第21話  大地の創造

文字数 2,301文字

8月の末。休日。

数日続けて天気が悪かったせいか少し肌寒い位だ。
すごい残暑がずっと続いたのだが。

私と華子はアボリジニの画家の絵画展に出掛けた。電車の中刷り広告でポスターを見た時から気になっていたのだ。

それは緑と黄色と青を基調にした、色の重なりだけで表した抽象画だった。
タイトルは「大地の創造」。
息を飲むような太古の森。

色調の異なるいくつもの緑色が伸びやかに力強く全方向に向かって自己を広げようとしている。横270センチ縦160センチの4枚組、大画面に描かれたのはまさに古代の森だった。
アクリルで幾重にも重ねられた黄色、白、青、そして赤。
全てが下塗りした緑色と相まって己を主張する。横溢するエネルギーを荒々しくも大胆なタッチで表現して観る者に迫る。激しい緑。

計画も秩序も合理性も予測も後悔も懺悔もそこには存在しない。
ただただ溢れるような生命そのものを全て「是」とする原始の森だ。そして「これ」は人間の無意識の中に深く閉じ込められて、綿々と受け継がれて来た一点だと思った。

森の深さに飲み込まれそうな感覚。

自分の命はこの緑の中に紛れ込み、同化し、点描の小さな一点になる。未分化な自他。自分は大きな命のひとつになって同化される。全てを含んだ混沌。エネルギーだけが凄まじい勢いで増加する。命の素、酸素を生み出す植物の力。

無意識なんて本当の所、わからない。
しかし、「これ」は自分にはある。「これ」に共感する何かが自分の中にはあると思う。この絵を見て迫力のある絵だと思う人はたくさんいるだろうが、「これ」と同類のものをすっかり無くしてしまった人もいるのではないのだろうか。

人は生まれた場所から随分遠くに来てしまっている。いくら後ろを振り返っても、見えない景色もある。

 薄暗い美術館の一画に飾られた大作はほんの少し明るいライトの下で湿気と土と緑の匂いを閉じ込めて、ひっそりと在った。

ずっとオーストラリアの砂漠地帯で一生を終えたエミリーは故郷のアルヘルクラヘの「緑の季節」を想ってこの絵を描いたとガイドブックにはある。故郷の自然を愛し、描き続けた人生。美しい自然。生涯を掛けてその自然の一部であろうとしたのだろうか。「同一への憧憬の想いを持ちながら観察者であり、表現者であり続けた」と説明にはある。
繰り返し、それを描くことにより、それと同化し、それに回帰する願い。

「それ」はいったい何だろうと不思議に思う。何かに引っ張られるように「それ」の世界に魅かれる。それを表現するものであるなら、絵画であろうが写真であろうが文字であろうが。媒体は何であっても構わない。

私は貪欲にそれを見詰める。
微細な何物も見落とさないように飽くことなく見詰める。それが時の移り変わりとともに変化を伴うものであるなら、詳細な変化の過程も見逃したくない。
形態、色彩、構造、イメージ、匂い、手触り、音を完璧に記憶したい。

そしてインプットされたそれは何度となく繰り返し脳裏に現れる。例えば眠りに就く瞬間、忙しい仕事と仕事の合間に。
何かの手がかりさえあればそれは容易に意識を占領する。


私と華子は息苦しいほどの命に満ちた、夏の森を想わせる絵の前で立ち尽くした。私の脳は今、新しい引き出しを一つ開いて「大地の創造」を仕舞い込んだ。インプットされたそれを気が向けば幾度となく眺める事が出来る。

「これが森林的思考ってやつかな。」
華子がぼそぼそと言った。
「何じゃ。そりゃ?」
私もぼそぼそと返す。
「うん。最近読んだ本。森林的思考と砂漠的思考の違いについて書いてあった。」
「ふーん。」
「廻る命だよ。生命は永遠の循環を繰り返す。そして人は森林の中で判断を停止させる。この森は自分の目の高さで描いてあるよ。自分自身が森の一部になっている。とても共感できる。何故なら私達の心の故郷のようなものだから。」
「ふーん。んじゃ、砂漠的思考は?」
「砂漠で思考停止させたら死ぬから。判断中止は死につながるし、正しい道はただひとつ。それは水場につながる道。それを探すには空の上から見下ろすしかない。鳥の様に俯瞰する。そこでは季節は廻らない。時間は真っ直ぐに進む。最後の審判に向かって。」
「ふうん。」
「最後の審判か。あるのかな?」
「ふふ。どうでも」
華子は答える。
「樹も読んでみる?面白いよ。」
「うん。」
私は言った。

「でもさ。やっぱこれは日本の森では無いよね」
華子が言った。
「そうかな」
「日本の森は黒い程の緑だよ。滴る様な緑。深い森。静かで怖い森。これはそれとは違う

「成程・・」
エミリーの絵から感じるのは外に向かって迸る無尽蔵のパワーだ。
日本の森は底知れぬ深さを持つ泉の様な静謐さだ。内に向かうパワー。

華子は別のブースに移動した。
朝一番だったから人はまばらだ。
私は薄暗い展示室のスポットライトの下、のびのびと大作を眺めた。


「うーん。色だな。」
私は呟いた。
「何が?」
隣から声がした。
えっ?
私、声出ていた?
私は思わず、口を押さえて隣を見た。
「あれ?」
「久しぶり。宇田さん。」
「ありゃ。融君。嘘みたい。」
「ホント。奇遇。まさか、こんな所で君に会うとは思わなかった。」
「信じられない。」
「さっき、見た事ある人がいるなって思ったんだよね。入場口で。宇田さんかどうか迷ったけど、今、声聞いたら宇田さんだと思った。」
「融君ひとり?」
「そう。宇田さんは?」
「うん。友達と。」
私達は小声で話した。まさか、こんな所で出会うとは。
「融君。この画家知っているの?」
「うん。知らない。ただこれでね。」
彼はポケットから一枚のチラシを取りだした。
自分の持っていたチラシと同じだった。
「この絵を見たいと思って。」
彼がそう言った。
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