ろくでもない出来事は、ある朝突然に
文字数 2,751文字
突然、すさまじい力が、金属がひしゃげ、何かを引き裂く音が、朝の空気を震わせた。
六本木五丁目交差点に面して建つオフィスビルの一棟が、外壁を修理するために足場が組まれている。その足場が、昨夜来の強風を受け、崩落を始めているのだった。
「近づくんじゃない!」
穂積 美羽 の目の前で、現場監督と思われる作業着姿の男が、朝食を入れたコンビニ袋を放り投げ、叫んだが、一体、何が起きているのか解らなかった。
美羽の傍らを小学生低学年の兄弟が、無邪気に通り過ぎていく。
兄弟は、美羽が入学した東和麗華 学園の初等部の制服を着ていた。
得体の知れない轟音は、ますます大きくなる。
美羽は作業着姿の男の目線を追うと、オフィスビルの全面を覆った単管パイプや踏み板が重みで黒いシートを引き裂き、通勤・通学でごった返した歩道へ凶器となって落下を始めていたのだった。
美羽の脳裏に濃紺のブレザーと半ズボンを着た幼い兄弟が、単管パイプで串刺しとなるか、単管クランプに体が大きくえぐられる光景がよぎった。
助けなきゃ、まだ、間に合う!
美羽は心の中で自らに命じた。
身長百七十五センチ、体重六十二キロという高校一年生の女子にしては大柄の美羽の瞳の色素がわずかに薄くなった。
鳥人の制服に義務づけられたマントの裾が大きく広がると、一対の巨大な黄金に輝く翼が羽音を上げて美羽の背に出現した。片翼だけでも身長の三倍はある。
交差点を行き交う雑踏がどよめいた。
美羽は弟と思われる男の子を背後から抱きしめると、大きく羽ばたいた。たちまちに男の子を抱きしめた美羽は、六本木の空へ飛翔した。
「マジ……かよ」
作業着姿の男が、まるで宇宙機の打ち上げのように大地から飛び立った美羽を見上げ、茫然としてつぶやいた。
美羽は男の子を抱きしめながら上昇を続けると、足場の損壊が想像以上で、完全に崩落するまで数秒しかないことが、素人目にも明らかだった。
「お兄ちゃん!」
美羽に抱きしめられ、急速に上昇する男の子は、歩道に取り残された兄を呼んだが、兄も訳が解らず立ち尽くしている。美羽は兄を見つめ、
もう一人は、とても……
自分の限界に唇をかみしめたそのとき、どこからともなくマントの裾から白銀の翼を広げた何者かが現れ、歩道に取り残された兄と思われる男の子と半瞬、向かい合い、美羽同様に抱きしめると、上空へ舞い上がった。
美羽のマントは濃紺だが、白銀の翼で飛翔する何者かのマントは緋色 で、他校の生徒のようだった。
二人の鳥人は、ビルの屋上辺りで素早く翼を羽ばたかせ、滞空すると、足場はビルの外壁から剥ぎ取られるかのように低層部分を残し、完全に外苑東通りへ崩れ落ちた。
美羽は正対する白銀の翼で滞空する何者かを見つめたが、フードを深く被り、顔は窺 い知れない。いずれにしても美羽同様に相当な力量をもった鳥人であった。
足場が崩れ落ちると、美羽と何者かは着地し、兄弟を放した。
美羽の薄くなった瞳の色素がすっと元通り茶色に戻る。
兄弟は、小山のように変わり果て、一部は歩道と車道を区切る柵を壊し、地面に突き刺さった足場の部材を目にするなり、泣き始めた。
美羽は、現場監督らしい作業着姿の男を見ると、スマホで110番通報を始めている。
白銀の翼をもつ者は、よほど顔を見られたくないのか、フードを被り直すと、美羽には何も語りかけず、再び六本木の空へと飛び去っていった。
「おい、何だってんだよ!」
突然に渋滞に巻き込まれたタクシーの運転手が、窓を開けて怒鳴っている。
激しい往来を塞がれ、六本木五丁目交差点は車道、歩道ともに渋滞が始まっている。
美羽は、一つ間違えば凄惨な光景が現れていたところを無言で回避したどころか、名も告げずに去っていった白銀の翼をもつ者の後ろ姿を目で追っていると、すぐに所轄の警察が出動し、交通規制、現場検証、事情聴取を始めた。
九死に一生を得た兄弟は泣き叫び、婦警がなだめているが、救急車の出動にまで及ばなかったのは幸いだった。美羽がほっと一息ついたそのとき、
「はーい、彼女、もう一度、翼広げてよ。目線、こっち。うーん、いいね、いいよ、朝日を受けてキラキラだね! あ、かわいいポーズもほしいな」
同じクラスになり、入学式の日から友人となった人間の園田 真希 が、ハイビジョン撮影ができるビデオカメラのレンズを美羽に向けていた。
真希は身長百四十五センチ、体重三十八キロと小柄で、セミロングの髪を三つ編みにしている。エレガントなメガネをかけ、きちんとした身なりで、いかにもクラス委員長のイメージがあるが、美羽の見るところ実は相当に腹黒い。
わたしの動画など撮って、何に使う気でいるのか――
美羽は思わず舌打ちすると、はだけたマントを整え、東和麗華学園中高等部がある鳥居坂へ急いだ。真希は、慌てて美羽の後を追いながら、
「ねぇ、事情聴取に協力しなくていいの」
「用事があれば、警察の方からくるでしょ。あそこであれこれ聞かれて目立つの嫌なの」
美羽が人だかりになった事故現場をちらりと見遣って言った。真希は、
「あんた、本当に目立つの嫌いだよね。そのくせ、自分で目立つことやってさ。理解できない」
「ついよ、つい。真希だって、あの男の子たちが串刺しになって、歩道に打ちつけられる光景なんか見たくないでしょ」
「それはそれで、そのテのサイトに投稿するけどさ……」
真希はぼそりとつぶやいた。美羽はクラスメートの独り言が理解できずにきょとんとしていると、真希は美羽のマントの裾からはみ出た黄金に輝く風切羽 を見ると、
「ねえ、何で鳥人の女の子は翼をマントで隠しちゃうの? もったいないと思うけど」
「鳥人は肩が出た服を着なきゃならないから、まだこの季節、肌寒いし、肌を出していると、はしたないでしょ」
美羽は、鳥人の学生が制服にマントを定められている理由を答えた。
「あ、それならさ、マントの裾にレースを縫いつけたら、かわいいんじゃない?」
真希が無責任に言うと、美羽は、
「うちの学校、制服を改造した日には、中学から入学してきた子でも停学ものでしょ。わたしなんか、鎌倉の児童福祉施設から高校で中途入学してきた奨学生だもん、たちまち退学になっちゃう」
東和麗華学園の格式の高さを言い、
「わたし、そんなの嫌だし、そもそも路傍の石ころか目の前の空気みたいに目立たないまま卒業したいの」
「ふーん」
真希は、メガネのレンズを反射させて表情を隠しながらも、思惑がありそうに相づちを打った。
六本木五丁目交差点に面して建つオフィスビルの一棟が、外壁を修理するために足場が組まれている。その足場が、昨夜来の強風を受け、崩落を始めているのだった。
「近づくんじゃない!」
美羽の傍らを小学生低学年の兄弟が、無邪気に通り過ぎていく。
兄弟は、美羽が入学した
得体の知れない轟音は、ますます大きくなる。
美羽は作業着姿の男の目線を追うと、オフィスビルの全面を覆った単管パイプや踏み板が重みで黒いシートを引き裂き、通勤・通学でごった返した歩道へ凶器となって落下を始めていたのだった。
美羽の脳裏に濃紺のブレザーと半ズボンを着た幼い兄弟が、単管パイプで串刺しとなるか、単管クランプに体が大きくえぐられる光景がよぎった。
助けなきゃ、まだ、間に合う!
美羽は心の中で自らに命じた。
身長百七十五センチ、体重六十二キロという高校一年生の女子にしては大柄の美羽の瞳の色素がわずかに薄くなった。
鳥人の制服に義務づけられたマントの裾が大きく広がると、一対の巨大な黄金に輝く翼が羽音を上げて美羽の背に出現した。片翼だけでも身長の三倍はある。
交差点を行き交う雑踏がどよめいた。
美羽は弟と思われる男の子を背後から抱きしめると、大きく羽ばたいた。たちまちに男の子を抱きしめた美羽は、六本木の空へ飛翔した。
「マジ……かよ」
作業着姿の男が、まるで宇宙機の打ち上げのように大地から飛び立った美羽を見上げ、茫然としてつぶやいた。
美羽は男の子を抱きしめながら上昇を続けると、足場の損壊が想像以上で、完全に崩落するまで数秒しかないことが、素人目にも明らかだった。
「お兄ちゃん!」
美羽に抱きしめられ、急速に上昇する男の子は、歩道に取り残された兄を呼んだが、兄も訳が解らず立ち尽くしている。美羽は兄を見つめ、
もう一人は、とても……
自分の限界に唇をかみしめたそのとき、どこからともなくマントの裾から白銀の翼を広げた何者かが現れ、歩道に取り残された兄と思われる男の子と半瞬、向かい合い、美羽同様に抱きしめると、上空へ舞い上がった。
美羽のマントは濃紺だが、白銀の翼で飛翔する何者かのマントは
二人の鳥人は、ビルの屋上辺りで素早く翼を羽ばたかせ、滞空すると、足場はビルの外壁から剥ぎ取られるかのように低層部分を残し、完全に外苑東通りへ崩れ落ちた。
美羽は正対する白銀の翼で滞空する何者かを見つめたが、フードを深く被り、顔は
足場が崩れ落ちると、美羽と何者かは着地し、兄弟を放した。
美羽の薄くなった瞳の色素がすっと元通り茶色に戻る。
兄弟は、小山のように変わり果て、一部は歩道と車道を区切る柵を壊し、地面に突き刺さった足場の部材を目にするなり、泣き始めた。
美羽は、現場監督らしい作業着姿の男を見ると、スマホで110番通報を始めている。
白銀の翼をもつ者は、よほど顔を見られたくないのか、フードを被り直すと、美羽には何も語りかけず、再び六本木の空へと飛び去っていった。
「おい、何だってんだよ!」
突然に渋滞に巻き込まれたタクシーの運転手が、窓を開けて怒鳴っている。
激しい往来を塞がれ、六本木五丁目交差点は車道、歩道ともに渋滞が始まっている。
美羽は、一つ間違えば凄惨な光景が現れていたところを無言で回避したどころか、名も告げずに去っていった白銀の翼をもつ者の後ろ姿を目で追っていると、すぐに所轄の警察が出動し、交通規制、現場検証、事情聴取を始めた。
九死に一生を得た兄弟は泣き叫び、婦警がなだめているが、救急車の出動にまで及ばなかったのは幸いだった。美羽がほっと一息ついたそのとき、
「はーい、彼女、もう一度、翼広げてよ。目線、こっち。うーん、いいね、いいよ、朝日を受けてキラキラだね! あ、かわいいポーズもほしいな」
同じクラスになり、入学式の日から友人となった人間の
真希は身長百四十五センチ、体重三十八キロと小柄で、セミロングの髪を三つ編みにしている。エレガントなメガネをかけ、きちんとした身なりで、いかにもクラス委員長のイメージがあるが、美羽の見るところ実は相当に腹黒い。
わたしの動画など撮って、何に使う気でいるのか――
美羽は思わず舌打ちすると、はだけたマントを整え、東和麗華学園中高等部がある鳥居坂へ急いだ。真希は、慌てて美羽の後を追いながら、
「ねぇ、事情聴取に協力しなくていいの」
「用事があれば、警察の方からくるでしょ。あそこであれこれ聞かれて目立つの嫌なの」
美羽が人だかりになった事故現場をちらりと見遣って言った。真希は、
「あんた、本当に目立つの嫌いだよね。そのくせ、自分で目立つことやってさ。理解できない」
「ついよ、つい。真希だって、あの男の子たちが串刺しになって、歩道に打ちつけられる光景なんか見たくないでしょ」
「それはそれで、そのテのサイトに投稿するけどさ……」
真希はぼそりとつぶやいた。美羽はクラスメートの独り言が理解できずにきょとんとしていると、真希は美羽のマントの裾からはみ出た黄金に輝く
「ねえ、何で鳥人の女の子は翼をマントで隠しちゃうの? もったいないと思うけど」
「鳥人は肩が出た服を着なきゃならないから、まだこの季節、肌寒いし、肌を出していると、はしたないでしょ」
美羽は、鳥人の学生が制服にマントを定められている理由を答えた。
「あ、それならさ、マントの裾にレースを縫いつけたら、かわいいんじゃない?」
真希が無責任に言うと、美羽は、
「うちの学校、制服を改造した日には、中学から入学してきた子でも停学ものでしょ。わたしなんか、鎌倉の児童福祉施設から高校で中途入学してきた奨学生だもん、たちまち退学になっちゃう」
東和麗華学園の格式の高さを言い、
「わたし、そんなの嫌だし、そもそも路傍の石ころか目の前の空気みたいに目立たないまま卒業したいの」
「ふーん」
真希は、メガネのレンズを反射させて表情を隠しながらも、思惑がありそうに相づちを打った。