第44話 回復の兆し

文字数 3,502文字

 十六夜の部屋の扉の前で中に入れずにいたあたしの背中を押してくれたのは冬凪だった。
「大丈夫。あたしがついてる」
「ありがとう」
 冬凪に付いてきて貰って本当によかった。昨日の夜、高倉さんから連絡を貰ったとき、最初は一人で来るつもりだった。でもその選択はよくないことだと心の底の声が言っていたから冬凪の部屋をノックしたのだった。冬凪とあたしは一緒でなければダメだから。
 部屋の中は、前に連れてこられた時よりもガランとしていた。あたしが寝かされていたお姫様ベッドがなかった。十六夜の勉強机やモニター類もなかった。主のいない寝室は控え室のような地位におとしめられていた。
「こちらです」
 高倉さんがVR部屋に案内してくれた。扉が開くと薄暗く沢山の医療機器に囲まれたVRブースがあった。あの中に獣姿の十六夜がいる。沢山の管でがんじからめにされ、その一つは非情にも十六夜の玉の緒を絞り尽くす瀉血管なのだ。
「十六夜?」
 冬凪がVRブースの脇に跪いて十六夜の姿に見入った。
「夏波が言ってたのと違う」
 違う? あたしは冬凪の肩越しにVRブースの中を覗き込んだ。入院服を着ていた。医療用の管が体中に繋がれていた。二の腕の金属の拘束具から瀉血管が伸びていた。あたしには違うところがわからなかった。
「どこらへん?」
「顔だよ。鬼子の顔をしてない」
 顔色は獣のそれではなかった。酸素マスクの中に銀色の牙は見えなかった。高倉さんに許可をもらってVRギアと酸素マスクを外すと、やつれてはいるけれど愛らしいあの十六夜の顔が現れたのだった。
「昨日あたりからこうして十六夜様のお顔に戻られることがあって。流動食を吐き戻したり点滴を外してしまったりと栄養補給自体を拒絶されていたのにそれもなくなって」
「生死の境を行ったり来たりもなく?」
 先ほどから心電図の音が一定のリズムを刻んでいた。前の時はまるで凸凹の道を走るような曲線を描いていた。
「はい。全ての数値がよくなってるとお医者様が仰っていました」
「瀉血の量を減らしたとか?」
「もともと十六夜様の造血量に依って行っているそうで」
 十六夜の血液量が一定の分量を越えたらそこから適宜採取しているのだそう。十六夜は完全に瀉血マシンの一部になってしまった。
「造血に使われていた栄養が体力増進に回されて、その分が減ったりは?」
 冬凪が聞いた。
「いいえ。かえって増えているとか」
「快方に向かってるんでしょうか?」
「そこは私にはなんとも申し上げようもございませんで」
 もしこれがよいことならば、それはあたしたちがあのころの辻沢で調由香里の首を見つけ出した結果だと思いたかった。でもまだ充分ではない。十六夜は自縛を解こうとはしていないのだ。辻川ひまわりも鞠野フスキも、調由香里の盗まれた体を発見して初めて人柱をブッコ抜くことになるだろうと言っていた。ならばあたしはまた18年前に戻らねばならない。
 高倉さんとあたしのやりとりを聞いていた冬凪が、十六夜の左手に自分の右手を添え目の高さに持ち上げて言った。
「エニシ、ちゃんと繋がってる」
 あたしには見えないけれど、冬凪の薬指と十六夜の薬指とを結ぶ赤い絆のことを言っているのだ。
「十六夜のことが分からなくなる時があったから切れかけてるのかと思って」
「エニシって切れることもあるの?」
「わからない。前世、現世、来世を越えるって言われているけど」
 それって死んでも切れないってことなんじゃ? あたしは自分の手を見てみた。そこにはなんの縛りもないただの薬指がついていた。
 あたしは雄蛇ヶ池の坂道でデジャヴュを感じたあと、エニシが結びついた薬指を食い千切る幻覚を見た。きっとあのことはあたしが過去世に何か重大な過ちを犯してエニシを失ったことを象徴しているのじゃないか? だからあたしは、エニシで繋がる人もいない、潮時以外でも発現してしまう、異端の鬼子なんじゃないか?
 VRギアと酸素マスクを元のように十六夜の顔に戻すとき黒髪を整えてあげた。青メッシュの巻き下ろしは解けてしまっていてストレートになってしまったけれど、艶やかでそれはそれで十六夜にとても似合っていた。髪を整え終えて立ち上がると、冬凪が十六夜の首に腕を回してハグをした。あたしもしたかったけれど、やめにした。
 十六夜にまた来るからねと心で言ってVR部屋を出た。控えの間の寝室を通り廊下に出ると、先に立った高倉さんが、
「由香里奥様の首を見付けてくださった方のお名前が分かったんですよ」
 と言った。てっきり高倉さんもあたしたちが18年前に行ってきたことを知っているかと思っていたのだけれど。それを確かめるため一応冬凪を見た。ところが冬凪は首を振っている。高倉さんは知らないらしい。
「奥様のお首は亡くなられてすぐに見つかってはいたのですが、どなた様のお陰なのかはわからなかったのです。ですが、私が藤野夏波様にご連絡差し上げようとしていたら、前園の奥様に知らせが入ったのです。なぜ今になってか不思議でなりません」
「なんという名前だったんなんですか?」
「小宮ミユウと佐野クミいうお名前なんですが、お礼をしようと役場に連絡先を問い合わせたところ、辻沢どころか宮城野線沿線に当時そのような名前の方は住んでおられずわからないと言われたのです。ですが私、あの頃そのお二人に会っているのです。あれは由香里奥様のお首が出てくる数日前でした。出てくると申し上げたのは、まさにそういう状況だったからですが、その時のことをまずお話ししますと、当時、私は調家で女中をしておりました。あの日、お首が見つかった日の方です、御坊ちゃまの晩御飯を用意してお邸を辞そうと玄関扉を開けましたところ、正面の棕櫚の生垣の中に白いサラシに巻かれたボーリング玉くらいのものが置かれていました。なんでしょうと思ってサラシをとりますと、中からそれはそれはお美しい由香里奥様のお顔が出てまいりました。私は急いでお隣りの前園日香里様のところに持って行きましたところ、日香里様は預かると言われて。それから数日前です。あのころ親しく調邸に出入りしていたフィールドワーカーさんがいて、その方が数人のお仲間と訪ねて見えて、由香里奥様のことを教えて欲しいと言われました。その時は私も一刻も早く由香里奥様のご遺体の行方を知りたいと思っていましたので、その方たちに知ってることを全部お話ししたのです。その方のお名前が佐野クミさん、もうひと方の女性のお名前が小宮ミユウさんでした。だからいなかったなんて信じられません」
 高倉さんのお話はエレベーターを降りて裏口を出ても続き裏門のところでやっと終わった。
「それではみなさん、また十六夜様に変化がありましたらご連絡いたしますので」
 重厚だけど耳障りな音を立てて黒い門が閉まった。
 陽も落ちて暗くなった道を歩きながら、
「とりあえずよかったね」
 冬凪が言ったけど、
「そうなのかな?」
 順調すぎる気がしてかえって不安だった。そんなあたしを安心させるためだろう冬凪は、
「十六夜も喜んでるみたいだし」
 と右手を胸の高さまであげて言ったのだった。なら心配ないかも。
 表に出てだらだら坂と反対方向に歩き出した時、前から来た車にクラクションを鳴らされた。別に道の真ん中を歩いているわけでないのにとヘッドライトを睨みつけてやると、その高級国産スポーツカーは、そのまま行ってしまうと思ったのに、スルスルとあたしたちの横に停車した。ちょっとビビったけれど、ウイィーとウインドウが開いて、
「藤野姉妹。こんなところで何してる」
 と声をかけてきたのは響先生だった。先生こそと言いかけてやめた。響先生は前園日香里と繋がっていて、きっとヤオマン屋敷に来たに違いないと思ったから。
「バイトの帰りです」
「こんなところにバイト先があるんだ」
 一時しのぎのための嘘だったからからそれ以上突っ込まれたら対応できなかったろう、でも、
「気をつけて帰りなね。夜は変なのが出るから」
 と響先生は言うとイィーウンとウインドウを閉じて行ってしまったのだった。後ろを振り返ってみていると、響先生の車はヤオマン屋敷の前を素通りして、だらだら坂を下りて言ってしまった。
「何処行くんだろ?」
 あたしが言うと、冬凪が、
「気になるね」
 と言ってだらだら坂の方へ掛けだした。あたしもそれを追いかけたのだけど、
「なんで、あそこで停まるの?」
 と言って冬凪は立ち止まった。その背中にぶつかりそうになりながらあたしが車を探すと、響先生の国産高級車は、あたしたちが来るとき見た、3つめの爆心地の前に停車していたのだった。
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