第15話  一刻

文字数 2,971文字

書道部のドアは開いていた。

そっと中を覗くと、生徒は誰もいなくて、佐伯先生だけが机に向かっていた。
夏の夕暮れの部屋の中で彼は電気も付けず、立ったまま静かに筆を動かしていた。空気が深として、そこだけひんやりしているように思えた。
夏なのに。

私は声をかけた方がいいのか、黙って待っていたほうがいいのか逡巡して、そして佐伯先生が気付くまで入り口で待つことにした。
窓からオレンジ色の陽(ひ)が差していた。
その陽に誘われるように外を見た。

なにもかもオレンジ色に染める上げる強烈な夕焼けだった。

たまにそんな日がある。
影すらもオレンジ色に染まるような夕日。

窓の外には校庭の大きな欅が見えた。
続いて街並みが見えて、その遠く後ろに山が見えた。
空は複雑な色合いを見せて夕暮れへと向かっていた。燃える様な橙、水色、紫、黄色・・木立はすでに深い緑から黒い影となりつつある。
その遠く向こうの空には、人間には到底到達出来ない世界がある。


刻々と変化する複雑な色彩を眺めて時間が過ぎる。
「薄暮は紫に。」昔聴いた曲の中の一節だ。
空が水色から群青に、そして濃い紫に変り、誰が彼の判別もつかぬ黒になる。しかし、この夕日はまさに茜色だ。
私はうっすらと霞掛った山間の村を想う。一日が終わった山里。

寝ていたわけではない。しかし平たく言えば目を開けて寝ていたことにもなるかも知れない。

 「・・宇田先生。」
佐伯先生の声で我に返った。
「あれ?・・・あっ。すみません。ぼーとしていて・・。」
私は一気に現実に引き戻された。
・・・ああ恥ずかしい。呆けた顔を見られたらしい。
どうも佐伯先生にはいいところを見せられない仕組みになっているらしい。別にそれでもいいのだが、やはり「あーあ。」と思う。

佐伯先生は言った。
「こちらから、お呼び立てして置いて、お待たせして申し訳ありませんでした。声を掛けてくださればよかったのに。・・・・」
「ああ。何か書いていらっしゃったので、お待ちしようと思って・・・・つい気が緩んで。えーっと、何でしたっけ?」
佐伯先生はふっと笑った。
「夏休みの『煌香展』の引率のことですよ。えっと、8月の6日ですね。・・・ちょっと確認しますね。」
 彼は、電気を点け、自分の机に向かった。私もスケジュール帳を見ながらその後を付いて行く。

机の上には中途半端な大きさの半紙があり、そこに漢詩が達筆な字で書かれていた。
黒々とした墨の香りが漂って来た。

墻角数枝梅
凌寒独自開
遥知不是雪
為有暗香来

「五言絶句ですね。・・・・誰の詩ですか。」
私は言った。
佐伯先生はほうという顔をして答えた。
「漢詩、ご存知ですか?・・・。王安石の詩で「梅花」という詩です。」
「ふうーん。」
「『墻角 数枝の梅 寒を凌ぎて独自に開く 遥かに知る 是れ雪ならざるを 暗香の来たれる有るが為に』読み下すとこうなります。意味はですね。・・垣根の角に咲く数本の梅の木が寒さに負けずに咲くわけですね。まあそれが遠くから見て雪で無いことがわかるのはその微かな香りのせいだという・・まあそんな意味です。・・季節外れですね。でもこの詩が好きなのです。それでたまにこうやって書き写しています。」

「王安石ですか。北宋の人で政治家で思想家ですよね。政治改革をしたなあ。えっと年代は千・・三十年とか五十年とかその辺ですよね。」
佐伯先生は少し意外そうな顔をした。
「よくご存知ですね。」
「いや、一応昔高校で世界史教えていたんですよ。そんな風には見えないと思いますが・・まあその辺までしか知りませんけど。」
「そうですか。それは失礼しました。・・そうですよね。社会科の先生でいらっしゃるから。まあ当然と言えば当然・・・。」
佐伯は答えた。
「いい詩です。『梅花』は。日本人に人気のある詩です。」
「はあ・・。」
「いろいろと試しているのですが・・・書体を変えて・・・・。なかなかうまくはいきません。」

 数学の先生なのに不思議な好みを持った方だなと思った。
大体、強制された訳でもないのに、自ら筆を持って字を書くということ自体理解できない。それもいろいろと練習するなんて論外である。

「ああ、すみません。余計な話をして。『煌香展』です。以前お話したように引率よろしくお願い致します。」
佐伯先生は言った。
私はスケジュール帳に佐伯先生の言った言葉を書き込んだ。

「笹駅9時集合です。制服で。会場は市民ホールの二階ですね。2年の大杉さんと山本さん、それに3年の小暮さんと川上さん星さんが出展していますから、よく見て来るように部員に言ってください。帰りは10時半位にホールを出て笹駅に11時少し過ぎに着きますから、そこで解散をしてください。人数は15名だったかな・・。」
彼は自分のノートを見ながら出席する生徒を確認していた。

私はその横顔を見ていた。

・・ホントに綺麗な人だな。
男に綺麗と言うのも変だけど、この人にはその言葉がぴったり。
涼し気な目元。右目のすぐ下に泣き黒子がある。
「あの黒子がセクシーなのよ」
誰かが言っていた。
「誰に対しても穏やかで丁寧で、それでいてクールな印象があって・・・惚れるなって言う方が無理ね」
「生徒も時々見惚れてるよね。(笑)」
などとも。


肌が白くて睫が長い。
スマートな鼻と頬のライン。
少し長い前髪がさらりと落ちている。
すっと背が高くて180以上あるかもしれない。
ノートを辿るその指が長い。
綺麗な手だなと思う。
私よりも綺麗なんじゃないか?・・何なのかな。コレ。

彼の周囲の空気まで深とする。そんな落ち着いた雰囲気をもつ人だ。

 噂では島根だか鳥取だかの地主の息子だそうな。・・本当かいな?
私は彼に見惚れていたのかも知れない。
端正な人だから。

ふと彼の視線が動いて私を見た。
私は慌ててスケジュール帳に目を落として、適当な場所に15名と記入した。
「えっとそれで・・じゃあ出席する生徒の名簿は後でください。」
顔を伏せたまま言った。
返事がなかった。
おや?っと思って顔を上げると佐伯先生の視線とぶつかった。
彼は思案気に私を見ている。
引率が私で不安だと思ったのだろうか。私はすぐに言い足した。
「あっ。大丈夫です。田神先生も一緒に行ってくれます。」
「・・・。」
「あれ?・・」

佐伯先生が突然手を伸ばして私の左頬に触れた。
「えっ?」
私は飛び退いた。
「ああ。失礼。・・まだ痣が残っているなって思って・・。」
私は自分の左頬を手で覆った。
「ああ。・・なかなか消えませんが・・・でももう痛みはないんです。」
一歩下がりながら上目遣いに彼を見る。

「ははは。失礼しました。そんなに警戒なさらなくても大丈夫です。・・・いや、俺、何やってんのかな・・・。びっくりしますよね。
済みませんでした。・・・・・えっと話を戻しましょう。田神先生も引率してくださるのですね。そうなんですか・・・・・。」
私の警戒はなかなか緩まなかった。

佐伯先生はにやりと笑うと言った。
「・・・田神先生は宇田先生のことになると過保護ですね。・・・・分かりました。明日にでもコピーをお渡しします。田神先生にも僕の方から宜しくお願いしておきます。では当日お願いします。・・・申し訳ありません。僕が私用で引率出来なくて。宇田先生にお願いしてしまって。」
「大丈夫ですよ。だって一応私も書道部顧問なんですから。」
私は彼の手が届かない離れた場所から言った。
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