不吉な予感
文字数 2,267文字
お佐和はすっかり元気になった佳代を連れて、久しぶりに自分が奉公する屋敷に帰ることになった。佳代の屋敷は見違えるほどに綺麗になっている。
お佐和は佳代と二人で、伸び放題に伸びていた庭の草を刈り手入れをした。
野に咲く可憐な花を佳代と見つけ、それを土ごと持って来て庭に植えた。土をならし、平らにすると庭は見違えるように美しくなった。
あれ依頼、おぞましい奇怪なことも起こってはいない。土をいじりながら、ふと空を見上げた時の清々しさ。こんなに空が青かったとは、お佐和は今までに気がつかなかった。自然な気持ちで、何も考えずにいられる心地よさ……。
実家の人たちはどうしているだろうか。元気でいるだろうか。 年老いた父親は、弟達は。そう思うと自然に、涙がこみ上げてくる。
お佐和は町の長老に頼んで、その家を貸家にするように依頼して来た。 佳代が、いつかこの家に戻って来た時の為である。その為の手続きも済ませた。しかし、佳代が生きて再びその家に戻ってくることはなかったのだが。
後は、いよいよ山越家に行くだけになった。お佐和は、数日前から佳代にどう言おうかと思いあぐねていたことがある。それは、あの家の主人のことである。
お佐和は、自分が奉公人になってからは、ご主人様 に言われるまま抱かれる女になり、妾となった今の自分を思っていた。すでに、とうが立ち、女としての旬の時は過ぎていたが、その年齢にしては皺も白髪もあまりあるわけでもない。
胸の張りもあり、まだ女を捨てるまでにはいっていないと自分では思っていた。現に佳代を連れて街を歩いていても、若くて美しい佳代に熱い視線が集まるのは仕方ないとしても、少しは自分にも注がれる視線を感じているお佐和だった。
街ですれ違った人たちの声に、耳をそば立てて注意してみると、男達のこんな声が聞こえてくるのである。
「なんと、あの若い娘の美しいことか、そして一緒に歩いている女の人は娘の母親なのだろうか、中々気品があって良いではないか」
「まあ、あまり似てはいないが、そういう親子だっているからねぇ」
その言葉を聞きながら、内心ではお佐和はうれしくなってくる。本当にそうだったら、この上ない幸せなのだが、自分は夫を持ったこともないし、当然に子供はいない。
貧しい暮らしの中で育ってきたお佐和に、普通に人の妻として嫁ぐ余裕が彼女の生まれた家にはなかった。
貧困の中から引き上げられたのも、偶然、今の主人の目に留まり、下働きの女として連れてこられたのである。その為に病気がちの父親がいる貧しい家族には、自分が働いたお手当のいくらかを送金できたのは、とてもありがたかった。
妻に逃げられた女好きな主人の眼鏡に映ったお佐和は、特別に美しいわけでもなかった。
お佐和の顔と身体付きが、主人の好みだったからである。たまに夜に呼ばれて、主人に抱かれている時は幸せだった。そこで初めてお佐和は女になったのだ。
しかし、その幸せと感じていた期間はあまり長くはなかった。いつしかお佐和に飽きた主人は、他の女を連れてきたからである。
それから、お佐和は賄 い女として、あの屋敷で生きて行くことになった。お佐和に変わってやって来た女達は、執拗な主人に恐れをなしていつの間にか消えていった。そして、その屋敷の中で、女はお佐和の一人だけになったのである。
山越家に帰る道すがら、佳代はお佐和に聞いた。
「あの、お佐和さん」
「はい、なんでしょうか、佳代様」
「はい、山越のお屋敷の方はどんな方でしょうか?」
「そうですね……あまり、私は存知あげません」
「そうですか……」
お佐和は言葉を選んでいた。 実際にお佐和は抱かれる以外には、山越家の当主の与左衛門という男をあまり良くは知らなかった。
自分が接していた時のご主人様は粗野で恐ろしく、愛想が無い男だった。
お佐和が例え、男を知らない女だったとしても、心から仕えたい男とは思えなかった。脂ぎった精力的な男としか見えなかったが、自分がこの家に来た理由を踏まえると、諦めるしかなかったのである。
そんな男に、この初心な少女を抱かせることに罪の深さを感じるお佐和だった。
その少女が、どんな人かと聞いているのだ。本当は心の中で言ってやりたかった。
(佳代様が、これから行かれるお屋敷の旦那様は、それはそれは精力が旺盛な旦那様でいらっしゃいます。貴女様はいずれは、いや早いうちから、おそらくはお身体を弄ばれるでしょう。そのお覚悟はお有りですか?)
お佐和は、何も知らない無垢な佳代にそう言ってやりたかった。かつての自分のように何も知らない純白の身体を、男に好きなように、毎夜に弄ばれ、心まで踏みにじられるのですよ、と言いたかった。
その悲しみと屈辱のために何度も死のうと思ったことか……。それができずに、ずっと生きている自分。貴女様にもそのような生活が待っているのですよ。
お佐和はそういってやりたかった。
今までの自分の不幸で、惨めな生き様を誰かに知って欲しかった。その少女を、飢餓状態から生き変えさせながら、罪深いことをさせようとしている自分が恐ろしかった。
お佐和のその行為が、後で江戸の世間を賑わし、一大事になる元になるとは思ってもいなかった。ある一人の男の欲望に端を発したその行為が、その男に関わった女たちの運命を替えさせ、更に数多の尊い人命を奪うと言うことになろうとは、思いもよらなかったのである。
その軌道を逸した欲望とは、その人物のみならず、それに関わる人物をも不幸にすることになるのだ。
お佐和は佳代と二人で、伸び放題に伸びていた庭の草を刈り手入れをした。
野に咲く可憐な花を佳代と見つけ、それを土ごと持って来て庭に植えた。土をならし、平らにすると庭は見違えるように美しくなった。
あれ依頼、おぞましい奇怪なことも起こってはいない。土をいじりながら、ふと空を見上げた時の清々しさ。こんなに空が青かったとは、お佐和は今までに気がつかなかった。自然な気持ちで、何も考えずにいられる心地よさ……。
実家の人たちはどうしているだろうか。元気でいるだろうか。 年老いた父親は、弟達は。そう思うと自然に、涙がこみ上げてくる。
お佐和は町の長老に頼んで、その家を貸家にするように依頼して来た。 佳代が、いつかこの家に戻って来た時の為である。その為の手続きも済ませた。しかし、佳代が生きて再びその家に戻ってくることはなかったのだが。
後は、いよいよ山越家に行くだけになった。お佐和は、数日前から佳代にどう言おうかと思いあぐねていたことがある。それは、あの家の主人のことである。
お佐和は、自分が奉公人になってからは、ご主人様 に言われるまま抱かれる女になり、妾となった今の自分を思っていた。すでに、とうが立ち、女としての旬の時は過ぎていたが、その年齢にしては皺も白髪もあまりあるわけでもない。
胸の張りもあり、まだ女を捨てるまでにはいっていないと自分では思っていた。現に佳代を連れて街を歩いていても、若くて美しい佳代に熱い視線が集まるのは仕方ないとしても、少しは自分にも注がれる視線を感じているお佐和だった。
街ですれ違った人たちの声に、耳をそば立てて注意してみると、男達のこんな声が聞こえてくるのである。
「なんと、あの若い娘の美しいことか、そして一緒に歩いている女の人は娘の母親なのだろうか、中々気品があって良いではないか」
「まあ、あまり似てはいないが、そういう親子だっているからねぇ」
その言葉を聞きながら、内心ではお佐和はうれしくなってくる。本当にそうだったら、この上ない幸せなのだが、自分は夫を持ったこともないし、当然に子供はいない。
貧しい暮らしの中で育ってきたお佐和に、普通に人の妻として嫁ぐ余裕が彼女の生まれた家にはなかった。
貧困の中から引き上げられたのも、偶然、今の主人の目に留まり、下働きの女として連れてこられたのである。その為に病気がちの父親がいる貧しい家族には、自分が働いたお手当のいくらかを送金できたのは、とてもありがたかった。
妻に逃げられた女好きな主人の眼鏡に映ったお佐和は、特別に美しいわけでもなかった。
お佐和の顔と身体付きが、主人の好みだったからである。たまに夜に呼ばれて、主人に抱かれている時は幸せだった。そこで初めてお佐和は女になったのだ。
しかし、その幸せと感じていた期間はあまり長くはなかった。いつしかお佐和に飽きた主人は、他の女を連れてきたからである。
それから、お佐和は
山越家に帰る道すがら、佳代はお佐和に聞いた。
「あの、お佐和さん」
「はい、なんでしょうか、佳代様」
「はい、山越のお屋敷の方はどんな方でしょうか?」
「そうですね……あまり、私は存知あげません」
「そうですか……」
お佐和は言葉を選んでいた。 実際にお佐和は抱かれる以外には、山越家の当主の与左衛門という男をあまり良くは知らなかった。
自分が接していた時のご主人様は粗野で恐ろしく、愛想が無い男だった。
お佐和が例え、男を知らない女だったとしても、心から仕えたい男とは思えなかった。脂ぎった精力的な男としか見えなかったが、自分がこの家に来た理由を踏まえると、諦めるしかなかったのである。
そんな男に、この初心な少女を抱かせることに罪の深さを感じるお佐和だった。
その少女が、どんな人かと聞いているのだ。本当は心の中で言ってやりたかった。
(佳代様が、これから行かれるお屋敷の旦那様は、それはそれは精力が旺盛な旦那様でいらっしゃいます。貴女様はいずれは、いや早いうちから、おそらくはお身体を弄ばれるでしょう。そのお覚悟はお有りですか?)
お佐和は、何も知らない無垢な佳代にそう言ってやりたかった。かつての自分のように何も知らない純白の身体を、男に好きなように、毎夜に弄ばれ、心まで踏みにじられるのですよ、と言いたかった。
その悲しみと屈辱のために何度も死のうと思ったことか……。それができずに、ずっと生きている自分。貴女様にもそのような生活が待っているのですよ。
お佐和はそういってやりたかった。
今までの自分の不幸で、惨めな生き様を誰かに知って欲しかった。その少女を、飢餓状態から生き変えさせながら、罪深いことをさせようとしている自分が恐ろしかった。
お佐和のその行為が、後で江戸の世間を賑わし、一大事になる元になるとは思ってもいなかった。ある一人の男の欲望に端を発したその行為が、その男に関わった女たちの運命を替えさせ、更に数多の尊い人命を奪うと言うことになろうとは、思いもよらなかったのである。
その軌道を逸した欲望とは、その人物のみならず、それに関わる人物をも不幸にすることになるのだ。