きじゃない。嫌い。もし会えたら、一発殴ってやりたいと思って。それでこうして待ってるの」
テレスは長々と書いたアセンブラのコードを全て消去した。中学の教科書に載っている数学の公式を一通りプログラム化したところで満足したのだ。アセンブラはパズルのような快感をテレスに与えてくれる。
スマホのメッセンジャーを開いたが、彼女から返事は無かった。
うさぎ、というハンドルネームの女の子。女の子というのも自称だが、テレスは疑ってはいない。仮に男だったとしても、きっと心は少女に違いない。うさぎと知り合ったのは古い掲示板サイト。誰も書き込まず、放置された廃墟のようなそこで、テレスは独り言をつぶやくのが好きだった。
人と交流するために用意され、誰もよりつかない空間。そういうところをテレスは好む。テレスはそこで二進数の問題を黙々と作り続けた。誰も計算しない問題を作ってはそのまま。テレス自身でさえ解くことがない。答えはどこにも書かれない。しかし答えは必ず存在している。そのことを証明(と言って、単に問題を解いただけだが)したのがうさぎだった。以来、なんとなくテレスはうさぎとコミュニケーションを維持した。
うさぎは別に数学が好きというわけではなかった。解ける問題がそこにあったから解いただけらしい。だからテレスもうさぎのために問題を作るようなこともなかった。掲示板はいつの間にか閉鎖された。何故いまさらという気持ちが半分と、ようやくかという気持ちが半分。
うさぎと話すのは嫌ではなかった。特に楽しいとかいうことも無かったけれど、やめたいと思うほどでもなかったのだ。うさぎとはよく宇宙の話をした。素粒子とか微粒子とか、そういうのが好きらしい。テレスは電子をもっぱら好んだが、原子への関心も人並にはあった。「いつか月に行きたい」 それがうさぎの口癖だった。
「いつか地球に帰りたい。そう思ってたの。帰ってこれて良かったわ」
さほど嬉しそうにもせずに月から来たという少女はつぶやいた。アリスは「へぇ」と興味なさそうに応じた。関心の薄さがかぐやの気に入らなかったらしい。かぐやはちらとアリスを見ると、尋ねてきた。
「あなたが、そうなの?」
「何の話?」
「二進数の問題。四進数と十六進数も。誰も見ていないのに、飽きることなく延々と。ずっと掲示板に書いてた」
「掲示板って、どこの?」
「インターネットの」
「知らないなあ。私はそんなにネットとか見ないし。二進数はなんとなく覚えてるけど、他は聞き覚えないし」
「学校で習うのよ」
「私、不真面目な生徒だから」
弟は真面目な生徒だ、とアリスは思う。いつも何か計算をして、最初から分かっている答えを眺めては満足するような変態だけれど。きちんと勉強をするし、生活態度も良好。友人もいて、運動にも励む。典型的な優等生。
対するアリスは典型的な問題児、というほどでもない半端者。親に隠れてタバコを吸っても、いまいち好きになれず続かない。アナーキーを気取ってそっち系の文学を読み漁るも右から左で身に付かず。なんだかんだで試験前には勉強なんかをして、標準点をこえてしまう。それで結局、夜中に人のいない校舎をうろつく程度の悪人に落ち着いた。何かに反抗するほどの気力もない。
「ねえ、海の起源って知ってる?」
かぐやが尋ねた。
「きげんって、大元って意味の起源?」
「そう。あんなにたくさんの水があるけれど、それだって最初は一滴の水だったのでしょう?」
「そうなのかな。そんな風に思ったことは無いけれど。水素とか酸素とか、そういうのが沢山あって一気に出来たんじゃない?」
「私もそう思ってたの。でも、彼はそうじゃないって」
「何て?」
「海の起源は、ひとしずくの女の子のなみだだって」
テレスはその時たまたま手元にあった詩集に書かれていた、ちょっといい感じのセリフをうさぎに伝えた。うさぎは随分気に入ってくれたようだ。テレスが考えた言葉だと勘違いしているようだったが、特に訂正はせずに放置した。いずればれる。ばれたときの反応が少し楽しみだと思った。
詩集は、姉のアリスが持っていたものだ。やさぐれたいのに、やさぐれ切れない。中途半端な悪わるですらない半端者の姉。
ただ、海は確かに女の子から生まれたものだとテレスは思った。母なる大地と父なる海、というのは嘘だ。というか嘘であってほしい。それよりもこの世の綺麗なもの全ての起源は女の子だと思う方が楽しいではないか。大地に立っているだけで母の煩わしさを思い、海を見るだけで父の鬱陶しさを思う。そんなのは嫌なのだ。
アリスはテレスの気持ちを理解していた。それはアリスもテレスと同じ気持ちだったから。そこから逃げようとして逃げられないのがアリス。そこで耐えようとして耐えられてしまうのがテレス。二人はよく似ていた。だから、仲は良くなかった。けれど、いがみあうこともなかった。
かぐやの言葉をアリスは知っていた。けれどそれをかぐやに言うのは野暮だと思った。
「万物の起源は水だって誰かが言ってたね」とアリスが言った。
「そうなの?」とかぐやは首をかしげた。
「そう。だから、今の話が本当ならさ。万物の起源は女の子かもしれないね」
詩的情緒を捨て去り、論理的茶番へと展開する。だが感じ入るものは無くとも楽しむことは出来る。かぐやは、「なにそれ」と笑った。かぐやが見せる初めての笑顔はとても綺麗。