外伝・恵礼那の一番長い日
文字数 7,422文字
不意に、大堂 恵礼那 のプリーツスカートのポケットの中で、スマホが振動した。
SMSでお気に入りに登録してあるセクシーランジェリー通販の公式サイトが最新情報をUPしたのか、妹の遙流香 が下らないメールを送ってきたのであろう、と思い、数学の授業中であったから、教師に気づかれぬように何気なくスマホを取り出し、ディスプレイに目をやると、恵礼那は目を見張った。見慣れぬ差出人からのメールが着信されたのだった。
メールの差出人は『white beauty』という者で、直感的に就学園のウイングボール部でキャプテンを務め、『白銀の姫君』の二つ名で知られる筧 美雪 であることは察しがついた。
タイトルは、
あんたさぁ
という斜に構えたもので、本文は、
女の子と婚約したんだって?
高校生のくせに
と、恵礼那のプライベートを確かめる内容だった。
先週のゴールデンウィーク中の日曜日に、みなとみらいにあるウイングボール競技場で、恵礼那がキャプテンを務める東和麗華学園と横浜の山手誠栄女学院が練習試合をした。
このとき、恵礼那が放ったシュートが山手誠栄女学院のキャプテンである鈴井 雛子 の腹に直撃し、雛子はバックボードとリングに叩きつけられ、コートに墜落すると、CPAと呼ばれている心肺停止となったのだった。
チームメイトの協力を得て、恵礼那はAEDという医療機器で雛子を蘇生させることに成功し、救急隊に引き継いだ。
恵礼那は近隣の横浜港に面し、救急センターを備えた総合病院へ救急車に同乗し、雛子に付き添ったのだが、雛子の脳はCTとMRI撮影をされ、異常なしと専門医から診断を受けたものの、頭と胸と腹に包帯を巻かれ、腕には点滴を受け、痛々しい姿となって、ICU病棟に入院となった。
いつしか雛子の母である叡子 が、パート先から病院に到着し、医師からのムンテラで、雛子は翌日には小児科病棟に移され、胸部と腹部の検査、と説明された。
そもそも、鳥人は同じ環境の人間と比べて三割から五割は丈夫、という研究もあり、雛子が小難で済んだのはこうした理由の他に、スポーツで体を鍛えていたからなのだろう。
ICU病棟で目が覚めた雛子は、競技場から付き添ってきた恵礼那が枕元にいたことから、叡子に将来、かねてから考えていた通り恵礼那と結婚する、と言い出し、恵礼那もそのプロポーズを受けたのだったが、恵礼那は雛子と婚約をしたことを両親に言い出せずにいた。
新宿にある就学園の生徒である美雪に、プライバシーに踏み込んだメールを送られると、恵礼那は勘に障りながらも、雛子とのことを早く両親に伝えなければならない、と感じた。
三時間目の古典の授業が終わると、『黄金の女王』の二つ名をつけられた高等部一年C組の穂積 美羽 は、同じクラスの園田 真希 が中等部で同じクラスになったことがある高等部一年A組の大堂遙流香と廊下で談笑している姿を目にすると、
「遙流香さん。恵礼那さんはピーちゃんと婚約したことをご両親には話したんですか?」
遙流香に訪ねた。
恵礼那が押し黙っている婚約のことなど、妹はおろかウイングボール部の部員たちにも筒抜けで、問題となるのは、長女が同性婚を考えていることを両親がどう受け止めるかだった。
「それがさー、恵礼那の奴、お父さんにもお母さんにも言わないんだよな。まさか、恵礼那も『気が付いたら、自分は同性愛者でした』なんて両親に話したら、どうなるかぐらい想像はできるだろうからな」
真希は、遙流香の言葉を聞き、
「でも、女の子の五人に一人は同性愛者だって聞いたことあるけどな。この学校に二千人の女の子がいるとして、四百人は女の子が好きな計算になるよね。美羽も筧先輩と結婚するんでしょ?」
山手誠栄女学院との練習試合がドローとなった後、美羽と遙流香と真希は中華街へ繰り出し、中華街の中にある史跡巡りをしたときの会話を思い出して言った。美羽は、
「美雪さん、しっかり者だから、わたしじゃお相手は務まらないよ」
頬に手を当て、赤くなってこたえると、
「何だ、天然なの自分で解ってんじゃん」
真希がぼそりというと、美羽は黄金の翼で真希を突き飛ばした。真希は思わずよろけた。
遙流香はしばし沈思すると、
「しかし、このままじゃ面白くないよな。妹として一肌脱ぐか」
何か行動を起こすことを考えた。
余計に話がこじれるんじゃ……美羽と真希は顔を見合わせた。
雛子と恵礼那は横浜の山手にある横浜市イギリス館の内部を見学していた。
横浜市イギリス館は一九三八年に上海の大英工部総署の設計により、横浜英国総領事公邸として建てられたコロニアルスタイルの西洋建築で、横浜市が取得した後、平成の半ばから一般公開されている。
公邸だけあって、二階の寝室、浴室、執務室や一階のダイニングなど、内部は華美で、あちらこちらに隣接するローズガーデンから刈ってきたバラが上品に生けられている。
「すごいですね、こんなところに住んだら、目配りが大変そう」
勿論、使用人が管理を行っていたであろうが、それをまとめる夫人の責任も重大で、雛子が目を輝かせて言った。雛子は、三日ほどの入院で住み、既に退院して、以前通りに通学している。
家族と担任は勿論、友人たちも鳥人の体が丈夫にできていることに驚いていた。恵礼那はうなずき、
「わたし、大学は家政科に行って、家のことはちゃんと出来るようになりたいな。家じゃ、お母さんと妹に全部やってもらっているから」
母に似て、妹の遙流香の方が、家事には積極的で、掃除、洗濯はもとより、食事をつくることもある。雛子は、
「はい、お姉さま、二人でお花を買いに行って、きれいに生けましょうね」
二人で暮らすようになった将来に思いを馳せた。
「ねえ、ピーちゃん。わたしなんかでいいの? もっと素敵な人が現れたら――」
同性愛の女性が一番恐れていることは、やっと見つけた相手が、男性に奪われてしまうことだった。雛子は、
「担当医が言ってましたよ。お姉さまは的を得た救急救命活動を果たして、救急隊員が驚いていたって。社会人でもなかなかできることじゃないって」
嬉しそうに言った。
この子にとって、わたしは単なる憧れだけじゃなくて、スーパーヒロインなんだ……
恵礼那は、まっすぐに自分を見つめる雛子の瞳にこたえなければならない、と思った。
恵礼那は昼休みになると、鳥居坂に面した東和麗華学園法人事務局が入る本部棟に足を向けた。理事を務める父を訪ね、雛子と婚約したことを伝えようとしたのだった。
中高等部が入った校舎を出ると、ふと、西洋建築である本部棟の方から歩いてくる遙流香の姿が見えた。恵礼那は、
「遙流香」
妹を呼び止めると、
「お父さんに何か用があったの?」
「うん、ちょっとね」
遙流香は言葉を濁し、
「お父さん、昼食も食べ終わって、のんびりテレビを見ているから、何か話すのならチャンスだよ」
姉に好機であることを伝え、ふわりと飛び去って行った。
学校では公私の別はつけなくてはならないが、雛子との婚約となれば、そうも言っていられない。恵礼那は理事会が入った部屋の扉をノックしようとしたそのとき、同性同士の婚約云々と、長女が言い出した日には、父の逆鱗に触れ、姓を取り上げられ、問答無用に家をたたき出される自分の末路が脳裏をかすめた。
そんなことになれば、大学進学など夢物語で、ましてや雛子との将来などあり得ようはずもない。未成年の娘にとって、父親の後ろ盾を失うことは、あまりに大きいことが実感できた。
――怖い――
恵礼那はがくりと廊下に膝をつき、瞳に涙をにじませると、唇をかみしめた。
夜になると、父はリビングで母に酌をさせながら、不意にテレビの音量をミュートにすると、
「おい、恵礼那。ちょっと話があるんだ」
家族で見るともなく見ていたバラエティー番組から目を離すと、恵礼那は父を見た。もしや、雛子との婚約がとっくに両親に伝わっているのではと身構えたが、父は上機嫌で見合い写真を差し出し、
「どうだ、旭峰大学の文学部に通っている。鎌倉時代の仏像に興味があって、京都や奈良には長期の休みのたびに出かけているそうだ。それでいて、あ……なんていうだ、細い自転車でスピードの出る……」
「ロードバイク」
遙流香が言うと、父はうなずき、
「そう、それだ。大学の仲間と頻繁にロードバイクを乗り回して、荒川や多摩川のサイクリングロードを走り回っているそうだ。文武両道って奴だな。年はお前より三つ年上だ。どうだ、会ってみるだけでも」
縁談を持ちかけたのだった。恵礼那はあきれ、
「お父さん、高校生に何を言っているの?」
母まで身を乗り出し、
「うちは女の子二人でしょう? お父さんが、恵礼那か遙流香のどちらかに男の子が生まれたら、養子にして跡目を取らせるって……」
「スポーツマンってところで話が合いそうだな、おまけに歴史マニアとくれば、色んなところに連れて行ってもらえるぞ。いい縁談 じゃないか、恵礼那」
遙流香まで見合い写真をのぞき込み、粉をかけ始めた。父は、遙流香の言葉に気をよくし、
「こいつは三男坊でな、長男は法務省、次男は銀行員をやっている。親父は俺の幼馴染みなんだ。とりあえず、会ってみないか、なぁ、俺の顔を立てると思って」
雛子と先行き不透明な同性婚をするよりもはるかに確実な未来が約束されることになる。恵礼那の心は大きく揺れた。恵礼那はうつむくと、
「ちょっと考えさせて」
ぽつりと答えたが、父は手応えを感じたのか、
「おう、いい返事を聞かせてくれよ、次は遙流香だな、あーっはっはっは!」
上機嫌に笑った。遙流香は頬を赤くしながら、
「高校生に何、言ってんだ?」
「早すぎるってのか? 平安時代は十三、十四歳が適齢期だったんだぞ」
遙流香は父に酌をしながら、
「今は令和だ」
父と一緒に大笑いをした。
恵礼那は夢を見ていた。
雛子も恵礼那もそれぞれの両親の反対を押し切り、大学在学中に渋谷区の安アパートで暮らし始めたものの、学生同士の同性婚ではろくな仕事に恵まれないどころか、近所からは白い目を向けられている。
勿論、双方の実家から何の援助も受けられない。
その日暮らしを続け、一年もたたないうちに雛子が白血病に冒されていたことが解った。いかに鳥人が通常の人間よりは健康、と言われていても、それは外傷についてだけで、血液のがんではどうしようもなかった。
医療費も高額となり、たちまち生活に行き詰まった。
恵礼那も雛子も大学を中退したことにより、世間知らずが仇 となって、公的制度の活かし方も解らず、ソーシャルワーカーの説明もろくに理解できなかった。
雛子は抗がん剤や放射線治療の副作用により脱毛に襲われ、正に尾羽打ち枯らした姿となり、ウイングボールで活躍していたときの面影はまるでなくなった。
恵礼那はある日の深夜、雛子が入院していた病院から呼び出され、駆けつけてみると、雛子は既に亡くなっていた。
病院の地下から追い出されるように遺体は運び出され、公営墓地付属の火葬場で焼かれると、遺骨は白い骨壺に恵礼那一人によって納められた。
変わり果てた雛子を降りしきる氷雨の中を安アパートに連れて帰ると、恵礼那は色あせた畳に座り込み、
――どうして、こんなことになってしまったのだろう――
大堂家からも、鈴井家からも、学友の一人からもただの一言も声をかけられず、これではうち捨てられたも同然ではないか……父から洋々たる未来を与えられながらも背を向けた報いなのだろうか――
ふと、粗末な台所に、さびかけたケーキナイフが目についた。恵礼那がロールケーキを切るために買ったケーキナイフだったが、実際には殆ど使うことはなかった。
恵礼那は異様に座った目でケーキナイフの刃を首に押し当てると、力任せに引いた。
「きゃあああああっ!」
恵礼那は悲鳴を上げてベットから飛び起きると、息を荒くして周囲を見渡した。
雛子と同性婚を強行したものの、雛子は白血病にかかり、早世してしまう。極貧生活を続ける部屋で自らも命を絶ってしまう夢を見ていたのだった。
すぐに父母と妹が部屋のドアを押し破るように入ってくると、
「どうしたの!」
「何だよ、恵礼那?」
母と妹が口々に言った。恵礼那は、
「……何でもない、何でもないの……」
見開いた瞳から頬へ涙が伝わったが、恵礼那は呟き続けた。
銀座四丁目の交差点に面した華麗なビルに入った音響機器のショールームで、個人宅には贅沢な4K液晶テレビをぽんっと求めた両親の買い物に付き合わされると、恵礼那と遙流香は、次はなじみの寿司屋に連れて行かれた。
畳が縦にずらりと並べられた座敷に、四人分の席をつくらせると、父は母と娘二人に、
「何を注文してもいいぞ」
気前よく言った。座敷は掘りごたつになっていて、テーブルで育った恵礼那と遙流香には使い勝手がいい。
恵礼那は母と並んで座り、父と遙流香に向き合った。
恵礼那は、腰ほどの高さの衝立 を家族の方に引き、隣接した卓の客の目を避けると、
「お寿司のネタの名前、あまり詳しくなくて……」
父に言うと、父は注文を受けにきた若い板前に、
「そうだな、それじゃ、特上を四人前。一つの寿司桶じゃなくて、盛り台で持ってきてくれ」
若い板前が去っていくと、遙流香はちっと舌打ちをした。寿司桶ならば、自分が好きなイクラや数の子が家族の分も食ってしまえるが、盛り台で出されると、そうもいかなくなる。
おしぼりと茶が出されると、
「で、俺たちに言いたいことがあるんだろう、恵礼那?」
恵礼那はごくりとつばを飲み込むと、
「……わたし……婚約したの……」
意を決して言った。当然、相手のことを詳しく聞かれるだろうと思っていると、両親も妹も何も尋ねない。怪訝に思いながら、
「相手は、山手誠栄女学院のウイングボール部のキャプテンをしている子。女の子なの」
昨夜見た恐ろしい夢を思い返して言ったが、なおも家族は何も言わない。恵礼那は家族をなくした思いで、
「勘当? もう、敷居をまたがせない?
だって、ピーちゃんはわたしが殺しかけたんだよ。でも、あの子、わたしのこと、尊敬してくれて、まっすぐにわたしのことを見て、すごく大切に思ってくれているの。
これから先、こんなにわたしを大事にしてくれる相手にもう会えないよ、ピーちゃんを裏切ったら、わたし、畜生以下になっちゃう。お父さんもお母さんもわたしを恩知らずにしたいの? 犬にも劣らなきゃ駄目なの?
わたし、そんな家に育っていたの? わたし、おかしなこと言っている? お父さんがもってきてくれたお見合いもわたしにはもったいない話だけど、でも……」
どうせたたき出されるのなら、父母への恩愛を表してからと思い、ため込んできた感情をぶちまけると、父は、
「お前は相手を殺しかけた贖罪 から結婚するのか?」
「違うよ! わたしもピーちゃんと結婚したいの!」
恵礼那が言い切ると、遙流香は肘で父を小突いた。恵礼那は妹が助け船を出してくれたのかと瞬時、思ったが、父は渋々と五千円札を遙流香に渡した。恵礼那が父と妹のやり取りを怪訝に思っていると、母は、
「こんなに思い詰めて……かわいそうに。もうやめなさい、あなたたち」
父と妹に眉をしかめた。遙流香が父から受け取った五千円札を財布にしまうと、
「遙流香、それ、何?」
「五千円札」
「それ、何!」
恵礼那はまさか、と思い、妹を更に問い詰めると、
「賭けしろ」
ようやくに遙流香が応えると、
「だから、俺と遙流香で賭けをしたんだ。恵礼那が、その、鈴井って子と婚約をした日から七日以内に家族に言えたら遙流香の勝ち、八日以上、言えなかったら俺の勝ち。
遙流香が勝ったら、俺は五千円の支払い。俺が勝ったら、遙流香は三日以上、酌をすること」
父も笑いながら応えた。
「それじゃ、山手誠栄女学院と練習試合をした日、ピーちゃんとわたしが婚約したことをあんた、知っていたの? あんたが東和麗華学園の本部棟から出てきたのは……」
恵礼那が遙流香につかみかからんばかりに言うと、
「いや、誰だって解るだろう。第一、わたしはお父さんと姉を謀 ったわけじゃない、恵礼那が家族を頼らないで、一人で悩んでいただけだ」
遙流香は姉の思い込みを説いたとき、盛り台に盛られた特上寿司が運ばれてきた。恵礼那は茫然として両親を交互に見ると、
「勘当は?」
一番気がかりだったことを尋ねると、
「誰がそんなこと言った? 娘が幸せになることが、二親の一番の誉れだ。今日買ったテレビは嫁入り道具にもたせてやる」
父が早速に甘エビを醤油に浸して口に放り込むと、母も、
「そうよ、恵礼那。今度、その、雛子さんに会わせてね」
恵礼那の頭をさすって言った。恵礼那は、
「ピーちゃんの両親が婚約を白紙にしようとしたら、ピーちゃんは大堂家の養女にしてほしいんだって。結婚するときに籍を抜くって。いいよね?」
父に迫るように言うと、父は、
「俺も娘三人の父親か。今更、どうってことはないだろう」
こだわりなく請け合うと、母もうなずいた。恵礼那は遙流香に、
「あんたがお見合いしてきな、スポーツマン同士話が合うでしょう、歴史マニアと夫婦になれば色んなところ行けるよ。それと、これからはわたしのこと恵礼那お姉ちゃんと呼びな。ピーちゃんは雛子お姉ちゃん」
「い……嫌だよ、今まで通り、恵礼那、ピーちゃん、でいいだろう?」
遙流香は照れると、恵礼那は、
「中トロ、サーモン、あわび、追加!」
寿司ネタは明るくない、と言っていながら、今日はとことん父に金を遣わせてやると考え、すっかり思い詰めた表情から、普段通りの険のある顔へと戻り、若い板前を呼びつけた。
SMSでお気に入りに登録してあるセクシーランジェリー通販の公式サイトが最新情報をUPしたのか、妹の
メールの差出人は『white beauty』という者で、直感的に就学園のウイングボール部でキャプテンを務め、『白銀の姫君』の二つ名で知られる
タイトルは、
あんたさぁ
という斜に構えたもので、本文は、
女の子と婚約したんだって?
高校生のくせに
と、恵礼那のプライベートを確かめる内容だった。
先週のゴールデンウィーク中の日曜日に、みなとみらいにあるウイングボール競技場で、恵礼那がキャプテンを務める東和麗華学園と横浜の山手誠栄女学院が練習試合をした。
このとき、恵礼那が放ったシュートが山手誠栄女学院のキャプテンである
チームメイトの協力を得て、恵礼那はAEDという医療機器で雛子を蘇生させることに成功し、救急隊に引き継いだ。
恵礼那は近隣の横浜港に面し、救急センターを備えた総合病院へ救急車に同乗し、雛子に付き添ったのだが、雛子の脳はCTとMRI撮影をされ、異常なしと専門医から診断を受けたものの、頭と胸と腹に包帯を巻かれ、腕には点滴を受け、痛々しい姿となって、ICU病棟に入院となった。
いつしか雛子の母である
そもそも、鳥人は同じ環境の人間と比べて三割から五割は丈夫、という研究もあり、雛子が小難で済んだのはこうした理由の他に、スポーツで体を鍛えていたからなのだろう。
ICU病棟で目が覚めた雛子は、競技場から付き添ってきた恵礼那が枕元にいたことから、叡子に将来、かねてから考えていた通り恵礼那と結婚する、と言い出し、恵礼那もそのプロポーズを受けたのだったが、恵礼那は雛子と婚約をしたことを両親に言い出せずにいた。
新宿にある就学園の生徒である美雪に、プライバシーに踏み込んだメールを送られると、恵礼那は勘に障りながらも、雛子とのことを早く両親に伝えなければならない、と感じた。
三時間目の古典の授業が終わると、『黄金の女王』の二つ名をつけられた高等部一年C組の
「遙流香さん。恵礼那さんはピーちゃんと婚約したことをご両親には話したんですか?」
遙流香に訪ねた。
恵礼那が押し黙っている婚約のことなど、妹はおろかウイングボール部の部員たちにも筒抜けで、問題となるのは、長女が同性婚を考えていることを両親がどう受け止めるかだった。
「それがさー、恵礼那の奴、お父さんにもお母さんにも言わないんだよな。まさか、恵礼那も『気が付いたら、自分は同性愛者でした』なんて両親に話したら、どうなるかぐらい想像はできるだろうからな」
真希は、遙流香の言葉を聞き、
「でも、女の子の五人に一人は同性愛者だって聞いたことあるけどな。この学校に二千人の女の子がいるとして、四百人は女の子が好きな計算になるよね。美羽も筧先輩と結婚するんでしょ?」
山手誠栄女学院との練習試合がドローとなった後、美羽と遙流香と真希は中華街へ繰り出し、中華街の中にある史跡巡りをしたときの会話を思い出して言った。美羽は、
「美雪さん、しっかり者だから、わたしじゃお相手は務まらないよ」
頬に手を当て、赤くなってこたえると、
「何だ、天然なの自分で解ってんじゃん」
真希がぼそりというと、美羽は黄金の翼で真希を突き飛ばした。真希は思わずよろけた。
遙流香はしばし沈思すると、
「しかし、このままじゃ面白くないよな。妹として一肌脱ぐか」
何か行動を起こすことを考えた。
余計に話がこじれるんじゃ……美羽と真希は顔を見合わせた。
雛子と恵礼那は横浜の山手にある横浜市イギリス館の内部を見学していた。
横浜市イギリス館は一九三八年に上海の大英工部総署の設計により、横浜英国総領事公邸として建てられたコロニアルスタイルの西洋建築で、横浜市が取得した後、平成の半ばから一般公開されている。
公邸だけあって、二階の寝室、浴室、執務室や一階のダイニングなど、内部は華美で、あちらこちらに隣接するローズガーデンから刈ってきたバラが上品に生けられている。
「すごいですね、こんなところに住んだら、目配りが大変そう」
勿論、使用人が管理を行っていたであろうが、それをまとめる夫人の責任も重大で、雛子が目を輝かせて言った。雛子は、三日ほどの入院で住み、既に退院して、以前通りに通学している。
家族と担任は勿論、友人たちも鳥人の体が丈夫にできていることに驚いていた。恵礼那はうなずき、
「わたし、大学は家政科に行って、家のことはちゃんと出来るようになりたいな。家じゃ、お母さんと妹に全部やってもらっているから」
母に似て、妹の遙流香の方が、家事には積極的で、掃除、洗濯はもとより、食事をつくることもある。雛子は、
「はい、お姉さま、二人でお花を買いに行って、きれいに生けましょうね」
二人で暮らすようになった将来に思いを馳せた。
「ねえ、ピーちゃん。わたしなんかでいいの? もっと素敵な人が現れたら――」
同性愛の女性が一番恐れていることは、やっと見つけた相手が、男性に奪われてしまうことだった。雛子は、
「担当医が言ってましたよ。お姉さまは的を得た救急救命活動を果たして、救急隊員が驚いていたって。社会人でもなかなかできることじゃないって」
嬉しそうに言った。
この子にとって、わたしは単なる憧れだけじゃなくて、スーパーヒロインなんだ……
恵礼那は、まっすぐに自分を見つめる雛子の瞳にこたえなければならない、と思った。
恵礼那は昼休みになると、鳥居坂に面した東和麗華学園法人事務局が入る本部棟に足を向けた。理事を務める父を訪ね、雛子と婚約したことを伝えようとしたのだった。
中高等部が入った校舎を出ると、ふと、西洋建築である本部棟の方から歩いてくる遙流香の姿が見えた。恵礼那は、
「遙流香」
妹を呼び止めると、
「お父さんに何か用があったの?」
「うん、ちょっとね」
遙流香は言葉を濁し、
「お父さん、昼食も食べ終わって、のんびりテレビを見ているから、何か話すのならチャンスだよ」
姉に好機であることを伝え、ふわりと飛び去って行った。
学校では公私の別はつけなくてはならないが、雛子との婚約となれば、そうも言っていられない。恵礼那は理事会が入った部屋の扉をノックしようとしたそのとき、同性同士の婚約云々と、長女が言い出した日には、父の逆鱗に触れ、姓を取り上げられ、問答無用に家をたたき出される自分の末路が脳裏をかすめた。
そんなことになれば、大学進学など夢物語で、ましてや雛子との将来などあり得ようはずもない。未成年の娘にとって、父親の後ろ盾を失うことは、あまりに大きいことが実感できた。
――怖い――
恵礼那はがくりと廊下に膝をつき、瞳に涙をにじませると、唇をかみしめた。
夜になると、父はリビングで母に酌をさせながら、不意にテレビの音量をミュートにすると、
「おい、恵礼那。ちょっと話があるんだ」
家族で見るともなく見ていたバラエティー番組から目を離すと、恵礼那は父を見た。もしや、雛子との婚約がとっくに両親に伝わっているのではと身構えたが、父は上機嫌で見合い写真を差し出し、
「どうだ、旭峰大学の文学部に通っている。鎌倉時代の仏像に興味があって、京都や奈良には長期の休みのたびに出かけているそうだ。それでいて、あ……なんていうだ、細い自転車でスピードの出る……」
「ロードバイク」
遙流香が言うと、父はうなずき、
「そう、それだ。大学の仲間と頻繁にロードバイクを乗り回して、荒川や多摩川のサイクリングロードを走り回っているそうだ。文武両道って奴だな。年はお前より三つ年上だ。どうだ、会ってみるだけでも」
縁談を持ちかけたのだった。恵礼那はあきれ、
「お父さん、高校生に何を言っているの?」
母まで身を乗り出し、
「うちは女の子二人でしょう? お父さんが、恵礼那か遙流香のどちらかに男の子が生まれたら、養子にして跡目を取らせるって……」
「スポーツマンってところで話が合いそうだな、おまけに歴史マニアとくれば、色んなところに連れて行ってもらえるぞ。いい
遙流香まで見合い写真をのぞき込み、粉をかけ始めた。父は、遙流香の言葉に気をよくし、
「こいつは三男坊でな、長男は法務省、次男は銀行員をやっている。親父は俺の幼馴染みなんだ。とりあえず、会ってみないか、なぁ、俺の顔を立てると思って」
雛子と先行き不透明な同性婚をするよりもはるかに確実な未来が約束されることになる。恵礼那の心は大きく揺れた。恵礼那はうつむくと、
「ちょっと考えさせて」
ぽつりと答えたが、父は手応えを感じたのか、
「おう、いい返事を聞かせてくれよ、次は遙流香だな、あーっはっはっは!」
上機嫌に笑った。遙流香は頬を赤くしながら、
「高校生に何、言ってんだ?」
「早すぎるってのか? 平安時代は十三、十四歳が適齢期だったんだぞ」
遙流香は父に酌をしながら、
「今は令和だ」
父と一緒に大笑いをした。
恵礼那は夢を見ていた。
雛子も恵礼那もそれぞれの両親の反対を押し切り、大学在学中に渋谷区の安アパートで暮らし始めたものの、学生同士の同性婚ではろくな仕事に恵まれないどころか、近所からは白い目を向けられている。
勿論、双方の実家から何の援助も受けられない。
その日暮らしを続け、一年もたたないうちに雛子が白血病に冒されていたことが解った。いかに鳥人が通常の人間よりは健康、と言われていても、それは外傷についてだけで、血液のがんではどうしようもなかった。
医療費も高額となり、たちまち生活に行き詰まった。
恵礼那も雛子も大学を中退したことにより、世間知らずが
雛子は抗がん剤や放射線治療の副作用により脱毛に襲われ、正に尾羽打ち枯らした姿となり、ウイングボールで活躍していたときの面影はまるでなくなった。
恵礼那はある日の深夜、雛子が入院していた病院から呼び出され、駆けつけてみると、雛子は既に亡くなっていた。
病院の地下から追い出されるように遺体は運び出され、公営墓地付属の火葬場で焼かれると、遺骨は白い骨壺に恵礼那一人によって納められた。
変わり果てた雛子を降りしきる氷雨の中を安アパートに連れて帰ると、恵礼那は色あせた畳に座り込み、
――どうして、こんなことになってしまったのだろう――
大堂家からも、鈴井家からも、学友の一人からもただの一言も声をかけられず、これではうち捨てられたも同然ではないか……父から洋々たる未来を与えられながらも背を向けた報いなのだろうか――
ふと、粗末な台所に、さびかけたケーキナイフが目についた。恵礼那がロールケーキを切るために買ったケーキナイフだったが、実際には殆ど使うことはなかった。
恵礼那は異様に座った目でケーキナイフの刃を首に押し当てると、力任せに引いた。
「きゃあああああっ!」
恵礼那は悲鳴を上げてベットから飛び起きると、息を荒くして周囲を見渡した。
雛子と同性婚を強行したものの、雛子は白血病にかかり、早世してしまう。極貧生活を続ける部屋で自らも命を絶ってしまう夢を見ていたのだった。
すぐに父母と妹が部屋のドアを押し破るように入ってくると、
「どうしたの!」
「何だよ、恵礼那?」
母と妹が口々に言った。恵礼那は、
「……何でもない、何でもないの……」
見開いた瞳から頬へ涙が伝わったが、恵礼那は呟き続けた。
銀座四丁目の交差点に面した華麗なビルに入った音響機器のショールームで、個人宅には贅沢な4K液晶テレビをぽんっと求めた両親の買い物に付き合わされると、恵礼那と遙流香は、次はなじみの寿司屋に連れて行かれた。
畳が縦にずらりと並べられた座敷に、四人分の席をつくらせると、父は母と娘二人に、
「何を注文してもいいぞ」
気前よく言った。座敷は掘りごたつになっていて、テーブルで育った恵礼那と遙流香には使い勝手がいい。
恵礼那は母と並んで座り、父と遙流香に向き合った。
恵礼那は、腰ほどの高さの
「お寿司のネタの名前、あまり詳しくなくて……」
父に言うと、父は注文を受けにきた若い板前に、
「そうだな、それじゃ、特上を四人前。一つの寿司桶じゃなくて、盛り台で持ってきてくれ」
若い板前が去っていくと、遙流香はちっと舌打ちをした。寿司桶ならば、自分が好きなイクラや数の子が家族の分も食ってしまえるが、盛り台で出されると、そうもいかなくなる。
おしぼりと茶が出されると、
「で、俺たちに言いたいことがあるんだろう、恵礼那?」
恵礼那はごくりとつばを飲み込むと、
「……わたし……婚約したの……」
意を決して言った。当然、相手のことを詳しく聞かれるだろうと思っていると、両親も妹も何も尋ねない。怪訝に思いながら、
「相手は、山手誠栄女学院のウイングボール部のキャプテンをしている子。女の子なの」
昨夜見た恐ろしい夢を思い返して言ったが、なおも家族は何も言わない。恵礼那は家族をなくした思いで、
「勘当? もう、敷居をまたがせない?
だって、ピーちゃんはわたしが殺しかけたんだよ。でも、あの子、わたしのこと、尊敬してくれて、まっすぐにわたしのことを見て、すごく大切に思ってくれているの。
これから先、こんなにわたしを大事にしてくれる相手にもう会えないよ、ピーちゃんを裏切ったら、わたし、畜生以下になっちゃう。お父さんもお母さんもわたしを恩知らずにしたいの? 犬にも劣らなきゃ駄目なの?
わたし、そんな家に育っていたの? わたし、おかしなこと言っている? お父さんがもってきてくれたお見合いもわたしにはもったいない話だけど、でも……」
どうせたたき出されるのなら、父母への恩愛を表してからと思い、ため込んできた感情をぶちまけると、父は、
「お前は相手を殺しかけた
「違うよ! わたしもピーちゃんと結婚したいの!」
恵礼那が言い切ると、遙流香は肘で父を小突いた。恵礼那は妹が助け船を出してくれたのかと瞬時、思ったが、父は渋々と五千円札を遙流香に渡した。恵礼那が父と妹のやり取りを怪訝に思っていると、母は、
「こんなに思い詰めて……かわいそうに。もうやめなさい、あなたたち」
父と妹に眉をしかめた。遙流香が父から受け取った五千円札を財布にしまうと、
「遙流香、それ、何?」
「五千円札」
「それ、何!」
恵礼那はまさか、と思い、妹を更に問い詰めると、
「賭けしろ」
ようやくに遙流香が応えると、
「だから、俺と遙流香で賭けをしたんだ。恵礼那が、その、鈴井って子と婚約をした日から七日以内に家族に言えたら遙流香の勝ち、八日以上、言えなかったら俺の勝ち。
遙流香が勝ったら、俺は五千円の支払い。俺が勝ったら、遙流香は三日以上、酌をすること」
父も笑いながら応えた。
「それじゃ、山手誠栄女学院と練習試合をした日、ピーちゃんとわたしが婚約したことをあんた、知っていたの? あんたが東和麗華学園の本部棟から出てきたのは……」
恵礼那が遙流香につかみかからんばかりに言うと、
「いや、誰だって解るだろう。第一、わたしはお父さんと姉を
遙流香は姉の思い込みを説いたとき、盛り台に盛られた特上寿司が運ばれてきた。恵礼那は茫然として両親を交互に見ると、
「勘当は?」
一番気がかりだったことを尋ねると、
「誰がそんなこと言った? 娘が幸せになることが、二親の一番の誉れだ。今日買ったテレビは嫁入り道具にもたせてやる」
父が早速に甘エビを醤油に浸して口に放り込むと、母も、
「そうよ、恵礼那。今度、その、雛子さんに会わせてね」
恵礼那の頭をさすって言った。恵礼那は、
「ピーちゃんの両親が婚約を白紙にしようとしたら、ピーちゃんは大堂家の養女にしてほしいんだって。結婚するときに籍を抜くって。いいよね?」
父に迫るように言うと、父は、
「俺も娘三人の父親か。今更、どうってことはないだろう」
こだわりなく請け合うと、母もうなずいた。恵礼那は遙流香に、
「あんたがお見合いしてきな、スポーツマン同士話が合うでしょう、歴史マニアと夫婦になれば色んなところ行けるよ。それと、これからはわたしのこと恵礼那お姉ちゃんと呼びな。ピーちゃんは雛子お姉ちゃん」
「い……嫌だよ、今まで通り、恵礼那、ピーちゃん、でいいだろう?」
遙流香は照れると、恵礼那は、
「中トロ、サーモン、あわび、追加!」
寿司ネタは明るくない、と言っていながら、今日はとことん父に金を遣わせてやると考え、すっかり思い詰めた表情から、普段通りの険のある顔へと戻り、若い板前を呼びつけた。