祖父と決意

文字数 3,863文字

 絵の前に立つ。陽光が水面に反射し、眩しさを覚える程の川と、祖父の後ろ姿。”あの絵”だ。我ながらなかなかに上手く描けた絵だとは思うのだが、このごろは直視できないでいる。
 あの頃、まだ世の中なんてものすら知り得なかった小学生の頃の自分は、とても生き生きとしており、それとは対照的に今の自分が醜く見えてしまう。
 風呂上がりのまだ少しじめっとした肌の感覚が、少しずつ記憶を呼び覚ましてゆく。

―「おじいちゃーん!」そう言って無邪気に抱きつきに行くと、いつも優しく受け止めてくれたのが、祖父だった。
 毎年夏休みになると必ず祖父の家を訪ね、一日中祖父と遊んだものだ。
 今思い返してみると、その頃の祖父は既に腰を痛めており、疲れ知らずの子どもの相手をするのはどんなにか大変だっただろうと思うが、当時はそんなことも露も知らなかった。

 ある夏のこと、(確か小学四年生の頃ぐらいだろうか)その年は珍しくアユが豊漁だというので、歩いて四、五十分の距離を連れて行ってもらったことがある。少し山を登ったところにある川までの道のりは、子どもの足にはさすがにきつく、途中で負ぶってもらった記憶が残っている。
 「もう帰りたい」と駄々をこねる自分を、祖父はいつもとは違って根気強く励ましてくれ、何とか川まで着くことができた。


 川につくと、声が出なかった。いや、声は出していたのかもしれないが、水が下へ下へと滝の如く流れ落ちる音に掻き消された。
「すごいだろ。」
 “蛇に睨まれた蛙“ではないが、圧倒されて声が出なかった。
 光が反射し、眩しいがそれでも何故か妙に心地良い。宝石のように輝く水面(みなも)は、颯たちに向かってはしゃいでいるように見えた。つい数分前までくたくたになって駄々をこねていたのも忘れ、颯は駆け出していた。
「あんまり深いところまで行くんじゃないぞ。」
「うん!」と返事をしつつも、既に颯は膝丈までつかるぐらい深く川に入っている。
 ひんやりと肌に染み渡るような水中では、鈍い灰色の魚影がうごめき、一方では夏の少し生ぬるい風が自らの身体を吹き抜けてゆく。
 後から聞いた話だと、颯は川底の石についた苔がぬめっているのが微妙に気持ち悪かったらしく、祖父が川の写真を撮影してしばらくすると「もう帰る。」とだけ言って川下にずんずん向かおうとしたらしい。

 ともかく颯はこうして、子どもには十分過ぎるほど濃い夏の一日を過ごした後、祖父母の家に帰った。

 祖父母の家はどこか独特なにおいがする。母は、「埃っぽいからよ。」といやな顔をして言うのだけれど、颯は何故か嫌な気は一切起きず、むしろ愛着すら持っていた。

 颯が川から戻ってきたとき、畳の敷き詰められた居間では母と祖母が談笑していた。
「それでね、その子のお父さんが結k…」
「お母さん!」
 話を遮るようにして颯が母に駆け寄ると、母は「おかえり。」と言って優しく自分を包み込んでくれた。
「川、行ってみてどうだった?楽しかった?」
「うん!こんなに大きいお魚がうじゃうじゃいた。」
 手で、ちょっと大きさを盛りながら鮎の体長を示すと、母は「すごいねぇ」と驚いた。
「じゃあさ、颯。川とかお魚さんの絵を描いて、おじいちゃんにプレゼントしたら?おじいちゃんきっと喜ぶとおもうなぁ。」
「そっか!描く!」
 こうして、良く言えば母に薦められ、あえて下心を持って言えば母の口車に乗せられながら、颯は絵を描いた。煌めく水面に、所々荒い岩が立ち並んだ絵である。
 祖父曰く、「東山魁夷の生まれ変わり」だと褒めたその絵を、祖父自身が初めて見た時、目を見開き、
「どうして...」
とだけ発して、しばらくじっと絵を見つめていたそうだ。
 そんな祖父を見て、颯が
「おじいちゃん、それおじいちゃんのために描いたんだ。あげる。」と言うと、祖父は今まで見たことがないくらい喜んでくれた。今でも時々夢に見るぐらい、颯の中で印象に残っている表情である。

 後々祖母の口から聞き知った話では、戦前に生まれた祖父は、戦争にこそ行く年齢ではなかったものの、貧しい地方農家の出であり、今の颯ぐらいの頃にはもう高校を卒業し、その後すぐ、出稼ぎに東京まで出て勤しんでいたらしい。
 後に安定した職につき、祖母と出会ってからも、祖母はおろか他の誰に対しても滅多に自身の過去について語ろうとしなかったそうだ。
 しかし、定年を迎えた年のある日、いつものように祖母が夕食の洗い物を終えると、
「ちょっと話がある。」と言って祖父は祖母を呼んだ。

「私は、若い頃絵描きを目指していたんだ。」
 話は、祖父の過去についてだった。
「私は東北の片田舎で生まれた。君も知っているように、家自体はさほど貧しいということもなく、でも裕福ということもない平均的な家庭だったんだ。
 けれども、私はあいにく次男坊だったから、いつまでも家にはいられなかった。かと言って大学に進むほど余裕があった訳じゃない。だから私はそこで、絵筆を放り投げて、捨ててしまったんだ......
  
 でも、たとえ表現する手段がなくったって、私の頭の中にはいつも絵があった。そんな、根を伸ばすことすらできない、いわば“イメージの種”の中に、特に印象深い奴があったんだ。
 キラキラした水が流れている川の絵で、これだけが何時迄たってもずっと忘れることが出来ないで残り続けている。いつか実物を見てみたいものだ。」
 
 祖母は何か事情があるんじゃないかと、それまでは敢えて祖父に過去について問い質すようなことはしなかったそうだが、何となく感じてはいたらしい。話の最中には特に何も突っかかったりせず、黙って祖父の告白を聞いたという。


 ある夏の日の祖父の顔。そう、祖父の想像を上回る喜びようを純粋に嬉しく思った颯は、それから毎日のように絵を描き始めた。
 意外にも遺伝からなのか颯の絵の才は優れているらしく、翌年の学校主催の絵画コンクールで、金賞を受賞したほどだった。

 そのコンクールで颯は、他でもない”祖父の絵”を描いた。今まで祖父が感じてきた様々な感情を、颯なりに思い浮かべながら描いた祖父の顔は、皺が深く刻まれた苦労人の人相をしていながらも、見る側がそれに気づかないほどの、屈託のない笑みを浮かべていた。
(この絵を見せたらどんなに嬉しそうな顔をしてくれるのかな)
 そう思いながら、颯は今年の夏また祖父の家を訪れるのを楽しみにしていた。

 数日後、夏休みの初めの、アブラゼミが相変わらず威勢良く鳴くじめっとした夏のある日。
「プルルルルル......プルルルルル......」
 家の固定電話が突然鳴った。
 母が受話器を取り上げて話し始める。世の女性特有の、”電話向きの声”で応対した母の声は次第に曇り、しまいには絶句した。颯はもうこの時、何か嫌な予感がしていた。

 8月5日、祖父が死んだ。死因は、突然の心臓発作だったという。
 ちょうどその日から三日後の8日に予定していた祖父母の家への小旅行は取りやめになり、再び祖母、そして祖父に再開したのは斎場でだった。

 祖父が死んだ。そんな言葉を聞くと、頭では理解しても、心のどこかから「ありえない!」という声が湧き上がってくる。実際、葬式が進行しても、颯はまだ祖父はこの世で生きているという気がしてならなかった。
 結局、颯が涙を流すよりも早く、祖父は僅かな骨を残して焼き尽くされた。
 
@ 火葬後の会食
 祖母は颯の隣に座り、けれど決して食べ物に手を付けずにいた。祖父の死に憔悴しているのかと言われればそうではなさそうだったが、一つ確かなのは祖母が何か変わった気がするということだけだ。
 (何が変わったんだろう...)
 颯が答えに思いを巡らしていると、急に祖母が颯に向かって話しかけた。
「颯、あなたに伝えなければいけないことがあります。おじいちゃんが最期に残した言葉です。」敢えてかは分からないが、祖母は今まで颯が聞いたどの時よりも強く、大いなる悲しみを含んだ声で言った。祖母が話すと、それまでささやかながら互いに会話を交わしていた親戚たちも黙り込み、一言一句耳に入れようとするかのように注目を祖母に集めた。
 颯は唾をのみこむ。
「『颯が今度はどんな絵を描いたのか楽しみだな。』それが、あの人が最期に残した言葉です。」
 颯は当時何も言えずにいた。しかし、今になってようやく理解出来た。
 人は死んだらそこでぷっつりと糸が切れたように、もう決してこの世とかかわりを持つことは出来ない。
 だからこそ自分は、祖父が人生の最終章で絵を見て感動し、そしてこれからの人生に色どりを添えかけたように、自分の絵を通じて多くの人の人生を彩ることにこそ、自分自身が絵を描く価値があるんだと気づいた。
 そう、だからこそ、人生で何も残さずにいるなんてことはしたくない。
 そう、初めて思えた。

 葬式の帰りに、祖母があの川の絵を颯に渡した。
「この絵は颯が持っておきなさい。きっとこれからの颯を支えてくれるわ。」だそうだ。

 颯は家で、絵の前に立っている。もうとっくに風呂上がりのほとぼりは冷めているはずなのに、何故か気持ちが高ぶるのを感じた。
(そうだ。自分はあの時、あの斎場で画家になる決意を固めたはずなのに、中学受験やら何やらに追われてすっかり忘れてしまったんだ。
 おばあちゃん、あの時の言葉がようやく理解できる迄になれたよ。)
 ふとした瞬間に「画家」という職に就くため、藝大という進路を進むことについて思いを巡らせ始めてから数か月。やっと颯は決意を固めた。
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