耽美主義少女の脳内は栄光と永遠の楽園4

文字数 6,670文字

 大堂(だいどう)恵礼那(えれな)は、ぶち投げられたように不自然な姿勢で横たわった鈴井(すずい)雛子(ひなこ)の傍らに降り立った。
 ウイングボール競技場に集まった観客はざわめき始めている。
 恵礼那は雛子の翼をきちんと折りたたみ、仰向けに寝かせた。
 ―― わたしは、どうしたらいいのか――
 恵礼那は自らに問うたとき、四月初旬に新学期が始まったとき、各部活動の部長に選ばれた生徒たちが、所轄の消防署の講堂に集合し、救急隊員から救急救命を学んだことを思い出した。
 雛子は、腹にボールを受けバックボードに激突したときとグランドに落下したとき、頭を打っているかもしれない、無闇に素人が受傷者を動かしていいのか?
 この観客の中から外科医を探し出して指示を仰ぐべきなのでは?
 いや、そんなドラマか映画のようなことはあり得ない、
 山手誠栄女学院のキャプテンが意識不明となり、この事態にまず対処すべきは、対戦校の部長の自分だった。
 他者に頼ってはならない。
 周囲の安全確認は必要ない。恵礼那はまず、雛子の体側に両膝をついて、雛子の肩をたたき、
「ピーちゃん?」
 三回呼んだが、反応はない。次は呼吸の有無の確認だった。
 恵礼那は雛子の鼻に耳を寄せ、同時に胸の動きを見る。呼吸をしていない。CPAと呼ばれる心肺停止状態だった。
 観客席からは、
「おい、選手が死んじまったんじゃないのか?」
「医者を探せよ! 観客の中にいるよ」
 無責任な声が聞こえる。
 観客席ばかりではなく、対戦校の選手たちも不安げに集まってきた。
 恵礼那も自分が殺人を犯しつつあることにすくみ上がり、正気を失いかけていたが、
「おい、恵礼那、どうなんだ、ピーちゃん?」
 妹の遙流香が声をかけてきた。恵礼那の恐怖に耐える形相に遙流香は、思わず後ずさりした。遙流香に続いて東和麗華学園の選手も集まってきた。
 逃げ出せない――
 自分が錯乱すれば、この場は崩壊する――
 恵礼那は真紅のハーフパンツのポケットの中からスマホを取り出すと、遙流香に放り投げ、
「遙流香、一一九番通報、落ち着いてね」
 妹に救急車の要請を命じた。続いて美羽を指さし、
「穂積さん、AED(自動体外式除細動器)を持ってきて。チームベンチエリアにあったわ」
「は……はい!」
 美羽は、うなずくと、チームベンチエリアに飛んだ。真希が既に用意してくれている。AEDが格納されていたケースは、乱暴に開かれ、アラームが鳴り続けているが、気にしてはいられない。
 美羽はAEDを恵礼那の右側に置くと、
「穂積さん、競技場の正面ゲートで待機していて。救急車がきたら救急隊員を連れてきて。
他の皆は、ピーちゃんの胸を出すから、周囲に立って」
 部員たちに命じた。すぐに周囲に人垣ができた。恵礼那は雛子のユニフォームの裾を肩までまくり上げると、雛子のスポーツブラを引きちぎり、投げ捨てた。
 AEDのカバーを開けると、AEDから音声が発され、
「袋を開け、パッドを二枚取り出して、右胸と左脇腹に貼って下さい」
 指示が出た。救急救命講習のままだった。二枚のパッドが雛子の心電図を計測している。
 遙流香が救急車の要請ができたことを姉に伝え、スマホを返した。恵礼那は、
「誠栄の副部長は誰?」
 背番号2番の(はなぶさ)(さかえ)が、
「わたしです」
 震えた声で言うと、
「誠栄に電話して、雛子……鈴井選手の保護者の連絡先を聞いてメモしておいて。救急隊員に伝えるから」
 栄は恵礼那にスマホを放り渡されると、言われるままにネットで母校の電話番号を調べ、すぐに電話をかけ、
「そうです! 部長が死にかけて、救急車を呼んでいるんです! 高三1組、鈴井雛子の保護者の連絡先ですよ!」
 物わかりの悪い教員を涙声で怒鳴っている。
「心電図を図ります、呼吸なし、電気ショックを行います、離れて下さい」
 AEDから音声が流れ、充電完了のオレンジボタンが点灯すると、
「皆、離れて」
 恵礼那が人垣となった部員たちに距離を取らせると、オレンジボタンを押した。
 電気ショックが行われると、雛子の体は跳ね上がったが、蘇生はしない。AEDから再び音声が流れ、
「呼吸がありません、直ちに胸郭圧迫を開始して下さい」
 告げると、恵礼那は両手を重ね、雛子のみぞおちを押し続けた。
 急がなければならない。
 脳に血液がいき届かなければ、約四、五分で回復不可能な障害を残す。
 一分間に一二〇回、五センチ沈むほど、とマニュアルには記されているが、自分がその通りにできているのか解らない。
 胸郭圧迫を三〇回繰り返すと、雛子の顎を持ち上げ、気道を確保する。恵礼那は自分の口を雛子の口に押し当て、酸素を送り込んだ。雛子の胸は膨らんだが、自分で呼吸を開始できるには至っていない。
 救急隊員が到着するまで、胸郭圧迫と人工呼吸を繰り返すことになる。重労働だった。
 試合は、審判によって、とっくに無効になっている。放送もどうなったのか、解らない。
 雛子の胸郭圧迫を続け、恵礼那の額から頬へ滝のような汗が流れている。
 東京ミッドタウンにウイングボールの教本を探しに行ったとき、恵礼那を真正面から見つめ、将来の夢を熱っぽい瞳で語り続けていた雛子を恵礼那は殺しかけている。
 四度目の人工呼吸をし、胸郭圧迫を始めようとしたとき、
「お姉……さま……」
 雛子がわずかに呟き、胸郭圧迫する手を払いのけた。雛子は蘇生したのだった。
 恵礼那がほっとしたとき、美羽が先導しながら、白いヘルメットに、水色のジャンパーの背に青でくっきりと横浜市消防局と書かれた救急隊員三名が、ストレッチャーをおし、事故現場に到着した。
 恵礼那は、記録係らしい隊員に、
「受傷は午後三時二十二分。直ちにAEDの使用を開始し、心肺停止を確認、電気ショックを行いました。胸郭圧迫は一二〇回、人工呼吸は四回です」
 蘇生したとはいっても雛子はまだまだ予断は許されず、近隣の救急救命センターを備えた医療機関へ搬送されていった。
競技場内に拍手があふれた。
 恵礼那が救急車に同乗し、隊員の一人がバイタルを計測しながら雛子の保護者に、雛子の生年月日、血液型、既往症、住所を聞き取っている。隊員の一人が、
「この子、大したもんだ」
 恵礼那に言った。大型商業施設の防災センター要員やホテルのフロントには、救急救命講習を義務づけているが、臆したり、迷ったりで、成果が上がっているとはいえない。こうした実情の中、高校生が一連の救命活動を行えたことは奇跡に等しかった。恵礼那は、
「ピーちゃん、助かりますか?」
呟くように尋ねると、救急隊員は、
 「意識も戻り始めているし、障害を残すことなく回復できると思うよ、よくがんばったね!」
力強く答えた
 
 ○

 雛子は夢を見ていた。
 身長一七一センチの恵礼那と身長一四二センチの雛子では、身重差が三〇センチあったから、デザインは同じで、サイズ違いの純白のウエディングドレスに身を包み、軽井沢の森の中にある教会で結婚式を挙げていた。
 メンデルスゾーンの結婚行進曲が流れる中、神父の問いに答え、生涯を誓うのだった。
 雛子の頬に涙が伝わり落ちた。
「やだ、泣き出したりして。どうしたの、雛子?」
 恵礼那が聞くと、雛子は、
「幸せすぎて……嬉しくて……お姉さま、後悔していませんか? 相手がわたしなんて……」
「バカね、ピーちゃんはわたしにはもったいほどよ」
 続いて、渋谷区に住むことになった恵礼那と雛子は、連日ウイングボールに関連したイベントや一日コーチへ引っ張りだこで、世界中を訪ね歩く多忙な日々だった。
 ウイングボールは日本では知名度が低く、女性同士の結婚、ということからも取材申し込みが絶えない。
 恵礼那と雛子は時間を見つけては、児童ホームを訪ね、養子を探そうとしたが、父と母がいる家庭の子になりたい、という子が殆どで、なかなかうまくいかない。
 常に挑戦を続けている恵礼那と雛子は、スポーツ界からも、性的少数者からも、大きな期待を寄せられる存在になっていた。

 ○

「……忙しいよ……」
 雛子はうわごととともにICU病棟で目を覚ますと、母親の叡子(えいこ)がのぞき込んでいた。
「何よ、お母さん、暇なの?」
「だって、お前、心臓が止まって、十六メートルのゴールから落ちたって」
「スポーツをやっていれば、怪我ぐらいするよ。鳥人は人間の三割から五割は丈夫にできているんだから、騒ぎ立てないでよ、恥ずかしいな」
 雛子はぶっきらぼうに言った。鳥人は飛翔したり、着地したりで、同じ環境にある人間と比べれると、骨格筋や臓器は三割から五割は丈夫である、との説がある。
 母の隣でユニフォーム姿の恵礼那も不安そうに見つめていることに気がついた。競技場から付き添ってきてくれたのだろう
「お姉さままで。ごめんなさい。お母さんが大騒ぎしたのでしょう? あ、試合はどうなったんですか?」
「第三ピリオドまで進んで、東和も誠栄も四十六対四十六で引き分け」
「引き分けだったんだ……次はちゃんと決着つけましょうね」
 雛子は自分を殺しかけた恵礼那に屈託なく言葉をかけてくる。恵礼那は、何をいったものかと考えていると、雛子は叡子に、
「丁度いい。お母さん、わたし、お姉さまと結婚するから。今日の、明日のって話じゃないよ、ちゃんと大学卒業して、お勤めできるようになってからだから、まだ四、五年先の話」
「また、始まった。やめなさい、大堂さんも困っているでしょう!」
「またって?」
 恵礼那が叡子に尋ねると、叡子は、
「この子、小さいときから女の子が好きで……女の子ばかり家に連れてくるんです。早く、普通に……」
「普通って何よ! わたし男の子になんか興味ない! だから女子校に進んだんじゃない! 変な見合いなんかさせたって、無駄だからね! お姉さまもわたしのプロポーズを受けてくれているんだから!」
 雛子はそういうなり、点滴の管が刺されたか細い腕で恵礼那の顔を引き寄せると、ディープキスを繰り返した。恵礼那は雛子の体を押しのければ済むことだったが、拒むことはできなかった。
 檜町公園で無差別殺人を企てた異常者に襲われた後、雛子にカウンセリングを強く勧め、受けさせていれば、遙流香を仇のように思わせ、復讐のような練習試合など、避けられたかもしれない。
 現に、元来、朗らかな雛子が、電車の中で痴漢に遭ったとき、ホームに引きずり下ろし、警察に突き出すという荒々しい行動を取った、と今日の練習試合を開始する前に、山手誠栄女学院の生徒から聞かされ、信じかねたが、試合中に賛美歌を叫びながら戦う姿に、深いトラウマを負っていることが解った。
 叡子は、娘の生々しい姿に悲鳴を上げかけたが、雛子は構わず、
「ほら、見たでしょ。わたし、お姉さまとならちゃんとやっていける、一時の気の迷いなんかじゃない!」
母に告げた。
 ICU病棟全体から目が向けられている。
 恵礼那の足が震えた。
 結婚とは、同性同士ではいけないのか、
 悪いことなのか、
 自分をこれほど大切に考えてくれる心がある、
 いま、この心を振り払って、この先の人生で、自分を更に大切にしてくれる人と出会えるのか、
 自分だって、星野に憧れていたではないか、
 今ここでピーちゃんを振り払ったら、ピーちゃんは気がおかしくなるのではないか、
 そもそもピーちゃんを蘇生させたのは自分ではないか、
 蘇生させて、無責任に放り出すのか、
 ピーちゃんの方が自分よりもはるかに人生を見据えているではないか、
 自分は、星野に気持ちを伝える勇気さえなかったではないか、
 恵礼那は、もはや自分が同性婚をすることが宿命に思われ、雛子ににっこりと笑うと、
「うん、ありがとう、ピーちゃん、二人で幸せになろうね」
 プロポーズを受けた。
雛子はしばらく目を見開き、やがて恵礼那の手の平を自身の頬に沿えた。そのまま頬ずりを繰り返すと、
「わたし、この一言をいってくれる人を待っていた、何年も……何年も……ずっと……」
ぽろぽろと涙を流していう娘に、叡子は言葉を失った。
 両親と妹にはなんと話せばいいのか、同性婚を決めたといえば、姓を奪われ、勘当されて、高校も中退となり、住むところも追われるのだろうか、いや、雛子を見習って自分自身としっかり向き合おう――恵礼那は心に誓った。


 中華街大通りに軒を競う広東料理レストランは、極彩色に彩られ、ゴールデンウィークの日曜日、ということから、人出でごった返している。
 その雑踏の中に、美羽と真希と遙流香がのんびりと歩いていた。
「よー、まだどっか行くのか? 腹減ってきたよ」
 遙流香が言うと、真希は、
「まだまだ。やっと玄武門(げんぶもん)善隣門(ぜんりんもん)を見ただけじゃない。中華街の牌楼(パイロー)全部と関帝廟(かんていびょう)媽祖廟(まそびょう)を制覇するまでは帰らないよ」
「付き合ってやってんだから、なんか食わせろよ、真希」
 遙流香は中華街で史跡見物を始めた真希にたかり出した。
 横浜の中華街は山下町内の約五百メートル四方に造られている。
 この町割りがきちんと東西南北に沿っているのは、風水思想に基づくもので、町のあちらこちらには牌楼と呼ばれている(しん)時代の建築様式の門が八種十基建ち、運気を取り込み、町の安全や発展が願われているのだった。
戦後の復興期、横浜市は山下公園、中華街、元町を三点セットで売り出し、このときに最初に建てられたのが善隣門だった。
 こうした牌楼以外に、中華街には関帝廟という英雄・関羽(かんう)を祀った廟と、媽祖廟という才知に長け、不思議な霊力を操っていた娘を祀った廟が、大変に華麗で、観光客の注目を集めている。
 山手誠栄女学院との練習試合が、雛子の心肺停止によりドローとなり、救急車に同乗した恵礼那からの知らせによると、雛子は脳のMRIとCTを撮影され、特に問題はなく、今晩だけICU病棟に入院となり、明日は小児科病棟に移り、腹部と胸部の精密検査になるという。
 もはや峠は越えたと考え、遙流香は美羽と真希を誘い、そもそも雛子が恵礼那とデートコースにしようとしていた山下公園と中華街に繰り出したのだった。早い話が当てつけだった。
 中華街大通りを進み、朝陽門(ちょうようもん)が近くなったとき、街角にフカヒレスープが売られていた。
 真希は遙流香に催促され、仕方なく三人分、買い求めた。
 タケノコとシイタケは歯ごたえがよく、鶏ガラスープに入れられた鶏むね肉とフカヒレが片栗粉のとろりみとよくあっている。
「それで、恵礼那さん、傷害殺人未遂とかに問われるんですか?」
「あはははは、中高生のスポーツだよ。ただのアクシデントだよ」
 美羽が不安そうに言うと、遙流香が笑い飛ばした。
「でもさ、今ごろ恵礼那のやつ、ピーちゃんに婚約させられているかもな。ピーちゃんにとっちゃ、勝負に出る絶好のチャンスだもんな」
「で、恵礼那さん、どうするんですか」
 美羽が言うと、
「だから、もう婚約しちゃってるって」
 遙流香が、フカヒレスープを吹き冷まし、プラスチックのスプーンでちびちびと飲みながら楽しそうに答えた。
 美羽は目を見張り、
「遙流香さんはどうするんですか?」
「いやいや、恵礼那の人生だからな。祝ってやればいいじゃん。姉が同性婚って面白いって!」
「そういうもんですかね」
 美羽が首をかしげると、真希は『白銀の姫君』こと(かけい)美雪(みゆき)を思い出し、
「美羽だって、そのうち『白銀の姫君』にプロポーズされるかもよ」
「美雪さん、しっかりしてるから結婚生活も楽しそう」
 美羽が美雪と暮らすことを考え、頬を赤くすると、遙流香は、
「そうだろ、人生なんて、行き当たりばったり、若気の至り上等だよ。さて、ピーちゃんのこと、何て呼ぶかな」
「雛お姉ちゃん、でいいんじゃないの? あ、朝陽門、こっちだ」
 真希は本町通りの方へ曲がった。
「もうちょっとひねりたいよな」
 遙流香は、まるでおままごとのような姉と雛子の新婚生活を思い浮かべ、大笑いした。
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