第97話 辻沢の残留思念

文字数 3,040文字

「来るぞ」
 ヘルメット男の怯えた声と同時に背中に悪寒が走った。石室の温度が4度下がったように感じた。ヘルメット男が墓石の壁に張り付いたのを見て鈴風がまずそれに並んだ。それから冬凪と顔を合わせながら鈴風たちを正面に見て同じようにした。
 それはすぐにやって来た。砂地が沸き立つようにざわざわし出したと思ったら、石室の真ん中の地面から頭が浮き出てきたのだ。黒髪は乱れ、顔は鈍色、カッと見開いた眼は金色で、真紅の唇を破って4本の銀牙が突き出し血泡を吹いていた。それは屍人の顔だとすぐにわかった。ついで首、痩せた肩、さらに死衣をはだけた両の乳には赤子が喰らいついていた。
「遊女宮木野。赤子は後の宮木野と志野婦だ」
 ヘルメット男が抑えた声で言った。十六夜と調べた遊女宮木野の来歴を思い出す。戦国時代、名妓と謳われた遊女宮木野は見受けされてすぐ世に跋扈していたヴァンパイア集団に襲われ殺されてしまう。一旦は粗末な墓に埋めらたけれど、宮木野が身重だったことを不憫に思ったタニマチの一人が埋葬し直そうと墓を掘り起こした。すると宮木野は屍人となっていて墓の中で産み落とした双子を胸に抱いて乳を飲ませていた。その双子が母の名を襲った宮木野とその妹志野婦だった。目の前の情景はまさにそのことをなぞっていた。
「どんどん大きくなっていく」
 双子は見ているうちに母親の胸の上で急成長していっていた。最初は弱々しく見えたのに、いつのまにか首も座って乳にむしゃぶりつくようになった。体もどんどん大きくなってやがて母親の胸元を離れると自分の足で立った。そして宮木野と志野婦の面影がある双子は手を固く握り合うとあたしたちが通ってきたトンネルをくぐり外へ出て行ったのだった。
 その姿を目で追ってふたたび石室を振り返ると、そこにはもう母宮木野の姿はなくなっていた。しばしの静寂の後、それまで一滴一滴天井に滴り上がっていた乳白色の液体が、夕立の雨のように降り上がって天井の水面を打ちだした。それは雨筋のカーテンを引いたように鈴風たちの姿が見えなくなるほどの激しさだった。しばらく経つと石室に響く雨音がだんだん弱まり、水滴に戻ったころには天井の水溜りは乳白色でなくなって透き通った水面に変わっていたのだった。それは逆さに見る鏡のようでいて、葦が生えるうら寂しげな水辺の景色を映していた。
 見上げるうち鏡の中から赤子の鳴き声が聞こえてきた。それは葦原の中をこちらに向かって近づいているようだった。水面に面した葦が揺れてそこから女の人が現れた。髪を振り乱し、浴衣の前をはだけて乳を晒した胸に赤子を抱いていた。露わになった腰から下は血まみれで、つい今しがた産み落としたんじゃないかという様子だった。その泣き叫ぶ赤子の口に白い牙が見えた。赤子は鬼子だった。
「生前の遊女宮木野。赤子は後の初代夕霧太夫だ」
 ヘルメット男が言った。
 夕霧を抱いた宮木野は、屍人の時よりもずいぶんと若い感じがした。ワンチャン、あたしたちと同じくらいかも。でもこんな寂れたところに赤ちゃんを連れて何をしに来たんだろう。そう思ってる間に、若い母宮木野は赤子を抱いたまま淀んだ水の中に進み出し腰まで浸かる深さの所まで来ると、その場でゆっくりとしゃがんだ。そして赤子を胸から離し水に浸すとその顔をじっと見つめ、一気に水中に沈めたのだった。赤子の命を請う声が泡となって水面に浮き上がってくる。それはママ苦しいよ、助けてよと懇願してしるようだ。それでも宮木野は赤子を水から引き上げようとしない。宮木野はきっと何かに責め立てられて仕方なくそうしているんだ。あんなに憔悴しているのはそのせいだ。そうでも思わないとこの鬼畜の所業を理解することはできなかった。
 その後も宮木野は赤子の最期を目に焼き付けるかのように水の中にいる失われゆく命をじっと見つめていた。それも束の間、水底から断末魔が浮いてきて弾け、水面を真っ赤に染めた。それが徐々に淀み全体に広がってゆく。宮木野がおもむろに立ち上がると、その腕には赤子の姿はなかった。宮木野はそのまま岸に上がり振り返りもせずに葦の中に消えたのだった。すると、天井の血の淀みから石室に赤い雨が降り注ぎ出した。それは次第に大降りになり視界を真っ赤に遮るほどになったけれど、やがて小降りになってさっきと同じように一筋の雫になった。ただその雫は上から下に滴り、その軌跡は赤い糸のようだった。
 屍人と若い母宮木野。何を見せられたのかよくはわからなかったけれど、それはきっと辻沢の残留思念を目の当たりにしたということのようだった。
 ヘルメット男が石室の真ん中に進み赤い雫の一つに触れて言った。
「さあ、エニシの切り替えを始めるんだ」
 どうやるのか聞こうとしたけれど半ギレの冬凪が制して、
「どうしてそれが必要か言って」
 滅多なことでキレたりしない冬凪が一旦そうなったらミユキ母さんだって怯む。だからヘルメット男もたじたじで、
「わ、分かった。落ち着け」
 と一言はさんでから説明を始めた。
「ここに来るまでに巨大な樹を見ただろう。どうなっていた?」
「枯れてた」
 あたしは見てきたままを言った。白骨のような枝と太い幹。大量の枯れ葉がその周りを埋め尽くしていた。
「そうだ。枯れて久しい。あの樹が何か分かるか?」
 冬凪が鈴風とあたしの顔を見て答えが出なさそうなのを察して、
「もしかして辻沢を支えている樹?」
 と質問で返した。
「辻沢だけではない。この世界を支えている樹だ。いや、世界樹だったと言うべきか」
 世界樹が枯れたのは、トラギクたち六道衆が別の世界樹を建てようとしているからだと言った。
「辻沢では数十年に一度、両手にエニシの糸を持つ特別な鬼子が生まれる。この前は夕霧太夫や野太クロエ、藤野ミユキ、小宮ミユウたちだった。彼女らには特別な役目があった。そして前園十六夜、藤野冬凪と夏波。お前たちも両手にエニシの糸を持つ」
 そう言われて自分の両手の薬指を見てみた。右手の薬指を見ると赤い糸が見えていたけれど、その先はかすんで見えなかった。もう片方を見てみたけれど、左手にはエニシの糸どころか薬指すらなかった。
「つまりお前たちはすべき事があるということだ。ところが肝心のエニシの要である前園十六夜がいない。エニシに繋がれた3人が揃わねば役目を果たすことができない。だからエニシの切り替えをする」
 言い終えるとヘルメット男は鈴風を近くに呼び寄せた。
「お前が十六夜の代わりになるんだ。まず、左手をこの雫に浸せ」
 鈴風は言われたとおりに赤い糸のように天井から滴る雫に自分の左の薬指を浸した。次に呼ばれたのは冬凪で、
「お前はこっちの雫に右手を」
 言い終わらないうちに冬凪はヘルメット男の近くの雫に近づいて右手の薬指を浸した。
「それでどうすればいいの? 呪文とか唱える?」
 ヘルメット男がその質問に答えるより先に、それは始まった。冬凪と鈴風の薬指が浸された雫が重力に逆らって歪み、それぞれの薬指に引き寄せられ始めたのだ。そしてそれが空中で繋がると、鈴風と冬凪は電撃に打たれたように痙攣を始め、
「「ギャーーー」」
 聞いたことが無い叫び声を上げたかと思うと倒れ伏してしまったのだった。
「「冬凪! 鈴風!」
 あたしは折り重なった二人のところに駆け寄った。
「触るな!」
 ヘルメット男の一括に足が止まる。
「未然で触れれば死ぬぞ」
 切り替えが済む前に触れたら二人の命はないと言ったのだった。
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