第9話  あの頃 Ⅳ

文字数 2,237文字

 私は家を出た。

最後に千尋の部屋に行って、別れの挨拶と「ごめんなさい」の言葉を告げた。
千尋は黙って聞いていたけれど、頷いて私の体を抱いてくれた。
赤い水に浸かる姉を半狂乱で引き出してくれた妹。

東京に来ても、私は誰とも話さず、自分の中に引きこもっていた。
深い地の底から出られなかったのだ。


「私、あの事故があって陸を亡くして、それから仕事も辞めてぐだぐだだったじゃん。入院が長引いて、仕事なんか続けられる状態じゃなかったし。生きているのがやっとって状態で。それでも何とかしなくちゃならないって思っていたんだけど。でも、思うだけで何も出来なかった。」
「どん底だったものね。樹。私達も何て慰めていいのか分からなかった」
「私、東京に来る事を誰にも言わなかった」


 私達3人はカラオケルームで酒を飲みながら話した。

「融君に逢ったのはその頃の話だよ。何とかしなくちゃって、出掛けた大学の公開講座でたまたま一緒になったの。」
「樹、仕事辞めてしばらく家にいたじゃない。あの頃の話?」
茂木ちゃんが言った。
「うん。そう。あの後」
私は答えた。

あの頃私の心はしくしく泣いていたのだと思う。たった一人で泣いていた。
それをちらりと横目で眺め冷たく突き放す自分がいた。
触るとひやりとする鋼のようなもう一人の自分。その自分が私に言う。

穴の中に逃げ込むなんて許さない。何を思ってもいいから、兎に角自立しろ。
へたり込むなんて許さない。情けない真似はするな。
許さない。許さない。許さない。

そいつはそういい続けた。泣き続ける私に向かってそう言い続けた。
泣き続ける私の腕を無理やり引っ張ぱり続けた。
そうやって地の底から何とか這い上がって来た。

そんな日々の中。
目の前に下がっていた細い糸をふと辿ってみた。
その「生きる意味を再構築する」とか何とかの。

私が縋った糸のその先に融君がいた。
彼も何かを探していた。私達は同類だった。
けれど、彼の涙はもうずっと前に乾いていて、最低の時期を何とかやり過ごす事が出来た人の穏やかな諦念を私は彼から感じ取った。

何かに対する諦め。
彼の苦悩は終わっていないけれど、もう前を向いて歩いている。
そんな感じ。
私はまだどん底の泥濘に足を取られて必死で藻掻いている最中だったけれど。

融君に出逢ったとき、あの事故からどれ位過ぎていたのだろう。
私は頑張ったと思う。あの日々から立ち直ったのだから。
とりあえず何とか自立しているし。
自分が嫌いな私でも自分を誉めようと思う。この数年私は何とか自分で自分を立て直してきたから。

「ふーん。それで?」
涼子が言った。
「別に?それだけ。」
私は答えた。
「彼はそこの学生だったの?って言うか、彼はいくつよ?」
「違うよ。どっかの理系の大学。あの時、就職して2年目って言っていたから。・・・私達の3つ上。」
私は答えた。
「ふうん。・・彼は何でそんな講座出ていたの?」
「よく判らないけど・・。何だか身内を続け様に亡くしたらしくて。今は意識不明で入院している従妹が唯一の身内だって言っていた。」
「えー?悲惨。そうなんだ・・・。」
「事故?」
「うん。そんなこと言っていたよ。」

『・・・生きていくって結構大変だよね。俺、二度留年したよ。あの頃は最悪だったな。・・でもきっと君にもそう思える日が来るから。・・・大丈夫。生きてさえいれば、時間が手助けしてくれるよ』
融君の声が私の脳裏に甦る。
彼の言う通りだった。

融君はただの知り合いでは無くて、大恩人なのに。
ホントは会いに行かなくちゃならない人なのに。
結局行けないでそのままになってしまって。
なんて申し訳が無い事を。
・・と、今なら思える。


「んで、何が問題なのよ。」涼子の声が遠くから聞こえた。
「あんた馬鹿じゃないの。涼子。その境遇が、すでに問題じゃないの」
茂木ちゃんが言った。
「そっかなあ。あたしだって離婚しているよ」
涼子が答える。
「あんたと同じじゃないから。ねえ、樹」
茂木ちゃんが返した。
「樹ったら。あんた寝てるの?」

私は我に返った。
「んっ?ああ、問題?・・・・それはね。聞きたい?」
「まだあるの?でも聞きたい。」
茂木ちゃんと涼子は身を乗り出した。私はにやりと笑った。
「あのね。あの人、霊感超強いらしいよ。」
「えーっ。そっち?」
「そうそう。どうだ。これでもあの男に手を出そうと思うか?あのねえ。寄ってくるらしいよ。霊達は。やっぱり分かるんだって。そういう人が。やっぱり分かる人に来るらしいね。だから、そういうのに出会っても、出来るだけ知らない振りをして通り過ぎるって言っていた」
「うわっマジ?」
「マジ、マジ。あたしなんて霊感これっぽちもないから分からないけどね。・・家が古くから続く神社らしくてさ、よく見るらしい」
「怖っ。」
茂木ちゃんはビビッた。茂木ちゃんは嫌いだから、怖い話。

「あたし、無理。」
「あたし平気かも。」
涼子が言った。
「あっ、そうね。あなた見えるんだったわね。・・・・確かにこんな問題、塵に等しいかも。」
私は言った。
「私も霊感あるし。そんなに強くないけどね。でも、自分はこんなもの見ました的な話で結構彼と盛り上がれるかもよ。」
「涼子、・・・やっぱ最強だよ。」
私は兜を脱いだ。
恐れ入りました。

「樹、怖くないの?」
茂木ちゃんが聞いた。
「えっ?怖いよ。勿論。だけど私、なーんも見えないから。霊感ゼロだし。気配も感じないし。寧ろ、マイナス?・・・多分頭に乗っかってても、ワカンナイと思うよ。」
「あんたの方が最強かも・・・。」
茂木ちゃんが言った。


 
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