『玉藻香炉・上巻【偽典・蘆屋探偵事務所録2】』(中編小説/成瀬川るるせ著)
文字数 2,605文字
世田谷区、千歳烏山駅南口。平日、夜の11時。
退勤時間も過ぎ、駅前にひとはまばらになっている。
その中を僕、成瀬川るるせは走っていた。
四月の月夜の空気は、こんな街の真っただ中でも、やさしい。
軽く汗をかいて、インナーシャツが湿り気を帯びる。
ぼさぼさの髪の毛が汗で額に張り付く。
千歳烏山駅南口から世田谷文学館へ向かって三分ほど進むと、件の居酒屋はあった。
看板で屋号を確かめると、僕は引き戸になっている入り口を開けて、店内に入る。
そしてそのまま、カウンター席で白衣姿の女性とおしゃべりしている〈探偵〉蘆屋アシェラの元へ一直線に向かっていった。
「アシェラさん!」
肩を叩くと、僕を振り向いて驚いた風なジェスチャーをする蘆屋アシェラさん。
「やぁ、るるせくん。君も一杯、どうかね」
純米吟醸・神心という日本酒の一升瓶を片手に掲げ、アシェラさんは僕に言った。
「すっかりできあがってる……珍しいですね、アシェラさん」
これは本当に珍しいことだった。お酒は飲んでも飲まれるな、のアシェラさんが酔っぱらっている? んなバカな。
「『神心』という名前のお酒だけに、神の御心のままに、というわけさ、……なんてね。なにも珍しいわけじゃない。僕だってたまには酔いつぶれるほど飲みたいときがあるってことさ」
「だからって財布を事務所に置きっぱなしで居酒屋にこの時間まで立てこもるってのはよくないと思いますけどね!」
財布を忘れたアシェラさんのために、僕は事務所から財布を持ってきたのだ。
憤慨する僕を、アシェラさんの隣のカウンター席に座っている女性が、なだめる。
「まあまあ、そう怒らないでいいわよ。楽しく飲みましょ?」
「ふむ。そういうことさ、るるせくん。あ、紹介がまだだったね、こちら、科学者の沖野洛さん」
「おきらくさん、と呼んでね、るるせくん」
「は……はぁ」
「で、こちらがうちの事務所の所員、成瀬川るるせくんだ」
「え? えっと、どーも。成瀬川るるせです」
気が削がれるなぁ。
僕は怒る気力も失せた。額の汗を拭いて、脱力する。
「るるせくん。おきらくさんは一流の科学者でね、今度、僕の事務所で科捜研的なポジションになってくれないか、と頼んでいるところなんだよ」
科捜研。科学捜査班、か。確かに、そういう要員は今後、必要になってくるだろうなぁ。
さすがにアシェラさんが名探偵だって言ったって、科学捜査ができないのはマイナスだもんな。
補う必要があるだろう……って、ちっがーう!
「アシェラさん! 僕は蘆屋探偵事務所の所員になった覚えはありません!」
「でも、今日は事務所で惰眠をむさぼっていたじゃないか」
「いや、そーなんですけどもっ!」
「うふふ」
白衣をひるがえし、沖野洛……おきらくさんは、お猪口を持っていない方の手で僕を指さした。
「るるせくん。覚えておくといいわ。科学者の間ではね、パンはとても危険な食べ物として知られているのよ!」
「は? はぁ? えっと、パンって、あの、ブレッドですよね。食パンとかカレーパンとかの」
「そう! そのパンよ! パンは危険な食べ物なのよ!」
カウンター席から勢いよく飛び上がるおきらくさん。
「1.犯罪者の98%はパンを食べている。
2.パンを日常的に食べて育った子供の約半数は、テストが平均点以下である。
3.暴力的犯罪の90%は、パンを食べてから24時間以内に起きている。
4.パンは中毒症状を引き起こす。被験者に最初はパンと水を与え、後に水だけを与える実験をすると、2日もしないうちにパンを異常にほしがる。
5.新生児にパンを与えると、のどをつまらせて苦しがる。
6.18世紀、どの家も各自でパンを焼いていた頃、平均寿命は50歳だった」
おきらくさんはふふん、と鼻を鳴らしてキメ顔でそのように言った。
「はぁ」
僕は静かに頷いた。
「………………」
「………………」
「………………」
「…………」
「…………」
「…………いや、ここ、笑うとこよ」
「はぁ?」
肩をすくめるアシェラさん。
「科学者ジョークだよ、るるせくん。これはとても有名なジョークなんだ」
「ああ、そうですか……はぁ」
僕はため息を吐いた。
「まったく、科学を理解しない者はダメだね。ダメなその典型例がこの成瀬川るるせという男だよ」
「もっとわかりやすいジョークがよかったかしら」
「どうやらそのようだね」
「ウォルトーさんがアシッドをキメてスケッチしたから、空飛ぶソウの両耳はあんなに大きいのよ。空飛ぶってのもそういう意味だし」
いや、ちょっと、それ、どーなんですか、ギャグとして。アメリカン過ぎません?
僕は本気でうろたえた。
「はぁ、ダメだなぁ、るるせくん。ここは大爆笑する、そういうとこだぞ」
ダメだ、アシェラさんの酔いも相当なものだ。
ああ、もう、どうしよう。収集がつかない……。
僕が悩んで立ちすくんでいると、スマートフォンの音が鳴った。
通話をタップしてスピーカーで声を聴くと、声の主は探偵助手の女子高生(が、たぶん女子高生ではない)姫宮さんからだった。
「る……るるせくん。今回はリタイヤ。頭痛と吐き気でヤラれそう。報告書は、今、メールで送るから。……うぇっぷ」
吐きそうな音を出して、通話は切れた。
プー、プー、と、通話が切れた音がしたのをしばらく聞いてから、僕も受話器を置くマークをタップした。
怪訝な顔をするアシェラさん。
スピーカーで鳴らしていたので、姫宮さんの声が聞こえていたのだ。
「頭痛と吐き気?」
アシェラさんは、あごに手を当て、なにかを考え始めた。
そう。探偵助手の姫宮さんは、今、とある教団に潜入捜査をしていたのだった。
アシェラさんがなにかを言う前に、僕のスマートフォンがメールを受信した。
そこには、こう、書かれていた。
「君・息・嘘」
見事に、三文字だけだった。潜入捜査ゆえ、これしか書けない状況下にいたのだろう、おそらくは誰かの監視下の元で、これをメールに打ち込んだ。
「君・息・嘘……か」
アシェラさんは、メールを覗き見て、この三文字を復唱した。
こうして、今回の事件が幕を開ける。
退勤時間も過ぎ、駅前にひとはまばらになっている。
その中を僕、成瀬川るるせは走っていた。
四月の月夜の空気は、こんな街の真っただ中でも、やさしい。
軽く汗をかいて、インナーシャツが湿り気を帯びる。
ぼさぼさの髪の毛が汗で額に張り付く。
千歳烏山駅南口から世田谷文学館へ向かって三分ほど進むと、件の居酒屋はあった。
看板で屋号を確かめると、僕は引き戸になっている入り口を開けて、店内に入る。
そしてそのまま、カウンター席で白衣姿の女性とおしゃべりしている〈探偵〉蘆屋アシェラの元へ一直線に向かっていった。
「アシェラさん!」
肩を叩くと、僕を振り向いて驚いた風なジェスチャーをする蘆屋アシェラさん。
「やぁ、るるせくん。君も一杯、どうかね」
純米吟醸・神心という日本酒の一升瓶を片手に掲げ、アシェラさんは僕に言った。
「すっかりできあがってる……珍しいですね、アシェラさん」
これは本当に珍しいことだった。お酒は飲んでも飲まれるな、のアシェラさんが酔っぱらっている? んなバカな。
「『神心』という名前のお酒だけに、神の御心のままに、というわけさ、……なんてね。なにも珍しいわけじゃない。僕だってたまには酔いつぶれるほど飲みたいときがあるってことさ」
「だからって財布を事務所に置きっぱなしで居酒屋にこの時間まで立てこもるってのはよくないと思いますけどね!」
財布を忘れたアシェラさんのために、僕は事務所から財布を持ってきたのだ。
憤慨する僕を、アシェラさんの隣のカウンター席に座っている女性が、なだめる。
「まあまあ、そう怒らないでいいわよ。楽しく飲みましょ?」
「ふむ。そういうことさ、るるせくん。あ、紹介がまだだったね、こちら、科学者の沖野洛さん」
「おきらくさん、と呼んでね、るるせくん」
「は……はぁ」
「で、こちらがうちの事務所の所員、成瀬川るるせくんだ」
「え? えっと、どーも。成瀬川るるせです」
気が削がれるなぁ。
僕は怒る気力も失せた。額の汗を拭いて、脱力する。
「るるせくん。おきらくさんは一流の科学者でね、今度、僕の事務所で科捜研的なポジションになってくれないか、と頼んでいるところなんだよ」
科捜研。科学捜査班、か。確かに、そういう要員は今後、必要になってくるだろうなぁ。
さすがにアシェラさんが名探偵だって言ったって、科学捜査ができないのはマイナスだもんな。
補う必要があるだろう……って、ちっがーう!
「アシェラさん! 僕は蘆屋探偵事務所の所員になった覚えはありません!」
「でも、今日は事務所で惰眠をむさぼっていたじゃないか」
「いや、そーなんですけどもっ!」
「うふふ」
白衣をひるがえし、沖野洛……おきらくさんは、お猪口を持っていない方の手で僕を指さした。
「るるせくん。覚えておくといいわ。科学者の間ではね、パンはとても危険な食べ物として知られているのよ!」
「は? はぁ? えっと、パンって、あの、ブレッドですよね。食パンとかカレーパンとかの」
「そう! そのパンよ! パンは危険な食べ物なのよ!」
カウンター席から勢いよく飛び上がるおきらくさん。
「1.犯罪者の98%はパンを食べている。
2.パンを日常的に食べて育った子供の約半数は、テストが平均点以下である。
3.暴力的犯罪の90%は、パンを食べてから24時間以内に起きている。
4.パンは中毒症状を引き起こす。被験者に最初はパンと水を与え、後に水だけを与える実験をすると、2日もしないうちにパンを異常にほしがる。
5.新生児にパンを与えると、のどをつまらせて苦しがる。
6.18世紀、どの家も各自でパンを焼いていた頃、平均寿命は50歳だった」
おきらくさんはふふん、と鼻を鳴らしてキメ顔でそのように言った。
「はぁ」
僕は静かに頷いた。
「………………」
「………………」
「………………」
「…………」
「…………」
「…………いや、ここ、笑うとこよ」
「はぁ?」
肩をすくめるアシェラさん。
「科学者ジョークだよ、るるせくん。これはとても有名なジョークなんだ」
「ああ、そうですか……はぁ」
僕はため息を吐いた。
「まったく、科学を理解しない者はダメだね。ダメなその典型例がこの成瀬川るるせという男だよ」
「もっとわかりやすいジョークがよかったかしら」
「どうやらそのようだね」
「ウォルトーさんがアシッドをキメてスケッチしたから、空飛ぶソウの両耳はあんなに大きいのよ。空飛ぶってのもそういう意味だし」
いや、ちょっと、それ、どーなんですか、ギャグとして。アメリカン過ぎません?
僕は本気でうろたえた。
「はぁ、ダメだなぁ、るるせくん。ここは大爆笑する、そういうとこだぞ」
ダメだ、アシェラさんの酔いも相当なものだ。
ああ、もう、どうしよう。収集がつかない……。
僕が悩んで立ちすくんでいると、スマートフォンの音が鳴った。
通話をタップしてスピーカーで声を聴くと、声の主は探偵助手の女子高生(が、たぶん女子高生ではない)姫宮さんからだった。
「る……るるせくん。今回はリタイヤ。頭痛と吐き気でヤラれそう。報告書は、今、メールで送るから。……うぇっぷ」
吐きそうな音を出して、通話は切れた。
プー、プー、と、通話が切れた音がしたのをしばらく聞いてから、僕も受話器を置くマークをタップした。
怪訝な顔をするアシェラさん。
スピーカーで鳴らしていたので、姫宮さんの声が聞こえていたのだ。
「頭痛と吐き気?」
アシェラさんは、あごに手を当て、なにかを考え始めた。
そう。探偵助手の姫宮さんは、今、とある教団に潜入捜査をしていたのだった。
アシェラさんがなにかを言う前に、僕のスマートフォンがメールを受信した。
そこには、こう、書かれていた。
「君・息・嘘」
見事に、三文字だけだった。潜入捜査ゆえ、これしか書けない状況下にいたのだろう、おそらくは誰かの監視下の元で、これをメールに打ち込んだ。
「君・息・嘘……か」
アシェラさんは、メールを覗き見て、この三文字を復唱した。
こうして、今回の事件が幕を開ける。