第12話  朱華(はねず)

文字数 1,524文字

無題

李商隠

相見時難別亦難
東風無力百花殘
春蠶到死絲方盡
蠟炬成灰涙始乾
暁鏡但愁雲鬢改
夜吟應覺月光寒
蓬山此去無多路
青鳥殷勤爲探看

「相見る時は難く 別るるも亦難し
東風 力無く百花残(くず)る
春蠶(しゅんさん)死に到りて 糸方(はじ)めて尽き
蠟炬(ろうきょ)灰となりて 涙始めて乾く
暁(ぎょう)鏡(きょう)に但(た)だ愁う 雲鬢の改まるを
夜吟(やぎん) 応(まさ)に覚ゆるべし 月光の寒きを
蓬山 此より去ること多路無し
青鳥 殷(いん)勤(ぎん) 為に探り見よ」


「由瑞(よしみず)。私は君よりも11も年上だけど、この『暁(ぎょう)鏡(きょう)に但(た)だ愁う 雲鬢の改まるを』はないんじゃないかな。ちょっと。酷くないか?そんな婆さんじゃないよ。髪なんか薄くなってないし。」

 朱華(はねず)の声が耳に残る。
朱華。朱華色。蓮の花。李色。石榴色。

ひとつひとつ文字を追う朱華の白い指を思い出す。

小筆を置いて、出来上がりを眺め、ため息をついた。そして雲ひとつない、青く晴れ渡った空を見上げ、旅立つにはいい日なのだろうと思う。

 李商隠は晩唐の官僚で詩人だった。痣名は義山、号は玉谿生。又は獺祭魚とも呼ばれた。官僚としては不遇な一生だったけど、詩人としては高い評価を受けて、多くの追随者を見る程の人だったらしい。北宋時代には一大流行を見る西昆体の祖となったとネットにはある。西昆体がどんなものかは詳しく知らないが、彼の無題と称するこの律詩は流麗で哀切でそれでいて温かく、好きな詩のひとつだった。

「意味わかんないよ。意味を教えてよ。」
請われて、簡単に訳文を教えてやり、それからの苦情だった。
「この詩、結構練習したんだぜ。」
俺は言った。
朱華はにっこりと微笑んだまま何も言わなかった。
透き通った朱華の声。

もう2年も前の出来事なのに、あの時の事はよく覚えている。
縁側の障子を通して差し込んでいた秋の日差し。

苔の生えた小さな庭に紅い楓の葉が点々と鮮やかな模様を作っていた。
全てが老陰へと移り変わる季節の中で、朱華は細くなった体を起こし、雲の流れを眺め、木々の移ろう姿を眺め、風の音を聴いて、自らの終わりを見つめていた。弥生の誕生日で32になるはずだった。
桜を観ないで、朱華は逝った。

俺が小さい頃、朱華は無敵だった。
大きくてしなやかで、走ると風みたいに速かった。
元気で太陽みたいに明るくて、大好きだった。

朱華が嫁に行った時は随分泣いた。でも十年もしないうちに彼女は帰って来た。
俺の背はとうに朱華を追い越していた。
朱華はまるで透明な蜻蛉みたいな女になっていた。
小さく痩せてしまって、折れるのを心配しながら、俺はそっと体を抱きしめた。
今思うと何でこんな詩を朱華に贈ったのかと悔まれる。

廊下を歩く足音が聞こえ、ドアの外から声がした。
「由瑞。お棺が出ます。」
母の声だった。

朱華の魂はもう蓬莱山に向かっているのだろうか。
今から朱華の小さくなってしまった体を焼く煙があの青い空にたなびくだろう。
その煙にのって朱華はようやく蓬莱山に行くのだろうか。
もう一度紙面に目を戻して、答えた。
「わかりました。」
声を確かめると足音は静かにドアの前から遠ざかって行った。
詩を綴った和紙を畳むと封筒に入れた。

封筒は朱華と一緒に棺の中で炎に焼かれ煙となり、そして自分の心の一部も朱華と一緒にそこに行くはずだと思った。自分が死ぬ時には朱華と一緒に逝った心の一部を探して、自分はそこに辿りつくはずだと思った。

 青い空に一羽の白い鳥が見えた。

火葬場から出る白い煙を目で追っていると、どこからともなく白い鳥が煙と一緒に舞い上がり、そして東の空に消えて行った。
小さくて頼りない白い煙の一粒みたいで、俺はずっとそれを見送っていた。

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み