『A lover of』(短編小説/藤 宮古著)
文字数 6,089文字
一
沈み行く陽光は、海色の地平線を赤い輝線に染め上げる。ますます暮れを冴え渡らせる渚には、長く伸びた二つの影が曖昧に、映し出されていた。
「ねえ。知ってる? もうすぐ私たちが付き合い始めて三年になるんだよ」
潮騒の唄が優しく耳朶に触れる。
切れ切れに流れ入る軟風に、なびく髪を押さえながら。ぎゅっと彼を握る手を強めた。
「私、コウくんのこと好き」
柔らかな白無垢は山査子の実のように紅く灯る。仄かに羞恥を宿した貌が俯けば、乱反射を繰り返す明色の海を平行線に辿る足跡が何処までも見えた。
静謐さを宿した夕餉の空気を肺に詰め込んで、そっと想いを言の葉に乗せる。
「大好きだよ」
波間に放たれた透明な響き。彼の精悍な表情はいつもと変わらない。
やがて風に攫われる残響を置き去りに、小さく歩を進めた。さざ波の冷たさにぞわりと背筋が撫でられるのも気にせず、そればかりか悶えるような喜悦と痺れるような快楽が螺旋を描いて膨れ上がり、徐に微笑みらしいものが浮かんだ。
――ずっと一緒だよ。
二
「これなんかも美味しそう。にゅーさまーおれんじ、だって」
伊豆行きの列車に弄られるような酔いを覚えては、ぐったりと項垂れていた私に、『ことりっぷ』なるガイドブックを片手にエリは呟めいた。唇のとんがった、ファニーフェイスとも形容すべきその相貌は頑として『ことりっぷ』に貼り付いている。その表情からは、これから訪れるであろう小旅行への心待ちが、あるいは幾ばくか空回り気味のやる気が、容易に見て取れるほどだった。
ところでこの伊豆という土地は私にとって、思い出の場所であるのに違わない。そこはコウくん――サークルの一つ上の先輩、私の初めての恋人――に連れて行ってもらった最初のデートスポットであり、私が彼に全てを捧げた大切な地であるからだ。
「ごめんねー。となりにいるのが私で」酔いを醒まさんと窓越しの遠い雲を眺めていた私に向かって、エリは言う。申し訳なさそうに吐いたその言葉は、推し量るに、私の酔いを憂い顔と勘違いしての発言なのだろう。
勿論、そう言った気持ちがないわけでもない。
コウくんとの関係性は、彼の大学卒業を機に大きく変化した。彼が地元で就職するために、東京を離れたのが五か月前。それでも私たちの愛は簡単には途切れることなく、所謂『遠距離恋愛』という形に落ち着いた。そこで 会えない日々を償うように、計画されたのが今回の小旅行であった。
故に今日の伊豆旅行の実を明かすのなら、元々コウくんと二人で行くべきものだった、そう言わざるを得ない。
「ううん。都合が悪かったし、しょうがないよ。それと最初は一人で行こうと思ってたし」
そう愛想気味に答えた。
彼女がこの伊豆旅行に参加することは、私にとって、一つの誤算だった。コウくんがいないとなれば、私一人でそのメモリアルな土地を巡ろうと考えていたのだが、いつの日か期せずして口走ってしまった伊豆旅行という言葉に、思いのほかエリが喰いついてしまった。その結果、なし崩し的に彼女が付いて来てしまった、というわけだ。
東京から熱海までを『こだま』で、そこから伊豆先端の下田までを『踊り子』に任せた列車旅も残り半刻ほどで終わりを迎える。思わず漏れてしまいそうな欠伸を抑え、カバンの中に埋もれていたスマートフォンを取り出すと、メールが一件届いていたことに気が付いた。
「ん? なにそれ」
その文面が珍しかったか、ちらりと一瞥したエリが率直に質す。何しろそこには英文がずらりと並んでいるのだから、つい聞きたくなる気持ちもわからなくはない。
「海外からちょっと珍しい調味料を取り寄せてたんだ。その通知だよ」特段迷うことなく、そう口にすると、「そっか。料理好きだもんね」と納得するようにエリは頷いた。
かつてコウくんに振舞った手料理を素っ気ない言葉で返され、その日の屈辱を忘れまいと、鍛え上げた料理の腕だ。それは偏にコウくんの理想となるために、愛ゆえの産物であるのは間違いない。
その後しばらく談笑が続き、無事に目的地である、終点伊豆急下田駅に着いたのだった。
晴れ渡る空のもとに広がる澄んだ空気を目一杯、肺に取り込んだ。嗅覚を優しく撫でるように刺激する懐かしの香りに、隣を歩くコウくんの見目姿を錯覚させる。
山と海に囲まれた、自然の恵みに溢れたその麗しき下田という地。誇るべきは自然だけではない。ここはかつて黒船艦隊が来航した場所でもある。故にこの歴史ロマン溢れる港町の中に点在する史跡や博物館を見まいとする観光客も少なくないのだ。
突き抜けるように澄んだ満面の快晴。照りつける陽光を手指越しに見上げれば、かの有名なペリーの偉容が見えた気がした。その蜃気楼は歓迎して、手を振っているようだった。
駅を降りた私とエリは、そのまま軽食を買うために周辺のコンビニエンスストアに立ち寄った。その後タクシーに乗って、数十分走らせれば、予てからの目的であった旅館に到達することができた。
「うっわ。ホントに綺麗だね」タクシーを降りるや否や、エリは旅館には人眼もくれず、ぼそっと呟く。
旅館の前には圧巻とも呼ぶべき海水浴場が広がっている。その規模自体は他の海水浴場と比べれば、随分と落ち着いている。しかし、目を見張るべきは、やはりその透明度の高さだろうか。ガラスのように透き通った海水に燦々と日光が射して、見紛うことなく、それは瑠璃色に輝いていた。同様に、白いさら砂は光を反射して眩く光り、海岸沿いにずらりと均一に並んだソテツも相まって、南国のビーチを思わせるほどだ。
今やそれは二度目の景色。それでも、当時の感動が微塵も薄れないというのだから、私はこの渚に心酔しているのだと改めて実感する。
重い荷物を背負って、旅館のエントランスに赴いた。予約の取れない人気宿ということもあり、その内装は、使い古された言葉ではあるが、豪華絢爛に尽きる。
「予約していた森下ですけど、」洗練された佇まいのフロントスタッフにそう告げる。
森下、という苗字はコウくんのものだ。宿の予約を彼に任せていたので、そのような名義となってしまったが、特に問題はない。事前にその旨を伝えていたので、すんなりと通してもらうことができた。
「荷物をお持ちしましょうか?」
比較的年齢の若い仲居さんがそう尋ねた。自分の所有物が他人に触れられるのに躊躇いを覚える人間は少ない。俗にいう潔癖持ちだった私は、
「運動不足なので」
軽い微笑みを浮かべ、やんわりと断った。
地産地消という響きはどうにも魔力を含んでいるらしい。座卓に並んだ伊豆半島の地魚や旬な野菜のフルコースに、気が少しでも緩めば、涎すら垂れてしまいそうだ。最近は特に肉料理が多く、いい加減飽きもしていたという理由もあり、眼前のご馳走には実に食欲がそそられる。
仲居さんに部屋を案内してもらった後、私とエリは程よく旅館内を散策した。その後、この旅館の売りの一つである檜の温泉心赴くままに浸かった。適応症は神経痛に、筋肉痛に、疲労回復。そんなこともあってか、今は中々に清々しい気分であった。慣れないものではあるが、浴衣の袖口から通る涼やかな快適さも理由の一つであろうか。
一先ずは地鯵のつみれ鍋に手が伸びる。旨味の凝縮した濃厚な鯵のつみれ、それでいてさっぱりとした淡泊さも兼ね備えていると言うのだから、不味いわけがない。出汁のしみ込んだねぎを口に通せば、際立った甘みに思わず舌鼓を打ってしまう。
それは、コウくんとの伊豆旅行の際にも、食べたものだった。やはり味は変わらず美味しい。
「……コウくん」
「やっぱり気にしてる?」
彼との思い出がそうさせたのだろう、不意に漏れてしまったその言葉。エリは私の心配をしてか、愛嬌のある表情に微笑みを浮かべ、静かに質す。
「大丈夫……彼は変わってくれたから」
その日はもう一度、温泉に入った。先ほどは檜風呂であったが、私とエリは新しきを求めて、露天風呂へと向かった。
満天に散りばめられた星。ほんのりと橙色に灯る和模様の照明。遠い遠い先にある波の音が静寂に響き渡る。ここだけが、私の居るこの場所だけが、現実に忘れ去られてしまったのではないかすらと思えてしまう。
そんな幻想的な風景に、何処か私は怯えていた。
窓の隙間から流れ込んでくる清澄な朝の空気に、次第に意識が覚醒していく。息を吸い込めば、ひんやりとした朝露の湿りが肺を満たした。部屋に漂うは祖母の家を想起させるノスタルジックなイグサの匂いに、いつもとは違う柔軟剤の爽やかな芳香。
寝ぼけ眼を擦り上げると、木材が格子状に絡む天井がしかと視界に映った。
「おはよー」
少しばかり舌足らずなエリの声が耳に届く。長い欠伸を零しながら、手の平を天井に向けて肩関節を伸ばす様子を見るに、エリも今起きたところなのだろう。
「朝ごはんは八時からだよね?」
「うん。今日はどこに行く?」
朝食を済ませばチェックアウトする予定だ。しかし荷物は預かってもらえるので、下田周辺を観光しようという話にはなっていたのだが、具体的にその方針は決まっていなかった。
エリはカバンから『ことりっぷ』を取り出す。働く女性に絶対的な支持を得ているというガイドブックだ。ぺらぺらと指を滑らせ、一度目を止めたかと思えば、再びページをめくる手を速めていく。
「まあ、適当でいいんじゃない?」エリはぱたりと本を閉じた。
何か特別な目的があるわけではない。当ても計画もない旅だから、何が起きるかわからないから、旅は面白い。コウくんもここに来たとき、そんなことを言ってたっけ。
「それもそうだね」エリの言葉に静かに相槌を打つ。
そうしてエリと談笑で時間を潰していると、ようやく朝食が運ばれてきた。豪華さや品数の多さで勝負した昨夜の夕食とは打って変わって、丁寧にこしらえた、和の極意が詰めこまれたような朝食。昨夜同様、素材へのこだわりも見られる。もはや味は言うまでもないだろう。
朝食を終え、チェックアウトを済ませた後、予定通り下田周辺を散策することになった。
ガイドブックを頼りに巡るのも、中々難しい。景観に、食に、歴史に。ここは何だって揃っているように思えた。
「ねえ、まずは水族館に行かない?」
とエリが提案するので、数十分の時間をかけ、水族館へとタクシーで移動した。
やはり女子という生き物は、写真映えする景色が好きなようだ。水族館内を三、四時間で巡ると、いつの間にかフォルダに百枚程度写真が溜まっていた。ゆったりと回遊する魚の群れを眺め、イルカやアザラシとは間近に触れ合うこともできた。私の一番のお気に入りは、コツメカワウソだった。
昼食時になって、次は魚市場の近くにある食堂へ移動した。コウくんとの旅行の際にも行った飲食店ではあったが、久々に食べてみたいという気持ちの昂ぶりが、迷わず私をそこに向かわせた。下田は金目鯛の水揚げ量が日本一らしく、やはり売りは金目鯛だった。少し重めの丼を平気でかき込むエリには少しばかり驚いたが、面と向かって言えないあたり、私もその食堂の味に胃袋を掴まされてしまったようだ。
その後はペリー所縁の史跡を巡り、寺を巡り、神社を巡った。幕末ロマン漂う町並みは歴史好きな人間には堪らないものなのだろう。この地に来る前に少しでも教科書を眺めておけば、そんな感動も一層深まったのかもしれない。
荷物を受け取りに旅館へ戻ると、辺りはすっかりオレンジ色に染まっていた。目を刺すような艶美な陽光。天上を優雅に泳ぐ雲の合間を縫って流れ込む光芒が、カーテンのように、軟風吹き上げる白い砂浜を覆っている。
そんなある種凄惨なまでの斜陽に、一抹の思い出が過った。
忘れてはならない場所がある。それは愛すべきコウくんとの一場の夢だ。
「ねえ、エリ。ちょっとだけ行きたいとこがあってね」
その一挙手一投足に不審なものを感じたのか、エリは何かを察するように、微笑んだ。
「わかった。行っといで。ちょっと疲れたから、私はロビーで待ってるよ」
「うん。ありがと」
遠い彼を思えば、次第に歩も速まっていった。やっぱり私はコウくんが大好きなのだ。
沈み行く夕陽を眺めながら、二人で愛を語らったあの渚。
どんなに重い荷物を背持っていても、その足は確実に、遠い地平線まで続く海へと向かっていた。
三
西空の雲が灰色に染まって、やがて闇夜と化して流れ去っていく。そんな暗夜の果てしない静寂とは対照的に、東京の街は何処かしこも渺々たる眩い光の中に埋もれている。
エリとの小旅行が思い出の一幕として過ぎ去ったある日の夜。
世界中には曖昧と理不尽が、七十億という顔を以って存在している。とあれば、今日という日に何かしらの意味を持つ人は多いのだろう。かく言う私もその内の一人であり、今日という日を迎えるために一通りの準備を進めてきた。
袖口をまくり上げ、一先ずは洗い場に積み重なった食器類に手をつける。それが終われば、冷凍庫から最後のブロック肉を取り出し、流水に浸け、解凍させる。野菜等、その他の材料も昼の内に買い揃えていたので、後は料理を進めていくだけだ。
最近何かと酷使し続けていた刃のこぼれた包丁を使って、材料を刻んでいく。玉ねぎはくし切りに。人参とじゃがいもは乱切りに。マッシュルームは石づきを切って、等分に。
今日はとびっきり豪華な晩餐にせねばならない。今夜、やっとコウくんと会えるのだ。
底の深いフライパンにオリーブオイル大さじ一杯を入れ、中火に。そして塩、黒胡椒で下味をつけた塊肉を面を変えながら、焼き色がつくまで火を通し、一旦取り上げる。先ほど切った野菜をフライパンに投入し、炒め合わせる。香り付けのためのローリエも忘れない。
コウくんと出会って、彼を思い出さない日はなかった。それこそ、彼が遠く離れた地に行っても。いつも彼は私の心の中にいてくれた。
野菜と肉を一緒に、赤ワインで煮立たせる。水を加え、時々肉塊の上下を返しながら、ゆっくり丁寧に面倒を見ていく。
運命的な出会いがあったわけではなかった。それでも私と彼は赤い糸で繋がっていた。決して切れない、長く太い、運命の糸。私と彼は何処ででも繋がっている。
肉を上げ、粗熱を取り、残った汁は、とろみがつくまで野菜ごと炒め続ける。海外から取り寄せていた件の隠し味を入れ、出来上がった野菜とソースを、肉と共に、器に盛りつけた。
それはかつて、彼に振舞った最初の料理――ポットローストだった。今ならきっと彼も喜んでくれる。私の努力を認めてくれるはずだ。
彼と付き合い始めて、三周年の記念日。きっと世界中から幸せな恋人を探したって、私たちの愛には遠く及ばないだろう。
沈み行く陽光は、海色の地平線を赤い輝線に染め上げる。ますます暮れを冴え渡らせる渚には、長く伸びた二つの影が曖昧に、映し出されていた。
「ねえ。知ってる? もうすぐ私たちが付き合い始めて三年になるんだよ」
潮騒の唄が優しく耳朶に触れる。
切れ切れに流れ入る軟風に、なびく髪を押さえながら。ぎゅっと彼を握る手を強めた。
「私、コウくんのこと好き」
柔らかな白無垢は山査子の実のように紅く灯る。仄かに羞恥を宿した貌が俯けば、乱反射を繰り返す明色の海を平行線に辿る足跡が何処までも見えた。
静謐さを宿した夕餉の空気を肺に詰め込んで、そっと想いを言の葉に乗せる。
「大好きだよ」
波間に放たれた透明な響き。彼の精悍な表情はいつもと変わらない。
やがて風に攫われる残響を置き去りに、小さく歩を進めた。さざ波の冷たさにぞわりと背筋が撫でられるのも気にせず、そればかりか悶えるような喜悦と痺れるような快楽が螺旋を描いて膨れ上がり、徐に微笑みらしいものが浮かんだ。
――ずっと一緒だよ。
二
「これなんかも美味しそう。にゅーさまーおれんじ、だって」
伊豆行きの列車に弄られるような酔いを覚えては、ぐったりと項垂れていた私に、『ことりっぷ』なるガイドブックを片手にエリは呟めいた。唇のとんがった、ファニーフェイスとも形容すべきその相貌は頑として『ことりっぷ』に貼り付いている。その表情からは、これから訪れるであろう小旅行への心待ちが、あるいは幾ばくか空回り気味のやる気が、容易に見て取れるほどだった。
ところでこの伊豆という土地は私にとって、思い出の場所であるのに違わない。そこはコウくん――サークルの一つ上の先輩、私の初めての恋人――に連れて行ってもらった最初のデートスポットであり、私が彼に全てを捧げた大切な地であるからだ。
「ごめんねー。となりにいるのが私で」酔いを醒まさんと窓越しの遠い雲を眺めていた私に向かって、エリは言う。申し訳なさそうに吐いたその言葉は、推し量るに、私の酔いを憂い顔と勘違いしての発言なのだろう。
勿論、そう言った気持ちがないわけでもない。
コウくんとの関係性は、彼の大学卒業を機に大きく変化した。彼が地元で就職するために、東京を離れたのが五か月前。それでも私たちの愛は簡単には途切れることなく、所謂『遠距離恋愛』という形に落ち着いた。そこで 会えない日々を償うように、計画されたのが今回の小旅行であった。
故に今日の伊豆旅行の実を明かすのなら、元々コウくんと二人で行くべきものだった、そう言わざるを得ない。
「ううん。都合が悪かったし、しょうがないよ。それと最初は一人で行こうと思ってたし」
そう愛想気味に答えた。
彼女がこの伊豆旅行に参加することは、私にとって、一つの誤算だった。コウくんがいないとなれば、私一人でそのメモリアルな土地を巡ろうと考えていたのだが、いつの日か期せずして口走ってしまった伊豆旅行という言葉に、思いのほかエリが喰いついてしまった。その結果、なし崩し的に彼女が付いて来てしまった、というわけだ。
東京から熱海までを『こだま』で、そこから伊豆先端の下田までを『踊り子』に任せた列車旅も残り半刻ほどで終わりを迎える。思わず漏れてしまいそうな欠伸を抑え、カバンの中に埋もれていたスマートフォンを取り出すと、メールが一件届いていたことに気が付いた。
「ん? なにそれ」
その文面が珍しかったか、ちらりと一瞥したエリが率直に質す。何しろそこには英文がずらりと並んでいるのだから、つい聞きたくなる気持ちもわからなくはない。
「海外からちょっと珍しい調味料を取り寄せてたんだ。その通知だよ」特段迷うことなく、そう口にすると、「そっか。料理好きだもんね」と納得するようにエリは頷いた。
かつてコウくんに振舞った手料理を素っ気ない言葉で返され、その日の屈辱を忘れまいと、鍛え上げた料理の腕だ。それは偏にコウくんの理想となるために、愛ゆえの産物であるのは間違いない。
その後しばらく談笑が続き、無事に目的地である、終点伊豆急下田駅に着いたのだった。
晴れ渡る空のもとに広がる澄んだ空気を目一杯、肺に取り込んだ。嗅覚を優しく撫でるように刺激する懐かしの香りに、隣を歩くコウくんの見目姿を錯覚させる。
山と海に囲まれた、自然の恵みに溢れたその麗しき下田という地。誇るべきは自然だけではない。ここはかつて黒船艦隊が来航した場所でもある。故にこの歴史ロマン溢れる港町の中に点在する史跡や博物館を見まいとする観光客も少なくないのだ。
突き抜けるように澄んだ満面の快晴。照りつける陽光を手指越しに見上げれば、かの有名なペリーの偉容が見えた気がした。その蜃気楼は歓迎して、手を振っているようだった。
駅を降りた私とエリは、そのまま軽食を買うために周辺のコンビニエンスストアに立ち寄った。その後タクシーに乗って、数十分走らせれば、予てからの目的であった旅館に到達することができた。
「うっわ。ホントに綺麗だね」タクシーを降りるや否や、エリは旅館には人眼もくれず、ぼそっと呟く。
旅館の前には圧巻とも呼ぶべき海水浴場が広がっている。その規模自体は他の海水浴場と比べれば、随分と落ち着いている。しかし、目を見張るべきは、やはりその透明度の高さだろうか。ガラスのように透き通った海水に燦々と日光が射して、見紛うことなく、それは瑠璃色に輝いていた。同様に、白いさら砂は光を反射して眩く光り、海岸沿いにずらりと均一に並んだソテツも相まって、南国のビーチを思わせるほどだ。
今やそれは二度目の景色。それでも、当時の感動が微塵も薄れないというのだから、私はこの渚に心酔しているのだと改めて実感する。
重い荷物を背負って、旅館のエントランスに赴いた。予約の取れない人気宿ということもあり、その内装は、使い古された言葉ではあるが、豪華絢爛に尽きる。
「予約していた森下ですけど、」洗練された佇まいのフロントスタッフにそう告げる。
森下、という苗字はコウくんのものだ。宿の予約を彼に任せていたので、そのような名義となってしまったが、特に問題はない。事前にその旨を伝えていたので、すんなりと通してもらうことができた。
「荷物をお持ちしましょうか?」
比較的年齢の若い仲居さんがそう尋ねた。自分の所有物が他人に触れられるのに躊躇いを覚える人間は少ない。俗にいう潔癖持ちだった私は、
「運動不足なので」
軽い微笑みを浮かべ、やんわりと断った。
地産地消という響きはどうにも魔力を含んでいるらしい。座卓に並んだ伊豆半島の地魚や旬な野菜のフルコースに、気が少しでも緩めば、涎すら垂れてしまいそうだ。最近は特に肉料理が多く、いい加減飽きもしていたという理由もあり、眼前のご馳走には実に食欲がそそられる。
仲居さんに部屋を案内してもらった後、私とエリは程よく旅館内を散策した。その後、この旅館の売りの一つである檜の温泉心赴くままに浸かった。適応症は神経痛に、筋肉痛に、疲労回復。そんなこともあってか、今は中々に清々しい気分であった。慣れないものではあるが、浴衣の袖口から通る涼やかな快適さも理由の一つであろうか。
一先ずは地鯵のつみれ鍋に手が伸びる。旨味の凝縮した濃厚な鯵のつみれ、それでいてさっぱりとした淡泊さも兼ね備えていると言うのだから、不味いわけがない。出汁のしみ込んだねぎを口に通せば、際立った甘みに思わず舌鼓を打ってしまう。
それは、コウくんとの伊豆旅行の際にも、食べたものだった。やはり味は変わらず美味しい。
「……コウくん」
「やっぱり気にしてる?」
彼との思い出がそうさせたのだろう、不意に漏れてしまったその言葉。エリは私の心配をしてか、愛嬌のある表情に微笑みを浮かべ、静かに質す。
「大丈夫……彼は変わってくれたから」
その日はもう一度、温泉に入った。先ほどは檜風呂であったが、私とエリは新しきを求めて、露天風呂へと向かった。
満天に散りばめられた星。ほんのりと橙色に灯る和模様の照明。遠い遠い先にある波の音が静寂に響き渡る。ここだけが、私の居るこの場所だけが、現実に忘れ去られてしまったのではないかすらと思えてしまう。
そんな幻想的な風景に、何処か私は怯えていた。
窓の隙間から流れ込んでくる清澄な朝の空気に、次第に意識が覚醒していく。息を吸い込めば、ひんやりとした朝露の湿りが肺を満たした。部屋に漂うは祖母の家を想起させるノスタルジックなイグサの匂いに、いつもとは違う柔軟剤の爽やかな芳香。
寝ぼけ眼を擦り上げると、木材が格子状に絡む天井がしかと視界に映った。
「おはよー」
少しばかり舌足らずなエリの声が耳に届く。長い欠伸を零しながら、手の平を天井に向けて肩関節を伸ばす様子を見るに、エリも今起きたところなのだろう。
「朝ごはんは八時からだよね?」
「うん。今日はどこに行く?」
朝食を済ませばチェックアウトする予定だ。しかし荷物は預かってもらえるので、下田周辺を観光しようという話にはなっていたのだが、具体的にその方針は決まっていなかった。
エリはカバンから『ことりっぷ』を取り出す。働く女性に絶対的な支持を得ているというガイドブックだ。ぺらぺらと指を滑らせ、一度目を止めたかと思えば、再びページをめくる手を速めていく。
「まあ、適当でいいんじゃない?」エリはぱたりと本を閉じた。
何か特別な目的があるわけではない。当ても計画もない旅だから、何が起きるかわからないから、旅は面白い。コウくんもここに来たとき、そんなことを言ってたっけ。
「それもそうだね」エリの言葉に静かに相槌を打つ。
そうしてエリと談笑で時間を潰していると、ようやく朝食が運ばれてきた。豪華さや品数の多さで勝負した昨夜の夕食とは打って変わって、丁寧にこしらえた、和の極意が詰めこまれたような朝食。昨夜同様、素材へのこだわりも見られる。もはや味は言うまでもないだろう。
朝食を終え、チェックアウトを済ませた後、予定通り下田周辺を散策することになった。
ガイドブックを頼りに巡るのも、中々難しい。景観に、食に、歴史に。ここは何だって揃っているように思えた。
「ねえ、まずは水族館に行かない?」
とエリが提案するので、数十分の時間をかけ、水族館へとタクシーで移動した。
やはり女子という生き物は、写真映えする景色が好きなようだ。水族館内を三、四時間で巡ると、いつの間にかフォルダに百枚程度写真が溜まっていた。ゆったりと回遊する魚の群れを眺め、イルカやアザラシとは間近に触れ合うこともできた。私の一番のお気に入りは、コツメカワウソだった。
昼食時になって、次は魚市場の近くにある食堂へ移動した。コウくんとの旅行の際にも行った飲食店ではあったが、久々に食べてみたいという気持ちの昂ぶりが、迷わず私をそこに向かわせた。下田は金目鯛の水揚げ量が日本一らしく、やはり売りは金目鯛だった。少し重めの丼を平気でかき込むエリには少しばかり驚いたが、面と向かって言えないあたり、私もその食堂の味に胃袋を掴まされてしまったようだ。
その後はペリー所縁の史跡を巡り、寺を巡り、神社を巡った。幕末ロマン漂う町並みは歴史好きな人間には堪らないものなのだろう。この地に来る前に少しでも教科書を眺めておけば、そんな感動も一層深まったのかもしれない。
荷物を受け取りに旅館へ戻ると、辺りはすっかりオレンジ色に染まっていた。目を刺すような艶美な陽光。天上を優雅に泳ぐ雲の合間を縫って流れ込む光芒が、カーテンのように、軟風吹き上げる白い砂浜を覆っている。
そんなある種凄惨なまでの斜陽に、一抹の思い出が過った。
忘れてはならない場所がある。それは愛すべきコウくんとの一場の夢だ。
「ねえ、エリ。ちょっとだけ行きたいとこがあってね」
その一挙手一投足に不審なものを感じたのか、エリは何かを察するように、微笑んだ。
「わかった。行っといで。ちょっと疲れたから、私はロビーで待ってるよ」
「うん。ありがと」
遠い彼を思えば、次第に歩も速まっていった。やっぱり私はコウくんが大好きなのだ。
沈み行く夕陽を眺めながら、二人で愛を語らったあの渚。
どんなに重い荷物を背持っていても、その足は確実に、遠い地平線まで続く海へと向かっていた。
三
西空の雲が灰色に染まって、やがて闇夜と化して流れ去っていく。そんな暗夜の果てしない静寂とは対照的に、東京の街は何処かしこも渺々たる眩い光の中に埋もれている。
エリとの小旅行が思い出の一幕として過ぎ去ったある日の夜。
世界中には曖昧と理不尽が、七十億という顔を以って存在している。とあれば、今日という日に何かしらの意味を持つ人は多いのだろう。かく言う私もその内の一人であり、今日という日を迎えるために一通りの準備を進めてきた。
袖口をまくり上げ、一先ずは洗い場に積み重なった食器類に手をつける。それが終われば、冷凍庫から最後のブロック肉を取り出し、流水に浸け、解凍させる。野菜等、その他の材料も昼の内に買い揃えていたので、後は料理を進めていくだけだ。
最近何かと酷使し続けていた刃のこぼれた包丁を使って、材料を刻んでいく。玉ねぎはくし切りに。人参とじゃがいもは乱切りに。マッシュルームは石づきを切って、等分に。
今日はとびっきり豪華な晩餐にせねばならない。今夜、やっとコウくんと会えるのだ。
底の深いフライパンにオリーブオイル大さじ一杯を入れ、中火に。そして塩、黒胡椒で下味をつけた塊肉を面を変えながら、焼き色がつくまで火を通し、一旦取り上げる。先ほど切った野菜をフライパンに投入し、炒め合わせる。香り付けのためのローリエも忘れない。
コウくんと出会って、彼を思い出さない日はなかった。それこそ、彼が遠く離れた地に行っても。いつも彼は私の心の中にいてくれた。
野菜と肉を一緒に、赤ワインで煮立たせる。水を加え、時々肉塊の上下を返しながら、ゆっくり丁寧に面倒を見ていく。
運命的な出会いがあったわけではなかった。それでも私と彼は赤い糸で繋がっていた。決して切れない、長く太い、運命の糸。私と彼は何処ででも繋がっている。
肉を上げ、粗熱を取り、残った汁は、とろみがつくまで野菜ごと炒め続ける。海外から取り寄せていた件の隠し味を入れ、出来上がった野菜とソースを、肉と共に、器に盛りつけた。
それはかつて、彼に振舞った最初の料理――ポットローストだった。今ならきっと彼も喜んでくれる。私の努力を認めてくれるはずだ。
彼と付き合い始めて、三周年の記念日。きっと世界中から幸せな恋人を探したって、私たちの愛には遠く及ばないだろう。