ろくでもない出来事の後始末は、湘南で

文字数 7,037文字

 午前の早い時刻にも関わらず、北鎌倉の人出は多かった。
 美羽は、赤いチェックのカットソーにデニムのロングスカート、大判のショールという私服姿で、高輪の寮から出かけると、黄金の翼を広げ、都心の空に舞い上がり、北鎌倉駅の駅前に降り立った。
 東和麗華学園高等部の学生寮にと、セキュリティーが厳重な高輪のワンルームマンションが数戸、借り上げられ、美羽もその一室に入居しているのだった。
 美羽は三月までいた市役所通りにある、児童福祉施設を訪ねることが目的だったが、久しぶりに鎌倉の山谷を歩いてみたく、北鎌倉駅の駅前に降りたのだが、日曜日とあって、人出は既に始まっていた。
 鎌倉街道を進み、扇ヶ谷踏切を渡ると、和菓子屋と長寿寺の間の小径を入る。
 辺りはうっそうとした木々に覆われ、急坂が続く古道となる。
 亀ヶ谷切り通しという、以前は鎌倉の町の防御施設の一つで、路上はあちらこちらに岩が転がり、、(おもむき)があったのだが、今はすっかり整備されてしまっている。
 何人もの観光客とすれ違い、美羽はやがて切り通しを過ぎると、線路に沿った住宅街に出た。
 鎌倉幕府初代将軍の源頼朝(みなもとのよりとも)の長女、大姫(おおひめ)葬送の地で、六角形の円堂である岩船地蔵堂の前までくると、美羽は外人のアベックに声をかけられた。
 アベックは古都の観光で来日しているのか、Tシャツに短パンというラフな服装で、
「ハイ、タートルスロープ、どこですか?」
 タートルスロープとは、美羽が今し方通ってきた亀ヶ谷切り通しのことであろう。
 美羽は道なりに進めば、目的の古道を目にできることを、単語を並べただけのつたない英会話で伝えたが、アベックは真剣に耳を傾け、
「イエス、ライツ、サンキュー」
 丁重に言い、
「グッバイ、クイーン・ミワ」
 去っていった。どうやらアベックは最初から美羽が『黄金の女王』だと知っていたようだった。
 美羽は苦笑して手を振った。


 鎌倉駅から鶴岡八幡宮まで伸びる小町通りは活気があふれ、とてもまっ直ぐに歩けない。
 長身で黄金の翼を背に折りたたんだ美羽は、右に左にと人をよけながら進んだが、明らかに雑踏から邪魔にされている。
 やがて、通りにまで芳香が漂い、薫物を扱った店舗に着くと、美羽は扉を開けた。
 純和風の高級な店構えの薫物店があることは以前から知っていたが、訪ねたのは今日が初めてだった。
 羽田空港で会った筧美雪(かけいみゆき)の制服にしみ込んだ伽羅(きゃら)の香りが売り場に満ちている。
「いらっしゃいませ、何をお探しでしょう?」
 中年の女性が、美羽に尋ねた。
「あの、伽羅は……」
 すっかり香料に精通しているような顔して美羽が尋ねると、女店員はショーケースの中から箱売りしている伽羅と名づけられたの線香を取り出し、
「こちらですが、香料を人工的に調香して、伽羅の匂いに近づけたお線香になります。本物のジンチョウゲ科の常緑高木から採取して、天然香料でつくったものは、あまりに高価でお勧めいたしておりません」
 美羽に匂いを嗅がせた。次いで線香数本が二万円に近い品を出したが、美羽は商品を損ねてはと考え、慌てて手を左右に振った。
 美雪がまとっていたのは、正に箱売りしている伽羅の芳香であった。
 美羽が値段を確かめると、それでも三千円で、高校生には高嶺の花だった。
「あの、伽羅の香りに近いお線香は……」
白檀(びゃくだん)になりますね」
 女店員が白檀の箱売りの匂いを美羽に嗅がせていった。
 やはり、美雪から香った品がほしく、美羽は伽羅の箱売りを求めた。
 美羽は薫物店を出ると、身に過ぎた買い物をしてしまった自分を(わら)ったが、伽羅と同時に買った白い折り鶴の形をした線香立てから美雪を思い浮かべ、再会が待ち遠しかった。
 しかし、それは自分がウイングボールを始めることを意味している。入部するか否か、醍醐にも恵礼那、遙流香姉妹にも返事を保留にしている。
 わたしは一体、何を考えているのか――
 まるで背反(あいはん)することを同時に望んでいる自分に、美羽はこれから会う人のアドバイスが待たれた。


 鎌倉駅から伸びる市役所通りに面した鎌倉清風ホームは、広々とした敷地の中に、まるで低層棟マンションが建ち並ぶような児童福祉施設だった。
 半月ぶりに施設に訪れた美羽は、妙に懐かしさが感じられた。敷地に入るなり、幼い女の子の声で、
「あー、美羽ちゃんだ!」
 声をかけられた。
 美羽が振り返ると、ホームで生活をしていたとき、特に自分を慕ってくれていた鳥人の仙道(せんどう)千唯(ちい)が駆け寄ってきていた。
 千唯の背には申し訳程度の翼しかないことから、美羽は憧れであった。
 美羽は千唯と視線をそろえるためにしゃがみ込むと、
「ただいま、千唯ちゃん」
「美羽ちゃん、今日はどうしたの? 東京の学校は楽しい? いじめられてない?」
 両親の虐待から入所した千唯らしく美羽に尋ねた。
 美羽は、心を見透かされたような思いを感じながら、
「うん、大丈夫だよ」
 言葉を濁すと、千唯は、
「ねえ、また、あれやって」
 言うなり、美羽にしがみついた。
 美羽は千唯を抱き上げると、黄金の翼を広げ、ふわりと数メートル上昇し、ゆっくりと着地した。千唯は幸せそうに笑った。
 低層棟マンションよろしく建てられた八つのホームから子供たちが飛び出してきて、
「ずるいぞ、仙道ばっかり。美羽、俺も、俺も!」
「あー、勇太(ゆうた)、美羽ちゃんに抱きついた!」
 からかう女の子の声が上がったが、勇太は美羽に抱えられ、数メートル上昇し、ゆっくりと着地した。 勇太と呼ばれた人間の男の子は、千唯よりも幼い。母が亡くなり、父が育児放棄したことから入所しているおり、心の奥底で母の愛情に飢えている。
「おう、穂積、お前、大活躍じゃないか。TVでやってたぜ」
 ニキビ面の高校二年生で、人間の男子生徒が声をかけてきた。
「でも、美羽ちゃん、何だか元気がない」
 中学一年生の人間の女子生徒が言うと、美羽は、
「えっと……ごめんね、皆。わたし、神野先生とお話があるんだ。また、後でね」
 どう、強く振る舞っていても幼い子には見抜かれてしまう。
 美羽は逃げ出す思いで、施設長室へ足を向けた。

 美羽が施設長室の扉をノックすると、かすかな声で、どうぞと入室を促す声が聞こえた。
 施設長室へ入ると、どうにも飾り気がなければ、両袖の事務机に向かい、日曜日にまで仕事をしている温厚そうで、きちんと白髪を調髪した、小柄な男の姿があった。
 鎌倉清風ホームの施設長を務める神野(じんの)(あまね)だった。
 神野は、児童教育に関連した広報誌のゲラに、赤と呼ばれる校正をしていた手を止め、
「やあ、お帰り。穂積君」
 笑顔で美羽を迎え、事務机の前にあるソファを勧めた。
 美羽が何から話したものかと考えていると、神野は、
「東和麗華に入学するなり、大活躍だね。醍醐さんには特によろしく、と言って送り出したわたしも安心しているよ。『黄金の女王』という称号までもらって」
「その、『黄金の女王』って、何ですか? 以前に何かのスポーツで活躍した選手がいたんですか?」
 そもそもの疑問を尋ねた。神野は、
「ああ、君にはその称号からして疑問だったんだね。
 アンデス文明の昔話ですよ。
 アンデス文明とは、一五三二年のスペイン人によるインカ帝国征服以前に、現在の南米大陸を中心に太平洋岸とペルーからポリビアへ繋がるアンデス高地に存在した文明です。
 こうしたアンデス文明地域は、海岸、山間、盆地、高原と多種多様でした。大河や湖もあることでしょう。
 こうしたことから多くの文化をもつ少数民族がいたとされています。
 その根拠の一つに、アンデス文明は文字をもっていない、その代わりに縄の結び目によって情報を記録していたのです。
 共通の言語をもつことは、不可能だったのでしょう。
 同時に多種多様な文化をもつ少数民族同士が話し合い、決まり事をつくっていくには、代表者を選出しなければならない。
 こうした課題に、ある部族は年に一度の代表者選出の方法に、十五歳から三十歳の鳥人の女性ばかりを集め、峻険な山谷、暴風が吹き荒れる沿岸、樹木に覆われ視界もきかない森などをコースに定め、飛行技術を競い、一位になった者を一年間だけ、代表者として送り出していたらしいのです。
 十五歳から三十歳とは、ずいぶんと若い年代、と思うかもしれませんが、当時は短命で、結婚も早かったから、この年代設定が適切だったようです。
 コース設定もずいぶんと過酷ですが、南北に長く、高地を文明地域としていた条件を巧みに利用していたのでしょう」
 神野は美羽が退屈になってきたことから話の本題に入った。
「ある時代、『翼競争』を行っていた少数民族の中に、貧困家庭で育ってきた十五歳の少女がこの過酷なレースに参加しました。
 レースの参加は、病弱な姉の遺言だったそうですが、その少女は村一番の『翼自慢』で、黄金に輝く翼は両翼で身長の六倍はあったそうです」
 美羽は目を見開いた。
 自分と同じ容姿の者が、五百年も昔に南米にいたことになる。神野は話を続けた。
「その少女は強豪がひしめく『翼競争』に挑み、何度かのピンチを乗り越え、文句なしの一位を獲得したそうです。それを十五年間、維持し続け、いつしか『黄金の女王』と称えられたそうです。
 女の子は早くに亡くなった姉の死を見つめ、そこから過酷な自然の中に生きる少数民族が、互助し、協調し合う福祉政策を訴え続けたそうです。
 日本も地震や台風に繰り返し見舞われ、そのたびに自衛隊が派遣され、ボランティアも後に続く。
 決して解らない話ではない、と思います」
 美羽はため息をつき、
「すごいんですね、『黄金の女王』って。わたしにそんな二つ名をつけられても重荷なだけです」
「しかし、この昔話はすべて創作で、ペルー発祥の球技と言われるウイングボールの宣伝活動、とする説もあります」
 神野は美羽ががっかりするかと思ったが、
「そのウイングボールなんですけれど」
 美羽が話の本題に入った。
「わたしは自分がちょっと目立つ鳥人だからといって、スーパーヒロインを気取るつもりなんて全然ないんです。
 六本木の事故で、初等部の生徒を助けたのだって、目の前で人が死ぬ光景なんて見たくなかったからです。
 北アルプスや湘南を飛び回っていたのは、ほんの趣味みたいなものだし。
 それをまさか、ウイングボール部の強化選手になることが当然のように皆とらえている」
 美羽は言葉を探すように、目をあちらこちらに向け、語り続けた。
「神野先生だってご存じでしょう。わたしの祖父は、幼いときに鳥人に弟を殺されて以来、ずっと鳥人を憎み続けています。
 それにも関わらず、人間の父は鳥人の母と結婚し、わたしが生まれました。
 このことによって祖父は、父を母を孫を憎み、家族はめっちゃくちゃでした。
 わたしが九歳のとき、両親は交通事故で亡くなり、祖父はわたしを扶養することなくこのホームに預け、一度も会いにきてはくれません。
 わたしが鳥人であることは仕方ないにしても、ウイングボールをやるなんて、つらい生い立ちを首を押さえつけて見つめ続けろ、といっているようなものです」
 美羽の言葉一つ一つに、神野はうなずき、耳を傾け続けた。
 美羽の言葉が途切れると、神野は慈愛に満ちた瞳で美羽をひたと見ると、
「それでは、これから穂積さんはどうしたいのですか?」
「東和麗華学園においてくれないのなら、このホームにもどって、あと三年で卒業した後は、アルバイトでもしながら生活していきます。ただ、目立たない石ころか空気のように生活したいだけなんです」
 美羽がいいきると、神野は首を左右に振り、
「それはできません。周囲がそれを許さないのです。
 穂積君は、というよりも人間も鳥人も、自分が思っている以上に周囲に存在しているだけで、影響を与えていますし、自分も影響を受けて、人生が成り立っています。
 先ほど、ホームの子供たちが、穂積君が帰ってきただけで大変に喜んでいたでしょう?
 あの子たちは、このホームから『黄金の女王』が出たこと、ともに育ったことに誇りを感じています」
 神野の言葉に、美羽ははっとした。
 美羽が亀が谷切り通しを扇ヶ谷から山ノ内へ抜けたとき、外人のアベックが亀が谷切り通しへの道を尋ねた。
 あのアベックにも美羽はそこにいただけで好感をもたれ、知っているはずの道を確かめたのかもしれない。
 神野は言葉を継いだ。
「穂積君はご家族とは縁の薄い生い立ちだったのかもしれませんが、ご両親が与えてくれた黄金の翼を活かすことによって、無限の可能性をもった人生をゆくことができる。
 一回限りの人生を、光に満ちた道を歩むか、ドブに投げ込んでしまうのか、今、その岐路に立っているのです。
 勇気を出して、ほんの一歩を歩み出してみませんか?」
 美羽は、神野が言葉巧みに醍醐と口裏を合わせているように感じ、黙り込んだ。神野は、
「穂積君は、松本から鎌倉へくるようになったとき、自分でこのホームを指定しましたか?
 穂積君は、東和麗華学園に進学したいと願書を出しましたか?
 ウイングボール部へ入部届も出していないのに、周囲はもう穂積君が入部しているように理解しているでしょう?
 自分の手を一つとして煩わせることなく、これほど状況、環境が整っていることは、人生にまずあり得ません。
 不幸な生い立ちがあったからこそ、と心を切り替えなければなりません」
 美羽の義務を説いた。
 神野の(いさ)めは、美羽にとっては想像すらできなかったものだった。
「神野先生のご期待に応えられるかは解りませんが……」
 美羽はようやく笑顔になって、神野にこたえた。


 美羽は子供たちと神野に見送られ、鎌倉清風ホームを辞すと、人出が激しい鎌倉駅西口から地下道をとおり、東口へ出た。
 駅前のバスロータリーを抜け、鶴岡八幡宮から一直線に相模湾へ伸びる若宮大路へ抜ける。
 美羽は若宮大路の歩道で肩にかけていた大判のショールを手にもつと、黄金の翼を大きく打ち上げ、打ち下ろした。
 たちまちに美羽は澄んだ春の青空へ舞い上がった。
 内翼に上昇気流を感じ取ると、バサリと羽音を上げ、高度を増した。
 すぐに鎌倉市街と弓のような美しい弧を描いて伸びる由比ヶ浜、稲村ヶ崎、七里ヶ浜が見えた。
 観光客の食べ物を狙うトンビの群れも、申し合わせたように美羽に進路を開けている。
 美羽は、高度を低く取ると、長い初列風切をたたみ、翼全体を高速ジェット機のように後退翼とした。
 羽ばたきも減らし、滑翔状態で弓から放たれた矢のごとく、飛行を続ける美羽は、相模湾のサーファーからも浜辺で憩う行楽客からも視線を集めたが、
「皆、何を見ているんだろう? 何かのイベントでも催されているのかな?」
 他人事のように思った。
 美羽は体軸と呼ばれる頭頂部から(かかと)までのラインを中心に体を二度、三度と回転させた。
 フィギュアスケートでいうひねりに相当する動きだが、美羽には造作もない。
 たちまち、こんもりと樹木が茂り、灯台が建つ江の島が眼前に迫った。
 江の島大橋が架かり、バス停や旅館、売店、温泉、磯料理店が軒を並べる繁華な一角に美羽は降り立った。
 美羽が降り立つなり、
「あら、この子!」
 婦人の声が上がった。
 美羽は家族連れの子供が、何かいたずらでもして叱られているのだろう、と思い、声をの方を振り返ると、六十前後の婦人の一団が美羽を注目している。
 美羽は自分の後方に何事か起きているのかと、今度は背後を見た。
 しかし、変わったものは何もない。
 強いていえば、外人の小学生の一団が社会見学で江の島を訪れているらしく、
「ワォ!」
「クイーン・ミワ!」
 口々に歓声を上げ、スマホのカメラ機能を使って、美羽の写真を撮り始めた。
「おう、『黄金の女王』だ」
「バカ言え、ここは藤沢だぜ」
「間違いないって」
 日本人の若者たちも美羽を遠巻きにして目を輝かせている。
 まさか、わたしが騒ぎの中心?――
 ようやく美羽は気づくと、かあっと羞恥心がこみ上げ、逃げだそうとしたとき、婦人の一団が、
「ほら、奥さん、撮って、撮って!」
「ちょっと、わたしの娘に気安く触らないでちょうだい、びっくりしてるじゃないさ!」
「何が娘よ、図々し人ね。孫でしょ」
 美羽を取り囲み、スマホやデジカメをハンドバックから取り出し、シャッターを切り始めている。
 観光地ということもあって、誰もが気持ちが浮き立っているのだろうが、美羽にとっては思いもかけない出来事だった。
 ふと、神野が自分を諫めた、生きている以上、自分は他者に大きな影響を与え、また与えられて人生がある、という言葉が胸に迫った。
 ――生い立ちへのこだわりは消えなかったが、まずは東和麗華学園高等部の生徒として、自分ができることをなそう――
 美羽は心に思い定めた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み