『世界の破滅とインフィニティ・カノン』(短編小説/アシェラ著)
文字数 2,723文字
パンゲア。かつて地球に存在した唯一の大陸の名をそう呼ぶ。たった一つの土地であるため、陸上生物たちは己がテリトリーを確保するため、血で血を洗う戦争を繰り広げていた。現生人類は知る由もない。現在の人とは異なる知的生命体が優れた文明を保持し、繁栄を極め、堕落したことを。彼ら知的生命体のことは仮に「ネフィリム」と呼ぼう。ネフィリムはパンゲア内を縦横無尽に走り回り、地球の深奥、神の領域たるコアにまで手を伸ばそうと画策した。そのような暴挙を神が許すはずもない。神の使徒、アセネー・スフィアとメソス・スフィアの兄弟がネフィリムたちの前に現れ、彼らを一掃した。文明は塵となり、その痕跡はほとんど消え去ってしまった。
そして神は兄弟に問いかけた。
「この地に生まれし生命は傲慢を極める。またかのような知性をもてあそぶものたちが生まれた時、必ずや我が深奥に手を伸ばそうと画策するであろう。そこで兄弟たちよ。何かこれを防ぐ手立ては無いものか」
兄弟は神の問いかけについて考え、視線を交わし、弟であるアセネー・スフィアが答えた。
「僕と兄さんの二人で、この大地パンゲアを破壊いたしましょう」
「しかしそれでは罪なき他の生き物まで滅ぼしてしまうのではないか」
「破壊すると言っても、塵に帰すということではありません。いくつもの大地に分断し、そこに新たなネフィリムが生まれようとも、互いの衝突を幾分弱めてしまうのです。生存戦略に従い戦争は避けられませんが、パンゲアの時ほどには活発にならないのではないでしょうか」
「なるほど。そのようにすれば戦争も多少は少なくなり、文明の発展をいくばくかは抑えられもしよう。そやつらはまた海を渡る技術によって大規模な戦争を起こし、やがては我が深奥を目指すのではないか」
神の疑問はもっともであったので、兄のメソス・スフィアが補足した。
「いずれはそうなりましょう。その際には再度、大陸の細分化を行います。文明を定期的に破壊することで、成長を抑止します。剪定のようなものです」
「恒久的な解決が難しければそれも仕方あるまい。では、そのようにいたせ」
そしてそれから長い年月を経て、地球に知的生命体が誕生した。人類? いや、それは違う。人類などは彼らに比べれば数段劣る文明しか持たず、神の脅威となるには億単位の年月を費やすだろう。現時点で神に最も近い知的生命体はきのこである。菌類としての生態は非常に優れており、たとえ人類が勝手に滅亡したとしても、新たな生態系構築の場を得て活躍するであろう。彼らは気流さえも巧みに制御し、海を越える力まで得た。また、地中をかいくぐり、奥深くまで潜り込むことに成功している。ただ、アセネー・スフィアの妨害があって、地上30キロメートルより先に潜ることは困難であった。
菌類たちを統率する者がいた。仙人帽の異名を持つ、モルケラ・エスキュレンタである。彼は世界のきのこネットワークの中心であり、皆の悲願を背負って立つ身でもある。「深淵への到達」 それこそが彼ら菌類の目指す道であった。そんなモルケラを陰で支えるのがエントローマ。麗しき春のしめじという異称を持つ彼女は、モルケラの崇拝者であり、優秀な魔術師でもある。
「あと一歩。ほんのあと少しで、あの憎きアセネーを壁を突破出来ると言うのに。いまだそれが成らぬのはいかなることだろうか」
「ああ、おいたわしやモルケラ様。このエントローマに今少し力がありましたなら」
「いや、エントローマ。君に責はない。すべては僕の至らなさだ。菌類たちを神の領域に連れていき、この地球を完全に支配する。それこそが僕らの悲願であり使命。けれど……」
「けれど?」
「おそらく、あいつらは僕らのことを監視している。僕らがどの程度力を蓄えているか、探っているようなんだ。もし僕らがアセネーを突破出来ると判断されたら、向こうから仕掛けてくる可能性が高い」
ジレンマであった。目的のために技術力を高める。しかしその行為が自らの滅びに繋がるかもしれない。かと言って「深淵への到達」をあきらめるなどもってのほか。それこそが彼らの存在意義なのだから。
「一か八か、強行突破しかない」
モルケラの言葉にエントローマは息をのんだ。
そして神もまた、そのやり取りを見ていた。世界はまたも破滅の道を歩み始めていた。
科学者、沖野洛 は研究所のトイレで昨日食べたものを全て吐き出していた。慣れない酒をしこたま飲まされたせいだ。「こんなの水だよ水、あははー」と軽薄な男が無理に勧めてきたのだ。確か、ジン・フィズという名前のカクテルだったか。彼女はかつてその男にトラブルを請け負ってもらった恩があり、断るに断れなかった。
年ごろの女を酔わせてどうする気だという警戒心もあったが、どうも男自身が相当に酔っていたらしい。完全なる泥酔状態。沖野は男の鞄から財布を取り出してそこの支払いを【全額】済ませ、タクシーにぶち込んで自分は電車で帰宅した。
気分が悪い。そんな時は好きな音楽を聴きながら、細菌を眺めることにしよう。沖野は菌類オタクである。
研究室内の古いCDコンポのスイッチを押す。ジョン・ケージのスリー・イージー・ピースィズ。聴く人を不安にさせる旋律が沖野の耳に心地よい。何故ジョン・ケージが好きなのか。たぶん、彼がきのこ研究家であることにシンパシーを抱いたせいだろう。
インフィニティ・カノン。ぐちゃぐちゃなピアノの旋律に気分が高まる。沖野は調子に乗って頭をふらふらさせて、急激な吐き気をもよおした。
しまった、さっき全部吐いたつもりだったのに!
沖野は慌てて近くのビンを掴み蓋を開け、そこに戻した後で気づいた。ビンのラベルに「アミガサタケ培養中」と書いてあったのだ。
その時、研究室の天井に光が溢れ、羽をはやした美少年が現れた。
「人の子よ。よくぞ忌まわしき者を始末した。そなたのおかげで世界は救われたぞ」
「え。何? 可愛い」
「そなたの働きに我が主も礼をしたいと述べている。さあ、なんなりと望むが良い」
沖野はまたも吐き気に襲われそうになり、とにかくビニール袋を持ってきてくれと願った。するとその美少年は「容易きこと」とだけ告げ、沖野の手元には新品のビニール袋が一枚残された。彼女は神に感謝した。
(三題噺)
1.ジン・フィズ
2.プレートテクトニクス理論
3.春のキノコ(ハルシメジ、アミガサタケ)
このふざけた題を提示した悪人の名を、成瀬川るるせと云う。
そして神は兄弟に問いかけた。
「この地に生まれし生命は傲慢を極める。またかのような知性をもてあそぶものたちが生まれた時、必ずや我が深奥に手を伸ばそうと画策するであろう。そこで兄弟たちよ。何かこれを防ぐ手立ては無いものか」
兄弟は神の問いかけについて考え、視線を交わし、弟であるアセネー・スフィアが答えた。
「僕と兄さんの二人で、この大地パンゲアを破壊いたしましょう」
「しかしそれでは罪なき他の生き物まで滅ぼしてしまうのではないか」
「破壊すると言っても、塵に帰すということではありません。いくつもの大地に分断し、そこに新たなネフィリムが生まれようとも、互いの衝突を幾分弱めてしまうのです。生存戦略に従い戦争は避けられませんが、パンゲアの時ほどには活発にならないのではないでしょうか」
「なるほど。そのようにすれば戦争も多少は少なくなり、文明の発展をいくばくかは抑えられもしよう。そやつらはまた海を渡る技術によって大規模な戦争を起こし、やがては我が深奥を目指すのではないか」
神の疑問はもっともであったので、兄のメソス・スフィアが補足した。
「いずれはそうなりましょう。その際には再度、大陸の細分化を行います。文明を定期的に破壊することで、成長を抑止します。剪定のようなものです」
「恒久的な解決が難しければそれも仕方あるまい。では、そのようにいたせ」
そしてそれから長い年月を経て、地球に知的生命体が誕生した。人類? いや、それは違う。人類などは彼らに比べれば数段劣る文明しか持たず、神の脅威となるには億単位の年月を費やすだろう。現時点で神に最も近い知的生命体はきのこである。菌類としての生態は非常に優れており、たとえ人類が勝手に滅亡したとしても、新たな生態系構築の場を得て活躍するであろう。彼らは気流さえも巧みに制御し、海を越える力まで得た。また、地中をかいくぐり、奥深くまで潜り込むことに成功している。ただ、アセネー・スフィアの妨害があって、地上30キロメートルより先に潜ることは困難であった。
菌類たちを統率する者がいた。仙人帽の異名を持つ、モルケラ・エスキュレンタである。彼は世界のきのこネットワークの中心であり、皆の悲願を背負って立つ身でもある。「深淵への到達」 それこそが彼ら菌類の目指す道であった。そんなモルケラを陰で支えるのがエントローマ。麗しき春のしめじという異称を持つ彼女は、モルケラの崇拝者であり、優秀な魔術師でもある。
「あと一歩。ほんのあと少しで、あの憎きアセネーを壁を突破出来ると言うのに。いまだそれが成らぬのはいかなることだろうか」
「ああ、おいたわしやモルケラ様。このエントローマに今少し力がありましたなら」
「いや、エントローマ。君に責はない。すべては僕の至らなさだ。菌類たちを神の領域に連れていき、この地球を完全に支配する。それこそが僕らの悲願であり使命。けれど……」
「けれど?」
「おそらく、あいつらは僕らのことを監視している。僕らがどの程度力を蓄えているか、探っているようなんだ。もし僕らがアセネーを突破出来ると判断されたら、向こうから仕掛けてくる可能性が高い」
ジレンマであった。目的のために技術力を高める。しかしその行為が自らの滅びに繋がるかもしれない。かと言って「深淵への到達」をあきらめるなどもってのほか。それこそが彼らの存在意義なのだから。
「一か八か、強行突破しかない」
モルケラの言葉にエントローマは息をのんだ。
そして神もまた、そのやり取りを見ていた。世界はまたも破滅の道を歩み始めていた。
科学者、
年ごろの女を酔わせてどうする気だという警戒心もあったが、どうも男自身が相当に酔っていたらしい。完全なる泥酔状態。沖野は男の鞄から財布を取り出してそこの支払いを【全額】済ませ、タクシーにぶち込んで自分は電車で帰宅した。
気分が悪い。そんな時は好きな音楽を聴きながら、細菌を眺めることにしよう。沖野は菌類オタクである。
研究室内の古いCDコンポのスイッチを押す。ジョン・ケージのスリー・イージー・ピースィズ。聴く人を不安にさせる旋律が沖野の耳に心地よい。何故ジョン・ケージが好きなのか。たぶん、彼がきのこ研究家であることにシンパシーを抱いたせいだろう。
インフィニティ・カノン。ぐちゃぐちゃなピアノの旋律に気分が高まる。沖野は調子に乗って頭をふらふらさせて、急激な吐き気をもよおした。
しまった、さっき全部吐いたつもりだったのに!
沖野は慌てて近くのビンを掴み蓋を開け、そこに戻した後で気づいた。ビンのラベルに「アミガサタケ培養中」と書いてあったのだ。
その時、研究室の天井に光が溢れ、羽をはやした美少年が現れた。
「人の子よ。よくぞ忌まわしき者を始末した。そなたのおかげで世界は救われたぞ」
「え。何? 可愛い」
「そなたの働きに我が主も礼をしたいと述べている。さあ、なんなりと望むが良い」
沖野はまたも吐き気に襲われそうになり、とにかくビニール袋を持ってきてくれと願った。するとその美少年は「容易きこと」とだけ告げ、沖野の手元には新品のビニール袋が一枚残された。彼女は神に感謝した。
(三題噺)
1.ジン・フィズ
2.プレートテクトニクス理論
3.春のキノコ(ハルシメジ、アミガサタケ)
このふざけた題を提示した悪人の名を、成瀬川るるせと云う。