善と悪の心のはざまで
文字数 2,130文字
その家の奥から聞こえてくるか細き女の声を聞きながら、お佐和の足は自然と屋敷の中へと入り込んでいた。
誰も対応しないとは言いながら、自分がいきなり他人の家に入る不躾を躊躇しながらも、今はそんなことを言っている場合では無いと思ったからである。
それほどに、女の声は弱々しく、まるで幽霊が呟いているような、か細い声だった。お佐和は、慌てて玄関で履き物を脱いでその中へ入っていった。
その勢いで履き物はごろんと土間に転がった。
「失礼します……」
そう言いながら、お佐和はその声がすると思しき場所を探り当てた。
その人物は訪問者が来たことを感じたらしく、呟いた。
(あぁ……)
その声でお佐和は、声の主をようやく見つけだした。広い屋敷の居間らしきところで、一人若い女が伏していた。その者はお佐和の声を聞いて起きあがろうとしていたが、どうやら身体が動かないようである。
「あっ! 佳代さんですね?」
(は、はい……)
その部屋で伏せていたのは、紛れもなく自分が今日、面会すべき相手だった。
いくらかの想像はしてはいたが、これほどまで異様な姿をしているとはお佐和は思っていなかった。
「ど、どうしました? 佳代さん」
お佐和は持っていた風呂敷の包みを、畳のうえに放り出すようにして佳代に近づいた。始めてお佐和が見た佳代という女は若く、とても美しかった。
やっと少女から脱皮して、女として成長する前の初々しさである。
しかし、今はどこか弱々しく痛々しい。その顔は蒼白であり、死にそうで元々の白さとは違う何かをお佐和は感じていた。
「あ、山越の叔父様のところからこられた方ですか?」
「はい、そうです、お佐和と申します、佳代様、どこかお身体の具合が悪いのですか?」
「は、はい、いえ……」
佳代はそう言うのがやっとのようだった。静かな部屋の中でそのとき、お佐和は佳代の腹の辺りから低く絞り出すような音を聞いたのである
(グウ……)
「まぁ、佳代さん、お腹が空いているのですね」
「は、はい、お恥ずかしいです、ずっと……」
消え入るようなこの美少女をみて、始めてお佐和は佳代の状態を理解した。
始めは、女好きな主人が要望しているこの少女に嫉妬を感じていたが、目の前で腹を空かせている人物が、急に哀れに思えてくるのだった。
この娘は、このままにしておけば餓死するかもしれない。
(可哀想に……)
そう思うと、なぜか自分のことのように眼に涙が溢れてくる。そんな佳代をみて、
今は、自分の為にこしらえてきた握り飯が役に立ちそうである。
「ちょうど、ここに私が握ったものがあります、さあ食べてください」
そう言うと、傍らに置いておいた風呂敷の包みを開けた。そこには竹の皮にくるまり、塩でまぶした握り飯が数個と、干した大根を塩と糠で作った沢庵や葉物等も入れてある。お佐和は竹筒に入れてあった水を差しだした。
「この竹筒にお水が入っています、これも飲んで下さいね」
「あぁ、ご親切に、申し訳ありません」
「良いのですよ、さあ……ゆっくり召し上がって」
「はい」
お佐和は伏せている娘の肩を抱き支えながら畳の上に座らせた。
「では、いただきます」
「どうぞ」
娘は胸の前で手を合わせ合掌すると、震える手で握り飯を手に取り口に運んだ。
よほど、何日も食べる物を口にしていなかったのだろう。
(どうして、このようなことに?)
お佐和には、理解できなかった。
なぜ、このようなことが起きるのか、助ける人はいなかったのだろうか?
少女が食べる前に少し、躊躇していたのはそれまでだった。ゆっくりと一点を見つめながら水を飲み、飯をほおばる娘。
その姿は、一心不乱に食べながら放心しているようだった。むせ返り、咳をする背中をお佐和は優しく撫でる。お佐和にとって、後にも先にも娘のこのような姿は自分しか知らない。
その姿を見て、ある種の優越感をどこかで感じるお佐和がいた。
こんなことさえなければ、お屋敷の娘として淑やかに暮らしていたはずだろうに……。到底、自分が接することなどないお家柄。
しかし、今目の前にいる娘は、飢えた犬のようだった。人という者は、死ぬか生きるかという瀬戸際の際には、理性を失うのだろうか。この娘も例外ではなかった。
このまま数日経てば、娘は餓死していただろう。お佐和の前で、あっというまに食べる物は娘の腹に収まっていく。
それを見ていたお佐和は、自分が小さい頃に味わっていた貧しさを思い出していた。
(自分も昔はこうだった、今の旦那様に拾われて、自分はいまここに生きている)
娘を見つめながら、どん底から這い上がってきた自分を思い出すと、今の自分の立ち位置に不満など言っていられないと思うのだ。
そう思いながらも、自分にはない若さと美しさを持つこの娘を、これからご主人様がどう扱うのかを想像しながら、興味が湧いてくるお佐和である。
自分の役目は、この娘に磨きを掛け、娘の叔父でもあるご主人様を満足させる女にすることである。武士でもある男としてのご主人様と、その姪の娘。その二人が許されない関係になったとき、娘がどうなるのか、今よりも更に苦しむのか……。
それを思う悪魔の心を、お佐和という女は持ち合わせているようである。
誰も対応しないとは言いながら、自分がいきなり他人の家に入る不躾を躊躇しながらも、今はそんなことを言っている場合では無いと思ったからである。
それほどに、女の声は弱々しく、まるで幽霊が呟いているような、か細い声だった。お佐和は、慌てて玄関で履き物を脱いでその中へ入っていった。
その勢いで履き物はごろんと土間に転がった。
「失礼します……」
そう言いながら、お佐和はその声がすると思しき場所を探り当てた。
その人物は訪問者が来たことを感じたらしく、呟いた。
(あぁ……)
その声でお佐和は、声の主をようやく見つけだした。広い屋敷の居間らしきところで、一人若い女が伏していた。その者はお佐和の声を聞いて起きあがろうとしていたが、どうやら身体が動かないようである。
「あっ! 佳代さんですね?」
(は、はい……)
その部屋で伏せていたのは、紛れもなく自分が今日、面会すべき相手だった。
いくらかの想像はしてはいたが、これほどまで異様な姿をしているとはお佐和は思っていなかった。
「ど、どうしました? 佳代さん」
お佐和は持っていた風呂敷の包みを、畳のうえに放り出すようにして佳代に近づいた。始めてお佐和が見た佳代という女は若く、とても美しかった。
やっと少女から脱皮して、女として成長する前の初々しさである。
しかし、今はどこか弱々しく痛々しい。その顔は蒼白であり、死にそうで元々の白さとは違う何かをお佐和は感じていた。
「あ、山越の叔父様のところからこられた方ですか?」
「はい、そうです、お佐和と申します、佳代様、どこかお身体の具合が悪いのですか?」
「は、はい、いえ……」
佳代はそう言うのがやっとのようだった。静かな部屋の中でそのとき、お佐和は佳代の腹の辺りから低く絞り出すような音を聞いたのである
(グウ……)
「まぁ、佳代さん、お腹が空いているのですね」
「は、はい、お恥ずかしいです、ずっと……」
消え入るようなこの美少女をみて、始めてお佐和は佳代の状態を理解した。
始めは、女好きな主人が要望しているこの少女に嫉妬を感じていたが、目の前で腹を空かせている人物が、急に哀れに思えてくるのだった。
この娘は、このままにしておけば餓死するかもしれない。
(可哀想に……)
そう思うと、なぜか自分のことのように眼に涙が溢れてくる。そんな佳代をみて、
今は、自分の為にこしらえてきた握り飯が役に立ちそうである。
「ちょうど、ここに私が握ったものがあります、さあ食べてください」
そう言うと、傍らに置いておいた風呂敷の包みを開けた。そこには竹の皮にくるまり、塩でまぶした握り飯が数個と、干した大根を塩と糠で作った沢庵や葉物等も入れてある。お佐和は竹筒に入れてあった水を差しだした。
「この竹筒にお水が入っています、これも飲んで下さいね」
「あぁ、ご親切に、申し訳ありません」
「良いのですよ、さあ……ゆっくり召し上がって」
「はい」
お佐和は伏せている娘の肩を抱き支えながら畳の上に座らせた。
「では、いただきます」
「どうぞ」
娘は胸の前で手を合わせ合掌すると、震える手で握り飯を手に取り口に運んだ。
よほど、何日も食べる物を口にしていなかったのだろう。
(どうして、このようなことに?)
お佐和には、理解できなかった。
なぜ、このようなことが起きるのか、助ける人はいなかったのだろうか?
少女が食べる前に少し、躊躇していたのはそれまでだった。ゆっくりと一点を見つめながら水を飲み、飯をほおばる娘。
その姿は、一心不乱に食べながら放心しているようだった。むせ返り、咳をする背中をお佐和は優しく撫でる。お佐和にとって、後にも先にも娘のこのような姿は自分しか知らない。
その姿を見て、ある種の優越感をどこかで感じるお佐和がいた。
こんなことさえなければ、お屋敷の娘として淑やかに暮らしていたはずだろうに……。到底、自分が接することなどないお家柄。
しかし、今目の前にいる娘は、飢えた犬のようだった。人という者は、死ぬか生きるかという瀬戸際の際には、理性を失うのだろうか。この娘も例外ではなかった。
このまま数日経てば、娘は餓死していただろう。お佐和の前で、あっというまに食べる物は娘の腹に収まっていく。
それを見ていたお佐和は、自分が小さい頃に味わっていた貧しさを思い出していた。
(自分も昔はこうだった、今の旦那様に拾われて、自分はいまここに生きている)
娘を見つめながら、どん底から這い上がってきた自分を思い出すと、今の自分の立ち位置に不満など言っていられないと思うのだ。
そう思いながらも、自分にはない若さと美しさを持つこの娘を、これからご主人様がどう扱うのかを想像しながら、興味が湧いてくるお佐和である。
自分の役目は、この娘に磨きを掛け、娘の叔父でもあるご主人様を満足させる女にすることである。武士でもある男としてのご主人様と、その姪の娘。その二人が許されない関係になったとき、娘がどうなるのか、今よりも更に苦しむのか……。
それを思う悪魔の心を、お佐和という女は持ち合わせているようである。