『神聖なるもの』(掌編小説/アシェラ著)
文字数 2,114文字
何よりも大切なそれが音を立てて砕け散った時の感情をどう伝えれば良いだろう。友人は涙を流しながら「ごめんね」を繰り返し、私に赦しを求めた。私は本心から「気にしていないから」と告げたが、周囲はそんな私を褒め称えた。まるで聖者を称えるかのごとく、私は慈愛に満ちた人と見られたのだ。そのことに酷く困惑する。しかし、困惑してはならないと、深奥に眠るささやかな社会性が私に呼びかける。だから私は作り笑顔で「大丈夫」と言って、その無為な時間が過ぎるのを待つしかなかった。
大切なものが壊されたら、怒りに震えなければならない。けれど私はその考えに全く共感できない。むしろ私は喜んでしまったのだ。あれは事故だった。そう、故意ではなく、仕方なく、私の宝物が失われた瞬間を、私はとても喜ばしいと感じてしまった。大事に大事に、愛情を注ぎ育んだものであっても、運命の女神は差別なく取り扱う。何かが破壊される瞬間は平等なのだ。人為的なものならば怒りを抱く。許せない、と感じる。そこはぎりぎり人らしい、のかもしれない。
友人が破壊したそれは私にとって間違いなく宝物であった。友人の命とその宝物とを天秤にかければ、迷わず宝物を選ぶくらいに。そうだと言うのに、友人が意図せず宝物を破壊してしまったことに何の怒りもわいてこない。それどころか、運命の瞬間に出会えたことに感謝さえしたのだ。人生においてこれほど心震える瞬間があることに気づかせてくれた、その一事をもって私は友人に感謝した。ただ、それを伝えることは困難に思ったので、未だに「ありがとう」の一言も伝えられずにいる。そのことは残念に思う。
あの時の感情をもう一度。そう願って、私はまた宝物を作った。前以上に愛情を注ぎ、優しく取り扱い、前よりも大切と思えるまでにした。そしてその宝物が壊れてしまうことを想像した。想像するたびに陶酔にも似た感情に溺れたが、周囲には優しげな微笑みと思われただろう。違うのだ。私はあなたたちが思うような、そんな美しい生き方をしていない。何度か自分でそれを破壊してみようかと企んだ。けれど少し考えてみて、全く意味が無いと思えたのでやめにした。完全なる偶然、運命によってそうなるのでなければ意味がない。自身の不注意による破壊も私の期待を台無しにする。私は宝物を愛し、常にそれが大きな力によって破壊されることを期待するという、矛盾じみた感情を抱いて生きることになった。
ある日、大きな地震が起きた。宝物が高い所から低い所に落ちる、という予見を得た。当然それは阻止しなければならない。けれど同時に、そうなってしまう瞬間のことを期待してしまう。だからと言って、なるように任せてはいけない。自身の努力でそれが防げるのならば、そうすべきなのだ。怠ることもまた自己の意図が入り込んだ結果と言えるだろう。私は揺れる大地で踏ん張りながら、宝物を大事に抱きしめた。
揺れが収まった。軽く息を吐き、胸をなでおろしたところに強い衝撃があった。何か固いものが頭に激突したのだと思う。朦朧とする意識の中、私は宝物をじっと見つめた。霞んでよく見えないが、傷がついている様子はない。宝物は無事だった。運命は平等だ。私が細心の注意で宝物を守れば、そのしわ寄せが私自身のところに来るのも道理だろう。不思議な満足感と共に目を閉じる。天国は、どんなところだろう。
目覚めるとそこは白い世界だった。私以外何もない。いや、私自身もここにいるのだろうか。確信が持てない。ただぼんやりしていると、何かがあるのを感じた。目を凝らすと、そこにはかつて私が失った宝物があった。それを見た時の感情をどう表現すれば良いだろう。流せぬ涙が溢れ出て、止まらない。喪失に陶酔する異端が存在に翻弄される。不安定になる。ようやく気付いた。「気にしていない」のではなく、気にすることさえできなかっただけ。何も受け入れられず、運命を神聖視し、ただその思いにすがっていたに過ぎなかった。声なき声をあげ、私は泣いた。その世界は永遠であった。
数日後、私は久しぶりに友人と再会した。私は友人に「赦すよ」と告げた。友人は私に「ありがとう」と言った。
(以下駄文)
『出エジプト記』では神の怒りによって驚くほど多くの人が死にます。これを現実にあてはめると、例えば飢饉や疫病による死であろうと考えられます。人々は自分たちではどうにもならない死を神の仕業に置き換えることで、その受け入れがたい悲しみを緩和していたのではないか、と僕は思います。何よりも大事なものが軽々しく召し上げられてしまう、その理不尽をどのようにして受け止め、心の平穏を保つことができるのか。どうしようもない悲しみを一時的に抑え、自らを守ることは良いのです。ただ、いつまでもそうやって神のせいにしてはいけない、とも思います。何があろうと生きていれば、人は夜になれば眠るし、朝になれば起きるのだから。
この掌編における「宝物」は具体的に何という設定をしていません。「私」や「友人」の性別や年齢も決めていないし、「地震」さえも何かのメタファーであると考えています。
大切なものが壊されたら、怒りに震えなければならない。けれど私はその考えに全く共感できない。むしろ私は喜んでしまったのだ。あれは事故だった。そう、故意ではなく、仕方なく、私の宝物が失われた瞬間を、私はとても喜ばしいと感じてしまった。大事に大事に、愛情を注ぎ育んだものであっても、運命の女神は差別なく取り扱う。何かが破壊される瞬間は平等なのだ。人為的なものならば怒りを抱く。許せない、と感じる。そこはぎりぎり人らしい、のかもしれない。
友人が破壊したそれは私にとって間違いなく宝物であった。友人の命とその宝物とを天秤にかければ、迷わず宝物を選ぶくらいに。そうだと言うのに、友人が意図せず宝物を破壊してしまったことに何の怒りもわいてこない。それどころか、運命の瞬間に出会えたことに感謝さえしたのだ。人生においてこれほど心震える瞬間があることに気づかせてくれた、その一事をもって私は友人に感謝した。ただ、それを伝えることは困難に思ったので、未だに「ありがとう」の一言も伝えられずにいる。そのことは残念に思う。
あの時の感情をもう一度。そう願って、私はまた宝物を作った。前以上に愛情を注ぎ、優しく取り扱い、前よりも大切と思えるまでにした。そしてその宝物が壊れてしまうことを想像した。想像するたびに陶酔にも似た感情に溺れたが、周囲には優しげな微笑みと思われただろう。違うのだ。私はあなたたちが思うような、そんな美しい生き方をしていない。何度か自分でそれを破壊してみようかと企んだ。けれど少し考えてみて、全く意味が無いと思えたのでやめにした。完全なる偶然、運命によってそうなるのでなければ意味がない。自身の不注意による破壊も私の期待を台無しにする。私は宝物を愛し、常にそれが大きな力によって破壊されることを期待するという、矛盾じみた感情を抱いて生きることになった。
ある日、大きな地震が起きた。宝物が高い所から低い所に落ちる、という予見を得た。当然それは阻止しなければならない。けれど同時に、そうなってしまう瞬間のことを期待してしまう。だからと言って、なるように任せてはいけない。自身の努力でそれが防げるのならば、そうすべきなのだ。怠ることもまた自己の意図が入り込んだ結果と言えるだろう。私は揺れる大地で踏ん張りながら、宝物を大事に抱きしめた。
揺れが収まった。軽く息を吐き、胸をなでおろしたところに強い衝撃があった。何か固いものが頭に激突したのだと思う。朦朧とする意識の中、私は宝物をじっと見つめた。霞んでよく見えないが、傷がついている様子はない。宝物は無事だった。運命は平等だ。私が細心の注意で宝物を守れば、そのしわ寄せが私自身のところに来るのも道理だろう。不思議な満足感と共に目を閉じる。天国は、どんなところだろう。
目覚めるとそこは白い世界だった。私以外何もない。いや、私自身もここにいるのだろうか。確信が持てない。ただぼんやりしていると、何かがあるのを感じた。目を凝らすと、そこにはかつて私が失った宝物があった。それを見た時の感情をどう表現すれば良いだろう。流せぬ涙が溢れ出て、止まらない。喪失に陶酔する異端が存在に翻弄される。不安定になる。ようやく気付いた。「気にしていない」のではなく、気にすることさえできなかっただけ。何も受け入れられず、運命を神聖視し、ただその思いにすがっていたに過ぎなかった。声なき声をあげ、私は泣いた。その世界は永遠であった。
数日後、私は久しぶりに友人と再会した。私は友人に「赦すよ」と告げた。友人は私に「ありがとう」と言った。
(以下駄文)
『出エジプト記』では神の怒りによって驚くほど多くの人が死にます。これを現実にあてはめると、例えば飢饉や疫病による死であろうと考えられます。人々は自分たちではどうにもならない死を神の仕業に置き換えることで、その受け入れがたい悲しみを緩和していたのではないか、と僕は思います。何よりも大事なものが軽々しく召し上げられてしまう、その理不尽をどのようにして受け止め、心の平穏を保つことができるのか。どうしようもない悲しみを一時的に抑え、自らを守ることは良いのです。ただ、いつまでもそうやって神のせいにしてはいけない、とも思います。何があろうと生きていれば、人は夜になれば眠るし、朝になれば起きるのだから。
この掌編における「宝物」は具体的に何という設定をしていません。「私」や「友人」の性別や年齢も決めていないし、「地震」さえも何かのメタファーであると考えています。