第71話 薬指の約束
文字数 3,461文字
紫子さんは親戚に接するようにあたしを迎えてくれた。玄関の中は広めの土間になっていて、御座に緑の粒が山のように積んである。それが10いくつ。強い山椒の香りを放っていた。
「クロエちゃんは何年振りになる?」
「うーんと」
覚えてなさそう。
「上がって」
「「「お邪魔します」」」
座敷にあがらせてもらった。山椒農家ってどこもそうなのか、蘇芳ナナミさんの家と作りが同じだった。だだっ広い座敷に囲炉裏、天井にはぶっとい梁が渡してある。その上はやっぱり暗闇。
紫子さんが、
「クロエちゃんが来ること皆に知らせたら今朝釣ったアマゴを持って来てくれた人がいてね。それ塩焼きにしたから食べて」
そういえばメッチャいい匂いしてる。思い出したように食欲が反応して冬凪とあたしのお腹が合唱を始めた。
「そんなに?」
言ってるクロエちゃんのお腹も鳴ってるから。
「アマゴって清流の女王と言われててすごく貴重でとっても美味しいんだよ」
冬凪が教えてくれた。配膳のお手伝いをしながらも我慢出来なくなってよだれたれそうになった。
「「「いただきます」」」
生まれて初めて食べるアマゴは、
「ぜっふぃん(絶品)」
どころではなかった。ホクホクの身にちょうどよい塩加減。これまで食べたお魚の中で一番、いや、生涯かけてこれ以上のお魚は食べられないんじゃないかってくらい美味しかった。大袈裟でなく。それと山椒粒の佃煮掛けた白飯。合いすぎて、死ぬ。
たらふく食った。眠くなったけど初めて来たお宅で昼寝はまずいと思って我慢した。
「あれ見せてあげたら?」
紫子さんがクロエちゃんに言った。
「そうだね。もう知ってることだし。ね、夏波」
ね、とはよ。
あたしは冬凪に何のことかと目で確認したけれど、冬凪にも分からないようだった。
「じゃあ、見に行こう。夏波の変態っぷりを」
廊下を歩きながらクロエちゃんが前世のあたしは変態だったと言った。
「おかげであたし達は地獄に行くことができたんだけどね」
言ってる意味が全く分からなかった。
「ここがその変態が使っていた部屋だよ」
襖を開けると6畳の部屋だった。そこに文机が一つと、紙本が並んだ本棚が一つ。特に変態っぷりは感じさせない設えだ。部屋に入ると冬凪が、
「これって石畳の」
といって右手の壁を見上げていた。見ると壁には沢山の図面が貼られていた。その中の一番大きいものは集合体恐怖症の人が見たら失神しそうな模様で、何かがびっしりと敷き詰められていた。
「これをあの子は全部手で描いた」
まじか! 草間彌生真っ青の執念を感じさせた。つまり前世のあたしは図面フェチだったのだ。味気ない図面のどこに魅力があるのか。それゃあ変態って言われても仕方ない。
「変態ってのは半分冗談なんだけど」
とクロエちゃんは天井を指さしている。見上げると天井の半分は締める大きさの図面が貼られてあった。冬凪が、
「これって鬼子神社の?」
それはどう見ても和船の断面図だった。喫水線の部分から上が鬼子神社の空祭壇の間から上の部分、下が中板間と船底の部分だった。
「そう。エニシに集められたあたしたちは、これに乗って地獄に行った」
鬼子神社のすり鉢を抜けて石畳の参道を滑り降り鳥居をくぐったらその向こうは地獄だった。クロエちゃんたちにとって、それは次元を越える体験だったのだそう。それを聞いてあたしはミワさんと交わした誓いのことを思い出した。ミワさんとまゆまゆさんたちを会わせるため次元を結ばなければならない。
「じゃあ、夏波やあたしもこれに乗ったら次元を越えられるのかな」
冬凪も同じ事を思ったらしかった。
「それがね」
クロエちゃんは残念そうに、
「これが使えたのは一度きりだったんだよね」
他にも地獄から連れ帰りたい人がいたのだけれど二度目に試したらまったく動かなかったらしい。エニシは、その時その時で自分たちの方法を見つけ出すことを強いるのだそう。
次元を結ぶ方法をここに探しに来たわけではなかったけれど、それこそ渡りに船と飛びついてしまったので、無駄にがっかりした。
「自分で探さなきゃなんだね」
冬凪があたしを見て言った。
「何かあるの?」
クロエちゃんに聞かれて、ミワさんのことを話そうかとも思ったけれど、それをするには白黒のまゆまゆさんのこととか、まだ知られていいかわからないことが多すぎた。だから今もっともホットな話題の、
「ユウさんのこと」
と応えた。ただ、ユウさんが何処にいるかなんてあたしには想像も付いていなかったのでほんの急場しのぎのつもりだった。けれどもクロエちゃんは、
「そうだね。ユウはもうこの世にいないから」
と、とんでもないことを言ったのだった。
「どういうこと?」
あたしに問い詰められて、
「あ、口止めされてたんだった」
もう遅いよ、クロエちゃん。
ユウさんは、鬼子全体に起きている一大事を解決するためにあの世に渡ってしまったのだった。それがどんな問題か、クロエちゃんもミユキ母さんもよくは知らないらしい。ユウさんはある日、どこへとも言わずに、
「ちょっと行ってくる」
とだけ連絡してきた。心配になったミユキ母さんが調べてみると、
「鬼子神社にこれが残されてた」
とポケットの中からポリパックを出して見せた。その中にはガーゼに包まれた何かが入っていて、ガーゼには赤いシミがべっとりと付いていた。
いやな予感がした。夕霧物語の場面を思い出したからだった。
―――
「伊左衛門は、いるかえ」
夕霧太夫の寂しげな声がした。
「はい、太夫。ここに控えてございます」
「こっちへ、おいで」
夕霧太夫が日々生活する部屋にはなんぴともそこを開けてはならない隠し戸がある。ただ、夕霧太夫のお呼びがあった時だけは中に入ることが許される。年に一度あるかないかの僥倖。それが今だった。伊左衛門は打ち震えながら隠し戸を開けてにじり入る。
中は十畳ほどの広さ。調度はすべて黒檀で、落ち着いているが凛とした空気が漂っていた。部屋の中央に青白い月光が差し込んでいる。外戸が開け放たれているのだ。見ればその月影に夕霧太夫のお姿が染め抜かれている。夕霧太夫は欄干に凭れて夜の景色を眺めていたのだった。
もともとこの世の者とは思えぬ夕霧太夫の横顔を、冬の月がいっそう凄惨に映して美しい。
「伊左衛門、近こう」
太夫は伊左衛門を側に呼んだ。
「はい、太夫」
伊左衛門が太夫の足下ににじり寄ると、
「伊左衛門や、あたしはもうじき死にます」
と夕霧太夫は寂しそうに言われた。
「そんな」
伊左衛門は二の句を告げぬまま、嗚咽した。これまで夕霧太夫のお言葉は必ずそうなった。伊左衛門が水際に打ち上げられて藻屑のように横たわっていた時も、
「この者をあたしの部屋へ連れて行く」
と言って本当になった。だからきっとご自分のお命のこともまた、かならずやそうなるのだ。
「あたしが死んでひと月たったらむくろを掘り起こし、きっと辻沢にある青墓の杜に連れて行っておくれ」
辻沢という場所は知らなかったが、青墓の名なら聞いたことがあった。この宿場の太夫の中にも青墓出の方がおられるし、禿仲間のひいらぎも青墓から流れてきたそうだ。一つ不安があった。
「仰せの通りに。ただ、伊左衛門は辻沢への行き方がわかりませぬ」
夕霧太夫はその慈しみ深い目を伊左衛門に向けて、
「ならば、これを」
と言うと右の薬指を咥え、強く噛みしめた。
夕霧太夫の口の中で、
ゴリ
と音がして、口の端から生血がしたたり落ちる。伊左衛門が慌てて懐紙を差し上げると、夕霧太夫はもう一方の手で懐紙を取り、咥えた方の手を口から離してそれで押さえた。そして伊左衛門に掌を出すように促すと、その上に何かを吐き出した。
指だった。
夕霧太夫の口元から赤い糸を引いて、血に染まった薬指が伊左衛門の掌の上に乗っていた。
「伊左衛門や、それをお持ちやれ。さすればきっと迷いなく着ける」
伊左衛門は月を背にした夕霧太夫の影にひれ伏し、その薬指を恭しく頂いた。
夕霧太夫は満足そうに頷くと、懐紙に口の中の生血を吐き出し、再び欄干に凭れ掛かって夜空を仰ぎ見た。そして、
「エニシの月よ」
と歌うように言ったのだった。
―――
「それは何なの?」
恐る恐るクロエちゃんに聞いてみた。
「ユウの薬指だよ。あの子、これで二度目」
やっぱりだった。エニシの赤い糸が繋がった薬指をこの世に置いて行く。それが何を意味するのか、その時のあたしには全く分からなかったけれど、それが相当な決意のもとになされたことだけは分かったのだった。
「クロエちゃんは何年振りになる?」
「うーんと」
覚えてなさそう。
「上がって」
「「「お邪魔します」」」
座敷にあがらせてもらった。山椒農家ってどこもそうなのか、蘇芳ナナミさんの家と作りが同じだった。だだっ広い座敷に囲炉裏、天井にはぶっとい梁が渡してある。その上はやっぱり暗闇。
紫子さんが、
「クロエちゃんが来ること皆に知らせたら今朝釣ったアマゴを持って来てくれた人がいてね。それ塩焼きにしたから食べて」
そういえばメッチャいい匂いしてる。思い出したように食欲が反応して冬凪とあたしのお腹が合唱を始めた。
「そんなに?」
言ってるクロエちゃんのお腹も鳴ってるから。
「アマゴって清流の女王と言われててすごく貴重でとっても美味しいんだよ」
冬凪が教えてくれた。配膳のお手伝いをしながらも我慢出来なくなってよだれたれそうになった。
「「「いただきます」」」
生まれて初めて食べるアマゴは、
「ぜっふぃん(絶品)」
どころではなかった。ホクホクの身にちょうどよい塩加減。これまで食べたお魚の中で一番、いや、生涯かけてこれ以上のお魚は食べられないんじゃないかってくらい美味しかった。大袈裟でなく。それと山椒粒の佃煮掛けた白飯。合いすぎて、死ぬ。
たらふく食った。眠くなったけど初めて来たお宅で昼寝はまずいと思って我慢した。
「あれ見せてあげたら?」
紫子さんがクロエちゃんに言った。
「そうだね。もう知ってることだし。ね、夏波」
ね、とはよ。
あたしは冬凪に何のことかと目で確認したけれど、冬凪にも分からないようだった。
「じゃあ、見に行こう。夏波の変態っぷりを」
廊下を歩きながらクロエちゃんが前世のあたしは変態だったと言った。
「おかげであたし達は地獄に行くことができたんだけどね」
言ってる意味が全く分からなかった。
「ここがその変態が使っていた部屋だよ」
襖を開けると6畳の部屋だった。そこに文机が一つと、紙本が並んだ本棚が一つ。特に変態っぷりは感じさせない設えだ。部屋に入ると冬凪が、
「これって石畳の」
といって右手の壁を見上げていた。見ると壁には沢山の図面が貼られていた。その中の一番大きいものは集合体恐怖症の人が見たら失神しそうな模様で、何かがびっしりと敷き詰められていた。
「これをあの子は全部手で描いた」
まじか! 草間彌生真っ青の執念を感じさせた。つまり前世のあたしは図面フェチだったのだ。味気ない図面のどこに魅力があるのか。それゃあ変態って言われても仕方ない。
「変態ってのは半分冗談なんだけど」
とクロエちゃんは天井を指さしている。見上げると天井の半分は締める大きさの図面が貼られてあった。冬凪が、
「これって鬼子神社の?」
それはどう見ても和船の断面図だった。喫水線の部分から上が鬼子神社の空祭壇の間から上の部分、下が中板間と船底の部分だった。
「そう。エニシに集められたあたしたちは、これに乗って地獄に行った」
鬼子神社のすり鉢を抜けて石畳の参道を滑り降り鳥居をくぐったらその向こうは地獄だった。クロエちゃんたちにとって、それは次元を越える体験だったのだそう。それを聞いてあたしはミワさんと交わした誓いのことを思い出した。ミワさんとまゆまゆさんたちを会わせるため次元を結ばなければならない。
「じゃあ、夏波やあたしもこれに乗ったら次元を越えられるのかな」
冬凪も同じ事を思ったらしかった。
「それがね」
クロエちゃんは残念そうに、
「これが使えたのは一度きりだったんだよね」
他にも地獄から連れ帰りたい人がいたのだけれど二度目に試したらまったく動かなかったらしい。エニシは、その時その時で自分たちの方法を見つけ出すことを強いるのだそう。
次元を結ぶ方法をここに探しに来たわけではなかったけれど、それこそ渡りに船と飛びついてしまったので、無駄にがっかりした。
「自分で探さなきゃなんだね」
冬凪があたしを見て言った。
「何かあるの?」
クロエちゃんに聞かれて、ミワさんのことを話そうかとも思ったけれど、それをするには白黒のまゆまゆさんのこととか、まだ知られていいかわからないことが多すぎた。だから今もっともホットな話題の、
「ユウさんのこと」
と応えた。ただ、ユウさんが何処にいるかなんてあたしには想像も付いていなかったのでほんの急場しのぎのつもりだった。けれどもクロエちゃんは、
「そうだね。ユウはもうこの世にいないから」
と、とんでもないことを言ったのだった。
「どういうこと?」
あたしに問い詰められて、
「あ、口止めされてたんだった」
もう遅いよ、クロエちゃん。
ユウさんは、鬼子全体に起きている一大事を解決するためにあの世に渡ってしまったのだった。それがどんな問題か、クロエちゃんもミユキ母さんもよくは知らないらしい。ユウさんはある日、どこへとも言わずに、
「ちょっと行ってくる」
とだけ連絡してきた。心配になったミユキ母さんが調べてみると、
「鬼子神社にこれが残されてた」
とポケットの中からポリパックを出して見せた。その中にはガーゼに包まれた何かが入っていて、ガーゼには赤いシミがべっとりと付いていた。
いやな予感がした。夕霧物語の場面を思い出したからだった。
―――
「伊左衛門は、いるかえ」
夕霧太夫の寂しげな声がした。
「はい、太夫。ここに控えてございます」
「こっちへ、おいで」
夕霧太夫が日々生活する部屋にはなんぴともそこを開けてはならない隠し戸がある。ただ、夕霧太夫のお呼びがあった時だけは中に入ることが許される。年に一度あるかないかの僥倖。それが今だった。伊左衛門は打ち震えながら隠し戸を開けてにじり入る。
中は十畳ほどの広さ。調度はすべて黒檀で、落ち着いているが凛とした空気が漂っていた。部屋の中央に青白い月光が差し込んでいる。外戸が開け放たれているのだ。見ればその月影に夕霧太夫のお姿が染め抜かれている。夕霧太夫は欄干に凭れて夜の景色を眺めていたのだった。
もともとこの世の者とは思えぬ夕霧太夫の横顔を、冬の月がいっそう凄惨に映して美しい。
「伊左衛門、近こう」
太夫は伊左衛門を側に呼んだ。
「はい、太夫」
伊左衛門が太夫の足下ににじり寄ると、
「伊左衛門や、あたしはもうじき死にます」
と夕霧太夫は寂しそうに言われた。
「そんな」
伊左衛門は二の句を告げぬまま、嗚咽した。これまで夕霧太夫のお言葉は必ずそうなった。伊左衛門が水際に打ち上げられて藻屑のように横たわっていた時も、
「この者をあたしの部屋へ連れて行く」
と言って本当になった。だからきっとご自分のお命のこともまた、かならずやそうなるのだ。
「あたしが死んでひと月たったらむくろを掘り起こし、きっと辻沢にある青墓の杜に連れて行っておくれ」
辻沢という場所は知らなかったが、青墓の名なら聞いたことがあった。この宿場の太夫の中にも青墓出の方がおられるし、禿仲間のひいらぎも青墓から流れてきたそうだ。一つ不安があった。
「仰せの通りに。ただ、伊左衛門は辻沢への行き方がわかりませぬ」
夕霧太夫はその慈しみ深い目を伊左衛門に向けて、
「ならば、これを」
と言うと右の薬指を咥え、強く噛みしめた。
夕霧太夫の口の中で、
ゴリ
と音がして、口の端から生血がしたたり落ちる。伊左衛門が慌てて懐紙を差し上げると、夕霧太夫はもう一方の手で懐紙を取り、咥えた方の手を口から離してそれで押さえた。そして伊左衛門に掌を出すように促すと、その上に何かを吐き出した。
指だった。
夕霧太夫の口元から赤い糸を引いて、血に染まった薬指が伊左衛門の掌の上に乗っていた。
「伊左衛門や、それをお持ちやれ。さすればきっと迷いなく着ける」
伊左衛門は月を背にした夕霧太夫の影にひれ伏し、その薬指を恭しく頂いた。
夕霧太夫は満足そうに頷くと、懐紙に口の中の生血を吐き出し、再び欄干に凭れ掛かって夜空を仰ぎ見た。そして、
「エニシの月よ」
と歌うように言ったのだった。
―――
「それは何なの?」
恐る恐るクロエちゃんに聞いてみた。
「ユウの薬指だよ。あの子、これで二度目」
やっぱりだった。エニシの赤い糸が繋がった薬指をこの世に置いて行く。それが何を意味するのか、その時のあたしには全く分からなかったけれど、それが相当な決意のもとになされたことだけは分かったのだった。