美羽の一番長い日2

文字数 6,498文字

 園田(そのだ)真希(まき)は、帰宅しようと都営大江戸線を六本木駅から乗ると、座席に腰を下ろし、ノート型パソコンの電源を入れた。
 東和麗華学園中高等部の最寄駅である六本木駅前の銀行で開設した自分の口座に、山手誠栄女学院のウイングボール部の部長を務める鈴井(すずい)雛子(ひなこ)からの振込を確認でき、大堂(だいどう)恵礼那(えれな)の盗撮写真を大量に送信するために、落ち着いてパソコン操作をしたいのだった。
 恵礼那は東和麗華学園中高等部のウイングボール部の部長を務め、最近、雛子と婚約したらしい。
 真希が、雛子に、
「大堂先輩と婚約したんだから、色んなところをデートして、鈴井先輩が自分で写真撮らせてもらえばタダじゃないんですか?」
 と浅草や上野などのデートスポットを思い描きながらメールを送ると、雛子は、
「恵礼那お姉さまとはなかなか会えなくて寂しいんだから、せめてちゃんとしたカメラとレンズで撮影したお写真だけでもほしいの」
 と、返信をよこしてきた。
 高校三年生のしかも女子同士の婚約など、いつ双方の両親に白紙にされるかも解らない。このことを真希が雛子に指摘すると、
「ウチの親が妙な素振りを見せたら、お姉さまに頼んで、大堂家の養女になって、それから結婚するから大丈夫」
 と、戸籍をどう考えているのか、自信満々に答えた。この素っ頓狂な考え方は、『平家物語』から入れ知恵されたらしい。
 専横を尽くす平清盛(たいらのきよもり)が娘の徳子(とくこ)を高倉天皇に入内させるとき、清盛の娘、ということでは朝廷からのはばかりが大きく、清盛の長男・重盛の養女として取り繕った、というくだりを真似たのだそうだ。
 まあ、恵礼那と雛子の覚悟だけは伝わり、商売にもなっているので、真希は苦笑しながら送信のアイコンをクリックした。
 このとき、大江戸線の車内に男の怒声が響いた。
「おい、小僧! 人の足を踏んだら、ちゃんと謝れ!」
「フザけんな、てめえが足出してんのが、いけねえんだろうが!」
 座席に座っていた中年の男が、前に立っていた二十歳過ぎの男に足を踏まれた、といい争いになっている。
 乗客の誰もが見て見ぬ振りをしていた。中年の男は、丁度、地下鉄が都庁前駅に停車したことから、
「下りろ、小僧!」
 二十歳過ぎの男の胸ぐらをつかむと、ホームに引きずり下ろした。真希も面白い写真が撮れそうだと思い、一眼レフの電源を入れながら大江戸線を下りた。
「てめえ、いい加減にしろ!」
 二十歳過ぎの男が騒ぎの火に更に油をかける中年の男の手を振り払うと、中年の男のアタッシュケースがホームに投げ出され、中にあった書類がぶちまけられた。
「おい、逃げるな!」
 ホームを立ち去りかける二十歳過ぎ男の肩を中年の男がつかみ、更に絡んだ。どうやら酒が入っているらしい。
 真希は二人の男にレンズを向けたが、ホームが薄暗く、適正な露出が得られず、シャッターが切れない。
 そうこうしているうちに男たちは駆けつけた駅員に引き離され、連れていかれてしまった。
 真希はラッシュ時のホームで期待した流血沙汰が起こらず、思わず舌打ちをすると、ホームにぶちまけられた中年の男のアタッシュケースを見た。
 不動産取引の書類に混ざり、全国ウイングボール連盟の機関誌『翼球』が目についた。例年通り、全国の中高生のウイングボール地区大会開始に先立ち、昨年と一昨年の東京都代表となった就学園のキャプテン・(かけい)美雪(みゆき)のインタビュー記事が掲載されている号だった。
 中年の男は、女子学生の太もも目当てのファンかと思い、真希がアタッシュケースの中身を物色すると、革の名刺入れが入っている。
 名刺入れには、新宿区新宿三丁目にある不動産会社で営業部長職の肩書きがついた、
 (かけい)隼人(はやと)
 の名刺が数枚入っていた。
 筧……珍しい姓に記憶をたぐると、新宿の不動産業に就いている、という美雪の父親その人であることを確信した。
 真希は抜け目なく筧隼人の名刺と『翼球』をスマホで写真に撮ると、アタッシュケースを閉じ、駅の事務所に届け出た。

 神宮前にあるマンションのリビングルームで、就学園の制服からラフな部屋着に着替え、長い髪をツインテールにまとめた美雪は、テレビを見ていた。
 リモコンでチャンネルをせわしなくかえてもつまらない番組ばかりで、飽き飽きしていると、ふとスマホにメールの着信があった。
 文面を読むと、『マキちゃん』から『white beauty』宛てで、
 筧先輩のお父さん、都営大江戸線の都庁前駅でケンカして、放り出した手荷物、駅の事務所に届けておきました
 とショッキングな文面に、ぶちまけられた父の荷物の写真が添えられている。
 もしや警察沙汰に――
 美雪が息を呑んだとき、玄関ドアが外から解錠され、開いた。美雪が慌てて飛び出していくと、酩酊した父の隼人が帰宅していた。案の定手ぶらだが、本人は気づいていない様子だった。美雪は、
「お父さん!」
 安心と情けない思いが同時に胸に迫ったが、酔っ払いのしかも人間相手に、ソートAの美雪が翼で父の横っ面を張り飛ばせば、殺しかねない。
 美雪は仕方なく、
「ほらしっかりして!」
 父の手を引くと、父は、
「んー? 母さんか。酔っちゃいねぇよ!」
 美雪を亡くなった妻と勘違いを始めた。美雪は父をリビングのソファに座らせると、キッチンにミネラルウォーターを取りにいったが、ふと、コンビニで買った安い日本酒を冷蔵庫から取り出し、リビングに戻ると、
「ほら、お父さん、飲んで!」
 ミネラルウォーターを飲ませてから、
「ねぇ、次の日曜日、有明でウイングボールの大会があるの。観にきてくれない?」
 地区大会の第一回戦の観戦を求めた。
「ああ、地区大会だったな、どうせ、お前の勝ちだろう」
「今年は解らないよ、東和麗華には『黄金の女王』が入学して大活躍しているから」
 美雪が『黄金の女王』の二つ名をもつ穂積(ほづみ)美羽(みわ)を思い出しながらいうと、
「よし、俺が応援にいってやる、俺に任せとけ!」
 父が上機嫌に請け合うと、美雪は、安酒を父に飲ませ、
「うん、がんばるね。じゃ、お父さん、忘れないように、スケジュール帳にメモしてね」
 スケジュール帳とボールペンを父にもたせた。父は、
「疑い深いな、お前は」
 真っ赤な顔をしていうなりボールペンで、
 美雪 ウイングボール一回戦 有明
 と、メモをした。
 があがあといびきを立てて眠り始めた父を見て、美雪は、父はいまだに鳥人で早くに亡くなった母の面影を娘に重ねていることを知った。
 しかし、その娘はアルビノで、父には長年の『お荷物』となっている。それでいて『翼球』をどこからともなく手に入れ、持ち歩いていた。
「『黄金の女王』に勝ったら、褒めてくれる?」
 美雪は、泥酔して眠る父に問いかけた。


 アテーナ司法書士事務所からの回答は迅速だった。一週間もせずに美羽の父方の四代前までの戸籍謄本の束が、美羽が借りている高輪のマンションに郵送されてきたのだった。
 美羽は昼休みになると、物見遊山よろしくついてきた真希とともに、部長の執務室へ戸籍謄本の束を提出にいくと、醍醐は待ちかねていたように戸籍謄本を揃え、
「穂積さんのお父さまは紘樹(ひろき)さん、お母さまは怜子(れいこ)さん、十六年前に結婚して翌年に美羽さんが生まれていますね」
 まずは美羽の両親に触れた。真希は、
「デキちゃった婚じゃなかったんだ。真面目な両親だね」
 口を挟んだ。美羽は思わず肘で真希を小突いた。醍醐は戸籍謄本の束をめくり、
「紘樹さんは長男で、弟さんである勇樹(ゆうき)さんが長野県北安曇野郡松川村にいらっしゃいましたが、一昨年に亡くなっています」
 美羽の目がさざ波立った。
 叔父の存在が公文書となって身近になったのだった。思うに、身内を鳥人に殺されたとする弟に、父は美羽を会わせられなかったのだろう。
 叔父が故人となっていたことで、美羽は祖父から全ての相続を受けたのだった。醍醐は更に戸籍謄本の束をめくり、
「紘樹さんと勇樹さんのおとうさまは偉介(いすけ)さんといい、三人兄弟の真ん中として七十五年前に生まれています。幼いときに亡くなったというのは、二つ年下の恵介(けいすけ)さんのことでしょう。この恵介さんは昭和二十三年七月十二日に亡くなっています。この日に何が起きたのか……」
 あっさりと美羽の祖父が押し黙り続けていた『穂積恵介』という名に辿り着いた。唯一、面倒だったことといえば、偉介と恵介の父親が、長野県松本市梓川倭(あずさがわやまと)に住んでいた野川二郎という人物で、どういう事情なのかは解らなかったが、同じ梓川倭に住んでいた穂積家の養子に入っていたことで、野川家の戸籍も辿らなければならないことだった。
 美羽は戸籍謄本の束を見ながら、この中の誰か一人でも欠けていたら、自分の存在はあり得なかったのだろうか、と思うと、家系や血筋が偉大な存在であることを実感した。
「あの、聡子先生」
 ふと、真希が醍醐に小さく挙手した。醍醐は、
「どうしたの?」
 聞くと、真希は、
「平成の現代はキラキラネームといって、アニメ、ゲーム、ライトノベルの登場人物のような名前を子供につけていますが、昔は何で親兄弟で似たような名をつけていたんですか? 例えば、美羽のおとうさんの紘樹さんと叔父の勇樹さん、おじいさんの偉介さんと弟の恵介さん。皆一文字違いです」
 聡子は、しばし沈思すると、
「奥州藤原氏の清衡(きよひら)基衡(もとひら)秀衡(ひでひら)泰衡(やすひら)の例が解りやすいですね。昔は今ほど長命ではなく、短命でした。
 医療や保健が充実していなかったからです。その上に戦、戦の明け暮れでしたから、人生は本当にはかないものだったでしょう。そこで一族内の団結とか結束を意識し続けることが必要でした。それが命名という行為になっていたのです」
 美羽と真希が思わずうなずくと、聡子は美羽に目を向け、
「穂積さん、何をぐずぐずしているの?」
 不意に厳しい語調で尋ねた。美羽はきょとんとすると、醍醐は、
「明日、郷里の松本へいって、穂積恵介さんが亡くなったときの詳しいきさつを調べるのでしょう?」
 美羽はアテーナ司法書士事務所の大島にも説明を受けたが、松本のどこへいって七十年前の七月の出来事を調べることができるのか、今一度、醍醐に尋ねると、
「松本市図書館の一つである旧開智学校の近くにある中央図書館へいって、信濃地域新聞の記事を調べるの。そこに穂積さんが十五年間背負ってきたことの真実が記されているはずです」
 中央図書館のホームページをプリンターで印刷したものを差し出した。醍醐の手回しの良さに美羽は舌を巻いたが、もはや拒むことはできなかった。
 もしも、祖父が語ってきたように、何らかのいきさつで恵介が鳥人に殺されていたら……その原因が鳥人にではなく恵介自身にあったのなら……それ以外に思いもかけない、誰もどこも責めることのできない厳しい現実が待っていたら……
「でも……何か、空恐ろしいことが新聞記事に書かれていたら、わたしはどうすればいいんですか?」
 美羽がすっかり怯えた表情でいうと、真希は、
「そうはならないと思うよ」
 美羽の翼から抜け落ちた黄金に輝く風切羽を指先でくるくると回しながらいった。どうやら、美羽の風切羽を真希は大事にもっているらしい。ネットオークションにかけるつもりなのだろう。醍醐は、
「どうしてそう思うの?」
 真希に聞いた。真希は、
「美羽の両親は、多分、おじいさんの猛反対にあっても結婚して、美羽が生まれたとき、黄金の翼をもって生まれた赤ちゃんを見て、びっくりしたと思う。童話にある僻村の伝説の『翼競争』で十五年間、連勝を続けた『黄金の女王』が、口伝なんかじゃない、現実となって日本に現れたんだもの。
 きっと奇跡のような赤ちゃんを一言でいい表すことのできる名を一生懸命に考えて、やっと美しい羽という意味の美羽って名づけたんだと思う。その背景に、恐ろしく忌まわしい現実があったなんて思えない。
 勇気を振り絞っていってきなよ、松本まで。わたしも明日、新宿駅まで見送りにいってあげるから」
 きっぱりと言い切った。聡子は、
「あさっての日曜日は、全国ウイングボール中高生大会第三試合で当校が、就学園と対戦します。試合開始の午後二時に間に合うよう帰京して下さい。初戦から『白銀の姫君』と『黄金の女王』の戦いになります」
 松本で美羽が知る結果如何によっては、そのまま鎌倉に帰ってしまうことなく、六本木に戻ってくることを信じ切っていった。
 美羽は頷く他なかった。
 
 多くの利用者が行き交うJR新宿駅の中央通路から中央本線の起点となっている九、十番線ホームに上がると、赤のタンクトップにアイボリーのショールを羽織り、デニムのスカートといった私服姿の美羽と、白地にミッキーマウスが大きくプリントされたTシャツに、デニムのショートパンツをはいた真希は、特急スーパーあずさの入線にはまだ少し間があることを確かめた。美羽は、
「ねえ……何があるんだろう?」
 バカの一つ覚えのごとく繰り返していたが、真希は聞く耳もたずに、
「あのさ、美羽は松本に住んでいたときは、何ていう町にいたの?」
「松本城近くの中央っていう町」
「それでさ、九歳のとき、松本城の天守閣近くにいったことある?」
 不意に妙なことを真希はいい出した。美羽は怪訝に思いながら、
「さあ……わたし、いつも黒門丸の観覧券売り場で入場券なんて買わないで、外堀や内堀を飛び越えて入り込んでは、地元観光を楽しんでいたからね」
 不正入場していたことをけろりとして答えると、真希は、
「わたし、九歳のとき、両親に連れられて松本城の大天守に入ったことがあるの。そのとき石落(いしおとし)に身を乗り出し過ぎて、石垣や堀に真っ逆さまに落ちそうになったんだよね。そのとき、どこからともなく飛んできた大きな黄金の翼をもった鳥人の女の子に襟首を引っつかまれて、石垣にぶつかったり、堀に落ちることなく、助けられたことがあるんだぁ……」
 幼い日の思い出を振り返って語った。美羽ははっと思い当たることがあった。いつものように不正に城地に入り込んで、本丸御殿跡でタマゴサンドを食べていると、大天守の一層に設けられた石落と呼ばれる城郭の防御設備から女の子が落ちたのだった。
 丁度、サンドイッチを飲み込んだところだったので、美羽は女の子を空中で受け止め、二の丸御殿跡に降ろした記憶があった。美羽は、あのときの女の子、真希だったの? いいよ、お礼なんて、と笑おうとしたそのとき、真希は美羽をわずかににらみ、
「その鳥人の子ったら、ずいぶん離れた所にわたしを降ろしやがって、両親が迎えにきてくれるまでかなり時間がかかってさ、ひどい目に遭わされたんだ。ブラウスはビリビリに破けたしね。今度、会ったら、どうしてやろうかと思っているんだけど……まさか、あの鳥人の女の子、美羽じゃないよねぇ?」
 美羽は真希の目線に気を呑まれ、
「……さあ、知らないよ。わたしじゃないよ、それ」
「ふーん、それじゃ、松本城近くに黄金の翼をもった鳥人の子が二人はいたことになるんだね」
「うん、そうだね……鳥人でも肩に何か羽織っちゃったら、なかなか解らないしね」
 美羽が空っとぼけると、スーパーあずさが入線してきた。美羽はほっと助かった思いで、
「それじゃ、いってくるね」
 車中の人となり、わざわざホームまで見送りにきたクラスメートに手を振った。真希も、
「うん、気をつけてね。どんなことが解っても、がんばってね」
 手を振ると、特急電車は動き始めた。
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