油画に向き合うということ

文字数 1,437文字

 ―三年生十二月 受験まで二か月
 「東大」を目指す学生は、人一倍勉学に励む。その際、塾は学生の受験勉強を支援するための強力な裏方となる。
 上は勿論どのような分野であっても共通する所があり、颯、尚一、階の三人は遅れを埋めるためにも”猛”が付くほどの特訓を始めた。それは奇しくも三年生の十二月、即ちのころ二か月で受験という、かなりのハードスケジュールを送ることになるだろうと予想できるタイミングだった。

@ 颯  猛特訓
 ここで一度、東京藝大について深堀りしてみよう。
 「芸術界に於ける東大」とも称される当大学は、全学部を合計すると、約2000人の学生を擁している。その中でも颯が目指している絵画科油画専攻は藝大内部でも屈指の倍率の高さを誇っている。
 試験内容は一次試験が鉛筆素描、そして二次試験が油画の制作である。試験には当然作品を制作するための道具が必要となるわけだが、これが意外と多い。例えば、一次試験のデッサンだけでカルトン(下敷き)、木炭、練り消しゴム、消しゴムなどであり、油画制作となるとこれ以上に道具を持参する必要がある。
 また、試験の合否について言うと、その倍率の高さから二浪や三浪はごく普通の世界だそうで、その異質さが良くうかがえる話だ。

 さて、話を特訓に戻すと、美術の先生に相談した颯は早速その翌日から朝と放課後、美術室に通う生活を始めた。
 とにかくまずは経験からだと、過去問に取り組む日が続いた。ただ、試験は2日の渡るものもあるためそれらは休日に回すことでひたすら数をこなす日々が続いた。
 先生の添削は、初めの内はダメ出しが多く打ちひしがれるときも多かった。ある時は「構想の甘さを厳しく追及され、数えきれないぐらい描き直してやっと許容できるレベルまでもっていったような作品もある。
 
 そんな日々にも慣れてきたある日、いつものように少し眠い目をこすりながら美術室の扉を開けると、西川先生とは別にもう一人人がいた。白髪ながら、ピンと背筋を伸ばしているからか、若々しくパワフルな印象を与える人だった。
「君が颯君かな。」
「はい。」
 誰だろう、初めてみるけど...
 颯の疑問に答えるように、その人は自己紹介した。
「今日から直に指導することになった社です。」
「社先生は、私の師にあたる人です。そろそろ颯君には油画の技術を本格的に積み直してもらう時期だと考えたので、今回お呼びしました。」
「よろしくお願いします。」

 社先生の授業は、都内にあるアトリエで行われた。アトリエに入ると、まず目についたのはアール・ヌーヴォーを思わせる大きなポスターだった。
「それはミュシャのものです。昔知人の骨董屋から買ったんですが、まあ、真贋は不明ですけどね。」
 アトリエ内は独特な臭いで満ちており、所狭しと油画が積まれている。
 そうして左右を絵に挟まれて狭くなった廊下を抜けると、そこにキャンバス台があった。
「あれを好きに使ってください。作品を描き終えたら私が添削いたしますので。」
 そう言うと、社先生は自分の作業部屋に向かおうとしたので、咄嗟に
「すみません。何かお題はないんですか?」と尋ねた。
「君は何かを描くときに、いちいち他人から指図されて描くのかい。」
 そう返されると、ぐうの音も出ない。
 兎も角も、颯はキャンバスの前に座り、一から油画制作に取り掛かった。
 最後に社先生がぽつりとつぶやいた。
「ちゃんと見なさい。」
 その言葉は、意味が良くとらえきれないにもかかわらず、強く頭に残った。
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