第8話  あの頃 Ⅲ

文字数 1,171文字

私は一度退院してきて、また、再入院となった。
自殺未遂を起こしたから。
病院でもらった睡眠薬をワインで流し込み、風呂場で手首を切った。
赤い水に浸かっている私を見付けたのは妹の千尋だった。

誰かが言った。
「せっかく助かった命を・・。」
担当医だったのか、看護士だったのか・・・父親だったのか。
だけど、そんな言葉はただの音でしかなかった。何の意味も持たない雑音でしかなかった。
何もかも忘れて、ただ眠っていたかった。


入院して数日過ぎて、陸のお姉さんがお見舞いに来た。
お姉さんはふっくらしていて、遊びに行くといつもダイエットしなくちゃなんて話をしていたのに・・・随分やせちゃった。
「樹ちゃん。痩せたね。」
お姉さんがぽつりと言った。

お姉さんはじっと私を見て、そしてぽろぽろと大粒の涙を流した。
「樹ちゃん。・・今日はあたしね。お母さんの代理で来たの。お母さんが本当は来なくちゃいけないんだけどって、謝っていたから。」
お姉さんはバックから白いハンカチに包んだ物を私に差し出した。
「・・これ、陸の時計。形見だと思ってお母さん大事に持っていたけど、樹ちゃんに渡してって。」
 お姉さんは立っていられなくて、顔を両手で覆ってしゃがみこんだ。そして泣きながら、途切れ途切れに言った。
「・・樹ちゃん。ごめんね。ごめんね。でも、もう許して。うちのお母さん、このままじゃおかしくなって死んでしまう。毎日、肩を落として仏壇の前で泣いているの。・・樹ちゃんが手首切ったって聞いて・・。もう耐えられない。もう、勘弁して。お母さんが死んじゃう・・陸が亡くなってから・・」
 最後の方は聞き取れなかった。

私、お姉さんが何を言っているのか理解できなかった。
それでも、ベッドからそろりと這い出して、がくがくする足で立ち上がり、しゃがみこんで泣き続けるお姉さんの肩を抱いた。
「ごめんなさい。」
私は一言だけしゃべった気がする。
リスカしてから、初めて発した言葉だった。
自分でない誰かがしゃべっているみたいに感じた。

お姉さんが帰ってから、何日も自分で考えた。

陸はお母さんが大好きで、・・・陸の優しいお母さんを私も好きだったのに。・・・自分の辛さで一杯で陸の家族の辛さなんて何にも考えられなかった。私より、陸を失った家族の方が辛いのに。初めてそんなことに気が付いた。


私は生きて行かなくちゃならないって思った。
苦くて固い何かの塊をごくりと飲み込んだ。
もう、自分のせいで、誰かを悲しませてはいけない。

私は自分の左手首の傷を指でなぞった。
お姉さんに貰った陸の時計を付けてみるとサイズが合わなくてずれ落ちた。
時計を耳に当てると心臓の鼓動の様に秒針が時を刻んでいた。
アナログな時計。陸はこれが気に入っているんだって言っていたっけ。

時計を見る、陸のちょっとした仕草を思い出した。
陸の声を思い出して、声も立てずに泣いた。
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