美羽の一番長い日1

文字数 8,240文字

 東和麗華学園中高等部の校地の一角にあるメモリアルチャペルからは、荘厳なパイプオルガンの演奏が聞こえている。
 穂積(ほづみ)美羽(みわ)は、下校の生徒で賑わう校舎から、一転して人気のないメモリアルチャペルへ入ると、会衆席にぽつんと座り、高等部の部長(校長)である醍醐(だいご)聡子(さとこ)が奏でる音色にしばし、耳を傾けた。
 メモリアルチャペルといっても、石像が並ぶ大聖堂のようなものではなく、クラス礼拝や聖書輪読会に使用される小さな特別教室、という位置づけである。
 正面には祭壇があり、左右のステンドグラスをとおして射し込む夕日が、美しい影を床に描き出している。こうした建物の用法上、ポジティフオルガンが入り口上方に設置されている。
 五分ほどの演奏が終わると、美羽は思わず拍手を送った。醍醐は演奏台から立ち上がると、美羽のすぐ傍らに座った。美羽は、
「聡子先生はオルガニストだったんですね、びっくりしました。何よりも、きれいな曲の譜面を丸暗記されていらっしゃって。何という曲なんですか?」
 醍醐は高等部の部長で、ウイングボール部の顧問であり、メモリアルチャペルのオルガニストと多才であることに美羽が目を丸くしていうと、醍醐は、
「ヨハン・セバスティアン・バッハの小フーガト短調、という曲です。わたしと妹は小さいときにこのクラシックを聴いて、オルガニストになることを考えましたが、結局は家業である学校法人の代表者になりました」
 自身の出自に触れたが、美羽が相談事がある、と思い詰めた表情で昼休みに部長室へ一人で現れたことを思い出し、
「それで、今日はどうしたの?」
 努めて親しい口調で尋ねた。高校生が相談事を持ちかける相手は、よほどのことならまず両親だが、美羽の場合は複雑な事情があるから、生活指導部へ足を運ぶだろう。それも飛び越えて、部長を放課後に人気のないメモリアルチャペルに呼び出すとは、よほどのことに違いなかった。
 醍醐がはっと息を呑み、
「まさか、ウイングボール部に関したこと?」
 東京都地区大会開始まで一週間もなく、今年こそ二回戦、三回戦進出を目指す東和麗華学園中高等部にとって、『黄金の女王』の称号をもつ美羽の存在は欠かせない。
 美羽は慌てて両手を振ると、
「ち、違います。実は、あの、わたし……正気ですから、聡子先生も真面目に聞いて下さいね」
 部員たちの顔を思い浮かべていった。聡子がうなずくと、美羽は意を決して、
「最近、おじいちゃんの幽霊を見るんです」
 醍醐を見つめていった。醍醐は目を丸くすると、
「最初は、中等部の部員たちの勘違いを知ってもらうために模擬戦を行った帰り、六本木の交差点近くで。次は深夜に学生寮の部屋で。そのときに祖父であることを確かめました。それからは頻繁におじいちゃんの幽霊を見るようになりました」
 美羽が記憶をたどりながらいい、
「あの、聡子先生はご存じですよね。わたしが両親を亡くした後、唯一の肉親であるおじいちゃんにも疎まれ、松本から鎌倉の児童ホームに移ったいきさつ……」
「ええ、おじいさまは幼いときに弟を鳥人に殺され、以来、鳥人を憎んでいた、ということですね。ところがお父さまが鳥人であるお母さまと結婚され、鳥人である穂積さんが生まれ、おじいさまとは疎遠になってしまった、穂積さんはこうした過去にこだわりを捨てきれない、ということでしたね」
 醍醐が鎌倉清風ホームの施設長の神野(じんの)(あまね)から、美羽を東和麗華学園高等部へ進学させてほしい、と幾度となく打診した際に聞かされていた美羽の生い立ちを思い出して答えた。美羽は、
「おじいちゃんが幽霊になっている、ということは、おじいちゃんは亡くなっている、そのまま鳥人であることを活かしたウイングボールをやっているわたしを責めている、ということですよね?」
 美羽は醍醐を見つめ尋ねると、言葉を継いだ。
「霊媒師みたいな人に大金を払って、おじいちゃんの慰霊をしなければならないのでしょうか? わたしがウイングボール部を辞めなければ、おじいちゃんは怨霊になってわたしは一生、呪われるのでしょうか?」
 美羽が怯えた目でいうと、醍醐は、
「まるで、以前に社会現象と呼ばれるほど大ヒットとなったホラー映画の世界に放り込まれたようね」
「どんな映画なんですか?」
「幽霊が見える男の子と小児心理学者の心の交流を描いた物語です。その劇中で、心理学者が男の子に幽霊の訴えに耳を傾ける義務を説いています。そこに男の子は希望を見つけるのです」
 醍醐がいうと、美羽は、
「おじいちゃんは何をいおうとしているのでしょうか? わたしがウイングボール部を辞めなければ、わたしや部員の誰かを傷つける、といおうとしているのでしょうか?」
「誰かを傷つける、ということなら、とっくに実行しているでしょう。でも、実際には穂積さんは他校のライバルと出会い、部内をまとめています。部長の恵礼那さんは人命救助に尽くしました。どれも素晴らしいことです」
 醍醐の言葉に、美羽は納得すると、
「実は、わたし、大手町の法律事務所に呼ばれていて……」
『おじいさまの件で』と弁護士に呼び出されていることを醍醐にいった。高校生一人を呼びつける法律事務所の弁護士に醍醐はいささか疑問を感じ、
「穂積さん一人ですか?」
「いいえ、神野先生もいらっしゃって下さいます」
 神野遍が同席すると聞き、醍醐はほっとし、
「おじいさまが遺言状のようなものをしたためているのでしょう。おじいさまの遺志がはっきりするはずです。どのような遺志であるかは解りませんが、感情的にならずにしっかりと受け止めて下さい」
 美羽の今後に大きく影響するであろう出来事を前に、確かめるようにいった。


 日が沈み始めても、東京駅から近い大手町は、激しい雑踏があふれている。
 美羽は皇居のお堀に面したオフィスビルに今井法律事務所を訪ねると、すぐに女性の事務員にパーティションで仕切られた応接スペースにとおされた。小柄で温厚そうな神野遍は既に鎌倉から到着していて、
「やあ」
 神野が小声で美羽にいうと、美羽もほっとして、ようやくに緊張した表情を緩めた。
 間もなく、三十歳前後でスーツ姿の女性が分厚い書類の束を抱え、
「お待たせしました」
 神野と美羽にいい、
 今井法律事務所 弁護士 羽村(はむら)由美(ゆみ)
 と印刷された名刺を差し出し、対座した。女性の羽村が担当となったのは、美羽を少しでも安心させる配慮からなのだろう。この応接スペースは四人掛けとして用意されている。羽村が座るや、羽村の隣に美羽の祖父の霊も腰を下ろした。
 美羽が思わず、いつも言いたいことを言わずに姿だけ現し、すぐにいなくなってしまう祖父の霊にちっと舌打ちをすると、
「それで、何の用?」
 用件を尋ねると、羽村は自分に問われたと勘違いし、
「穂積美羽さん、ですね? 失礼ですが学生証を拝見できますか?」
 慎重に美羽の身元を確かめた。
「あ、はい」
 美羽は言われるままに東和麗華学園の学生証を取り出し、羽村に見せた。女性事務員がコピーをすると、返却された。次いで住所、生年月日を確かめられた。羽村は美羽本人であると認め、
「穂積美羽さんの祖父、穂積(ほづみ)偉介(いすけ)さんは今年の四月一日に肺炎で亡くなりました。亡くなる直前に穂積偉介さんは唯一のご家族である穂積美羽さんを遺産相続人に指定されました」
 美羽を呼び出し、神野に立ち会いを求めた用件を告げた。美羽は、どうせ端金(はしたがね)かガラクタばかりであろうと思い、
「いくらよ?」
 祖父の霊を見ながらいうと、羽村は、
「銀行預金で三十億円です」
 途方もない金額を口にした。羽村にも神野にも偉介の霊は見えていないから、美羽が不機嫌になっていると思っている。神野は慌てて、
「待って下さい。穂積くんのおじいさまには借金はなかったのですか? 相続人は穂積くん以外はいないのですか? 何よりもおじいさまはどんな仕事をしていたのです? いくら何でも……」
 偉介に銀行預金を上回る借金があり、それを知らずに美羽が相続を承認すれば、美羽は莫大な借金も背負うことになる。また、美羽以外に相続人がいない、というのも解せない話だったし、普通ならば、年金暮らしの年齢の偉介に途方もない銀行預金があった、というのも信じかねた。羽村は、
「穂積偉介さんは松本で不動産業と観光業を営んでいました。それを亡くなる直前に全て売却しています。その売却益を現金にし、銀行に預けています。この現金は相続税を納付し、手続き費用を支払った後の金額なので、相続人が負担するものはありません。
 また、穂積偉介さんには美羽さんのお父さまと叔父さまがいらっしゃいましたが、どちらも亡くなられ、美羽さんが唯一の相続人、ということになります」
 東和麗華学園の学生寮に偉介の霊が現れる直前に、美羽が見た夢で、父が『会社は松川村の弟に継がせるんだな』と、祖父に怒鳴っていた。全てのつじつまが合っている。
 偉介の霊が頻繁に美羽の前に現れていたのは、美羽に相続を承認してほしかったのだろう。
 美羽は三十億円を手にできれば、学生寮を出て、マンションを買えるばかりか将来、奨学金の返済にも困らず、大学にも大学院にも進める。正に人生を買えることになる。
 美羽は、感心して偉介の霊を見た。目先の変化に態度を変える人物を『現金』と呼ぶが、先人はよく言ったものだ、と美羽自身が感じた。羽村は、
「ただし、穂積美羽さんが今すぐにこの銀行預金を使える、ということではなく、二十歳になる誕生日まで、神野遍さんが管理する、という条件付きです」
 神野に立ち会いを求めた事情を説いた。更に羽村は、
「もう一つ、穂積偉介さんから美羽さんにお渡ししたい、というものをお預かりしています」
 分厚い書類の束から古い絵本を取り出し、美羽の前に置いた。美羽は、
「えっ!」
 思わず、声を上げて、偉介の霊を見た。
 偉介の霊は美羽から目をそらせた。美羽の前に置かれた絵本のタイトルは、
 『黄金の女王』
で、著者は穂積偉介とあった。
「どうして……」
 鳥人を弟の仇として憎んでいた祖父が、過去に南米の英雄譚を執筆し、時のイラストレーターが美麗な作品を添えている。
 美羽は愕然として、黄金の巨大な翼を翻し、勇ましく飛翔する少女を描いたイラストを表紙とした絵本を手に取った。


 東和麗華学園高等部の部長の執務室で、美羽は聡子と一緒に昼食をとりおえると、昨日の大手町にある法律事務所での出来事を報告した。
 美羽についてきた真希も弁当箱を片づけ、偉介の著作である『黄金の女王』のページを繰りながら、
「鳥人を憎んで人生を送っていたはずの人が、鳥人の英雄物語を書いていた、ってのもミステリーだよね」
「そうだよね! 一体、何が起きているのか、わたしが説明してほしいよ!」
 美羽が訴えるように声を上げると、醍醐は、
「おじいさまは鳥人を憎むと同時に、鳥人を讃えていたのか、憎しみにあふれた自分の心に救いを求めていたのか……それだけでは自分の分身ともいえる著作を執筆し、出版までした説明にはなりません」
「むかしむかし、人間は鳥人と仲良く暮らしていました」
 真希が『黄金の女王』を音読し始めると、
「いや、声に出さなくていいから」
 美羽が恥ずかしそうに頬を赤くすると、
「いや、あんたを褒めているわけじゃないから」
 真希は美羽にいうと、偉介の遺作を読み進めた。

 鳥人は、背中に色も形もさまざまな鳥のような翼をもっています。
 ある小さな村にソレイユという鳥人の女の子が住んでいました。
 女の子が住む村はとても貧しく、誰も長生きできません。
 ソレイユのおねえさんも体が弱く、いつも寝て過ごしています。
 ある日、おねえさんはソレイユにいいました。
「十五歳になったら翼競争に出てみない?」
 ソレイユが暮らす村では、鳥人が一年に一度、三日間をかけて国中を飛び続け、優勝した者には、村の代表として国の話し合いに参加できる、翼競争というものがありました。
 やがて、おねえさんは亡くなりましたが、ソレイユはおねえさんの言葉を覚え続けていました。
 ソレイユは十五歳になったとき、それまで小さかった背は伸び、翼も大きくなり、羽の一枚一枚も黄金に輝いていました。
 おねえさんが期待したとおり、翼競争に参加できるまでに成長していたのです。
 でも、そこは翼自慢の女の子たちが集まり、戦う場所でした。
 特に白い翼の子はとても強く、黄金の翼のソレイユと接戦を続けます。
 山々が続く谷底を、
 向かい風が吹きつける荒野を、
 霧でろくに前も見えない高原を、
 荒い波が押し寄せ、誰もがしぶきでずぶぬれになる海の上を、
 女の子たちは羽ばたき続けます。
 自分の、家族の願い事をかなえるために。

「翼競争はウイングボールで、ソレイユは美羽、白い翼の女の子は就学園の(かけい)美雪(みゆき)さんがモデルだと考えると、しっくりくるけど」
 そういいながら真希は、奥付を見ると、五十年前の出版で、偉介が二十五歳前後の作品ということに気づいた。美羽も美雪も生まれていないどころか、二人の両親すらこの世にいない。もはや、偶然の一致以外に考えられなかった。
「ソレイユって何ですか?」
 美羽が醍醐に尋ねると、醍醐は、
「フランス語で太陽、という意味です。ルイ十四世のあだ名として用いられ、バレエの題材に取り上げられています」
 相変わらずの博識で説明すると、真希は笑い出した。美羽は、
「わたしが太陽だのルイ十四世だのいってるわけじゃない」
 クラスメートをにらんでいうと、醍醐は、
「穂積偉介さんが二十五歳前後でこの物語を書いていたのなら、正に文学青年だったわけですね。物語を書ける人が不思議で、うらやましい」
 オルガニストになり損ねた、と自分の過去を思い返していうと、
「楽器が演奏できる人も不思議ですが」
 美羽はぼそりと呟いた。
 他人を傷つけようとしていたのではないし、美羽にウイングボール部を辞めさせようとしているわけでもないことが解ったのは幸いだったが、いろいろと聞いてみたいことがあるときは、偉介の霊は美羽の前に現れない。
「わたしからおじいちゃんに直接、尋ねることはできないものでしょうか?」
 美羽がもどかしい思いでいうと、真希は、
「霊媒師を雇って、おじいさんの霊を呼び出すとか? やめなよ、ボられるのが関の山だって。でもさ」
 口調を変えて言葉をつぎかけた。醍醐は、
「園田さん、いってみて下さい」
 真希に先を促した。真希は、美羽の黄金の翼をちらりと見ると、 
「そもそも、おじいさんの弟さんが鳥人に殺された云々の話、本当なのかな? だっておかしいよ、鳥人に身内を殺されたって人が、鳥人の英雄伝説を著すなんて」
 疑問を口にすると、美羽は、
「だって、おじいちゃんとお父さん、それでケンカし続けていたんだよ」
 当然のことのようにこたえると、醍醐は、
「穂積さん、十五年間、自分が背負い続けていたものと向き合う覚悟はありますか?」
 美羽に問うた。


 六本木通りに面して、一階にはコンビニが入ったオフィスビルの二階にアテーナ司法書士事務所を美羽は見つけた。
 アテーナとは知恵、芸術、工芸、戦略を司るオリュンポス十二神の一柱であるアルテミス、ヘスティアと並んでアプロディーテの神力を及ばさないギリシャ神話の三大処女神として著名である。
 大層な名を冠した司法書士事務所であったが、ここに美羽の祖父、穂積偉介が永年、口にし続けていた、鳥人が弟を殺した云々の真実があるというのだろうか……
 美羽は真実を知ることへの恐れとともに事務所へ入る自動ドアの前に立つと、すぐに開き、二十半ばの女性事務員が応対に立った。美羽は、
「……あの、わたし、東和麗華学園高等部の穂積と申します。聡子……醍醐先生の指示で大島さんを訪ねるようにと」
 来意を告げると、パーテーションで区切られた応接室にとおされた。
大手町の今井法律事務所を訪ねたときとは異なり、美羽一人きりで緊張した。
 女性事務員が茶を運んで退室すると、入れ違いに大島と思われる、高級スーツに身を包んだ五十歳後半の白髪が目立つ痩身の紳士が、応接室に入って来て、
 アテーナ司法書士事務所 所長 大島 太輔
 と印刷された名刺を差し出し、
「大島と申します。醍醐先生にはいつもお世話になっています。よろしくお願いします」
 大島は美羽を小娘と侮らず、醍醐の意を受けた大切な顧客として扱った。美羽は今ひとつピンとくるものがなく、
「……あの、それで、わたしのおじいちゃん……いえ、穂積偉介が幼い頃、弟が鳥人に殺されたという話の真偽が解る術が、この事務所にあるのでしょうか?」
 美羽は首を傾げながら尋ねると、大島は、
「いえ、当方ではおじいさまの弟さまのお名前と亡くなられた月日をお調べするまでを醍醐先生から承っております。失礼ですが、穂積さまはおじいさまの弟さまのお名前は、ご存知ではいらっしゃらないのですね?」
 鳥人と生まれたばかりに、祖父からよく見られるはずはなく、墓参りどころか名前など教えてくれるはずもなく、美羽はうなずいた。大島は、
「そこで穂積さまの戸籍を四代前までさかのぼって、おじいさまのご両親、兄弟姉妹のお名前をお調べいたします。その上で、穂積さまには松本市の公立図書館でおじいさまの弟さまの死亡記事を探し出し、亡くなられた際のご事情をご確認いただく、という流れになります」
 美羽にとってはあまりに途方もない話で、愕然とした。大島は言葉を継いだ。
「まず、四代前までの戸籍をお調べするのは、当事務所でやらせていただきます。最近は家系図をつくってみたい、というお客さまも多く、戸籍謄本の交付申請を司法書士事務所が代行することは珍しいことではありません。幸い、今回は穂積さまのおとうさまの家系ですから比較的、簡単と思われます。
 父方の先祖が記載されている戸籍をさかのぼって、本籍地がある役所に請求していきます。このとき苗字を基本としてさかのぼっていきますが、必ずしも同じ苗字とは限りません。
 例えば、曾祖父が他家より養子に入っている場合があります。この場合、曾祖父の養父の戸籍を請求することになります。当然、曾祖母と同じ苗字になっているはずです」
 大島が『幸い、今回は穂積さまのおとうさまの家系』といったのは、調べるのが母方の家系ならば、嫁として父方の戸籍に入るため、先祖が国際結婚をしていたら、本籍地まで調べにいかなければならず、戸籍法を明治から実施している日本とは事情が異なることもあり、事実が藪の中になってしまうこともある。大島は更に言葉を重ねた。
「また、戸籍を請求する場合、戸籍筆頭者名の記載が交付書に必要となりますが、直系尊属が必ずしも戸籍筆頭者や戸主と合っていない場合があります。
 例えば、直系尊属である親が隠居して、子が直系卑属か戸主となっている場合があるからです。このように四代の家系をさかのぼるだけでもさまざまなケースにぶつかります。専門とする者にお任せいただくのが、はるかにお客さまの利便を図れることになるのです」
 醍醐が大島を頼るよう、美羽に指示した理由がようやくに解った。美羽が理解してうなずくと、大島は既に書式化された委任状を差し出し、美羽に署名、捺印するよう促した。
 美羽は言われるままに住所、氏名を記入し、先ほど百円均一ショップで買ってきた認印をぽつりと()いた。
 祖父は七十五歳で肺炎で急逝しているから、『幼いとき』の出来事といえば、七十年近くも昔の話で、はるか過去の真実に触れようとしていることを、美羽は改めて実感した。
 怖い……七十年前にどんな真実があるのだろう、それを知ったとき、自分はどうなるのであろう、正気を保っていられるのか、あるいは気が触れてしまうのだろうか――認印をもつ美羽の手ががたがたと震えた。
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