『令和』(随筆/アシェラ著)
文字数 2,501文字
天平二年正月十三日
萃于帥老之宅 申宴會也
于時初春令月 氣淑風和
梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖
夕岫結霧 鳥封縠而迷林
庭舞新蝶 空歸故鴈
於是盖天坐地 促膝飛觴
忘言一室之裏 開衿煙霞之外
淡然自放 快然自足
若非翰苑何以攄情
詩紀落梅之篇 古今夫何異矣
宜賦園梅聊成短詠
天平2年は西暦730年。奈良時代のこと。平城京に都を置く。今上天皇は後の聖武天皇。皇后光明子 の発願による施薬院が設置された年でもある。施薬院とは「せやくいん」または「やくいん」と呼び、病人や孤児の保護・治療・施薬を行う施設である。
さて、平成が終わり、令和の時代へと移る。その元とされたのが先に挙げた漢文調の序文である。「帥老 」の屋敷に集まってとあるが、このおきなとは何者か。大伴旅人と言う。
大伴旅人は天智天皇4年の665年に生まれたとされる。とすれば天平2年の730年にはおよそ64歳。時代を鑑みればなかなかの長寿と言えるだろう。彼は正三位 の上級貴族であったが、神亀5年の728年頃に大宰帥 として大宰府に赴任。この赴任は藤原四兄弟による左遷人事、または外交防衛上の期待を受けての人事、両説あるが定かではない。
彼が帰京するのは天平2年の730年11月。万葉集のこの梅の花の歌会が行われた年の終わりのことであった。
歌会の一番手は紀男人 である。当時およそ47歳。彼はかつて山上憶良らと共に首皇子 (のちの聖武天皇)に学芸教育を行ったほどの人物である。そしてその山上憶良こそが序文の詠み手であった。山上憶良は従五位下・筑前守であり、当時およそ69歳。紀男人は当時正五位上であり山上憶良よりも位が高かった。しかし詠み手としての力量は山上憶良にこそ軍配が上がり、年長ということもあって尊敬の念を抱いたのではないだろうか。
その山上憶良による序文である。(諸説あり)
萃于帥老之宅 申宴會也
「大宰帥大伴旅人の屋敷に集まり、宴会を開く」(意訳、以下同じ)
于時初春令月 氣淑風和
「初春の月は麗しく、澄んだ空気に、柔らかな風」
梅披鏡前之粉 蘭薫珮後之香
「梅の花は鏡の前で乙女が化粧をしたように白く、欄の花は腰に下げた袋のように香る」
加以 曙嶺移雲 松掛羅而傾盖
「それだけではない。明けの峰には雲が移り、山の松はまるで薄絹張りの傘のよう」
夕岫結霧 鳥封縠而迷林
「夕方の峰に霧がたちこめ、鳥たちは薄絹に閉じ込められて林に迷う」
庭舞新蝶 空歸故鴈
「庭に新年の蝶が舞い、空に昨年の雁が去る」
於是盖天坐地 促膝飛觴
「ここに天を傘とし、地を座とし、我ら膝を交えて盃を交わす」
忘言一室之裏 開衿煙霞之外
「一同、言葉を忘れ、心打ちとけ、霞の外に思い馳せ」
淡然自放 快然自足
「あっさりとして気まま、心地よくも満ち足りる」
若非翰苑何以攄情
「歌をもって以外、いかにしてこの気持ちを述べられるだろうか」
(※翰苑は張楚金によって書かれた類書。書物の例。意訳ではあえて歌とした)
詩紀落梅之篇 古今夫何異矣
「詩経に落梅の篇があるが、過去と今とで何か異なるだろうか」
宜賦園梅聊成短詠
「庭の梅を詠み、短き歌をご披露あれ」
主催の大伴旅人はこの歌に満足したであろう。広々とした自然、季節の移ろい、参加者たちの心持に清涼を運ぶかのような言葉たち。山上憶良と共に皇子の学芸指導を行った紀男人も、優れた歌に賛辞を贈ったのではないだろうか。歌会の初め、紀男人の歌である。
武都紀多知 波流能吉多良婆 可久斯許曽 烏梅乎乎岐都々 多努之岐乎倍米
大貳紀卿(紀男人のこと)
「睦月なり 春が来りて このように 梅を招きて 今日を楽しむ」
非常に素朴である。万葉集の持ち味とも言えるが、もうちょっとなんとかならなかったのかと思う。
天平2年は西暦730年。奈良時代のこと。平城京に都を置く。今上天皇は後の聖武天皇。皇后
さて、平成が終わり、令和の時代へと移る。その元とされたのが先に挙げた漢文調の序文である。「
大伴旅人は天智天皇4年の665年に生まれたとされる。とすれば天平2年の730年にはおよそ64歳。時代を鑑みればなかなかの長寿と言えるだろう。彼は
彼が帰京するのは天平2年の730年11月。万葉集のこの梅の花の歌会が行われた年の終わりのことであった。
歌会の一番手は
その山上憶良による序文である。(諸説あり)
「大宰帥大伴旅人の屋敷に集まり、宴会を開く」(意訳、以下同じ)
「初春の月は麗しく、澄んだ空気に、柔らかな風」
「梅の花は鏡の前で乙女が化粧をしたように白く、欄の花は腰に下げた袋のように香る」
「それだけではない。明けの峰には雲が移り、山の松はまるで薄絹張りの傘のよう」
「夕方の峰に霧がたちこめ、鳥たちは薄絹に閉じ込められて林に迷う」
「庭に新年の蝶が舞い、空に昨年の雁が去る」
「ここに天を傘とし、地を座とし、我ら膝を交えて盃を交わす」
「一同、言葉を忘れ、心打ちとけ、霞の外に思い馳せ」
「あっさりとして気まま、心地よくも満ち足りる」
「歌をもって以外、いかにしてこの気持ちを述べられるだろうか」
(※翰苑は張楚金によって書かれた類書。書物の例。意訳ではあえて歌とした)
「詩経に落梅の篇があるが、過去と今とで何か異なるだろうか」
「庭の梅を詠み、短き歌をご披露あれ」
主催の大伴旅人はこの歌に満足したであろう。広々とした自然、季節の移ろい、参加者たちの心持に清涼を運ぶかのような言葉たち。山上憶良と共に皇子の学芸指導を行った紀男人も、優れた歌に賛辞を贈ったのではないだろうか。歌会の初め、紀男人の歌である。
大貳紀卿(紀男人のこと)
「睦月なり 春が来りて このように 梅を招きて 今日を楽しむ」
非常に素朴である。万葉集の持ち味とも言えるが、もうちょっとなんとかならなかったのかと思う。