衝撃、そして淡い不安に包まれて

文字数 2,222文字

注)この作品には、実際に存在する大学が登場しますが、行事、受験日の日時・詳細にはフィクションが含まれます。実際の日時・詳細は各大学HPを確認してください。

 
―プロローグ
 一歩踏み出すごとに、町は姿を変える。
 しかし、それとは対極に無表情の人々は、せわしなく、けれどもどこかのんびりと自分の「いるべき場所」へと向かってゆく。
まだ低い太陽は、彼らの視界をチカチカと遮っては、建物の裏に隠れを繰り返していた。

” 7:37” 、LED型の発車標にはそう表示されている。都内屈指の名門青林学院高校の三年生、里木颯は最寄り駅のホームでぼんやりと電車を待っていた。

 目の前には、大手予備校の広告が「今年の東大合格者数」を大文字で謳っている。
〈まもなく、2番線に 各駅停車「渋谷」行きの電車が参ります〉
この数年間、毎日のように聞いてきたアナウンスが、今日も変わらずにホームの隅々に響く。
「自分はどうしたい…」颯は無意識の内にそんな言葉をつぶやいていた。

―二年生三月 受験まで十一か月
「一同、礼。」
 凛とした副校長の声が、体育館に響き渡る。
一つ上の先輩の卒業式、一見して厳かに見える式とは裏腹に、校内は密かにあるうわさで持切りになっていた。
「今年の三年生の現役東大合格者数は過去最低らしい。」
「先生たちが深刻そうな顔で話し込んでるのを見た。」
 そうした嘘なのか真実なのか分からない雑多なうわさは、今や学校全体の一大注目事だ。
 近年は一目でわかる“ランキング表”によって世間の人々、特に熱心な教育ママの学歴主義がより一層煽り立てられることになっている。だから、順位の変動が即ちその高校の評判を左右する重要な指標となっているといっても良いくらいなのだ。
 長年“ランキング”首位を占めてきた青林学院高校の教師陣が頭を抱えるのも当然と言えば当然だった。
 実際の肌感覚でも、颯が卒業生らの背中を見ているとあからさまに気落ちしているような先輩が点々と見受けられ、まるでうわさが本当であると物語っているみたいだった。
 
 式が進むと、次は早くも卒業生の代表挨拶である。
 今年の卒業生代表は体育祭の応援団長を務めていた先輩だ。しかし、その先輩も今日は、体育祭で東奔西走し、燦々と燃え盛っていた先輩の姿が懐かしく感じられるほどマジメな口調だ。
「まずは、御来賓の皆様方、そして私たちを教育してくださった先生方…」と何十代も前からずっと変わらずに使い古されてきた決まり文句が並べられる。颯をはじめ、周りの同級生も違和感甚だしいというか、やはり先輩もこういう場面では暴れないんだなと少し期待外れだとでも言うような表情をしていた。

 けれど、この挨拶はある点によって、これまでとは異質なものになった。というのも、いざ先輩が在校生に向けて言葉を贈る段になると、急に一呼吸分だけ間を開けてから、
「在校生諸君、君たちには是非とも人一倍学業に励み…」と殊更学習面について強調した言葉を述べたのだ。

 体育館が、俄にざわめきだした。各々の目から退屈の色が消え、その代わりにかすかな不安と驚きが宿っていた。
 
―三年生四月 受験まで十か月
 冬が明け、ほのぼのとした陽光が人々を照らすようになった春。ようやく、列島各地の高校に於ける昨年の東大合格者数が世間に明るみに出てきた。例年60人代後半を保っていた青林学院高校は今年、合格者数25人に急落し、週刊誌に取り沙汰されるほどにまでなっている。
 書店の前を通ると、「名門青林学院 失墜」とまるで芸能や政治のスキャンダルを糾弾する時のように強調された見出しが、目にちらついて仕方がない。
 こうして迎えた始業式の朝、すでにニュースを耳にたこができるほど聞いたであろう生徒たちは、なにか校長から言葉があるのではとひっきりなしにうわさしあっている。”生徒ゴシップ”曰く、何やら青林学院の同窓会兼後援団体「青葉会」から校長に対し、東大合格者の事でかなり強く圧力が加えられているというのが最有力情報らしい。酷いものになってくると、国が校長解任に関する協議を進めているなんていう話もあった。

 兎も角、いつもの始業式ならたいていクラス替えを話題にしているものなのに、この日はざわめきが広まる体育館の中でそんな話題を口にする人はごく少数にとどまっていた。

「次は、校長先生のお言葉です。」
相変わらず凛とした副校長の声は、かろうじて粛々とした雰囲気を醸し出してはいるが、珍しいことにかすかにふるえている。
 校長はまず、毎度の如く冗長な挨拶を済ませ、いざ本題に入るとばかりに咳払いして、
「えー、ところで皆さんの多くが既に聞いているとは思いますが、昨年度の進学実績の事です。」と述べた。そして校長はゴクリと唾を飲みこんで続ける。
「我々は、昨年の進学実績を鑑み、進路指導の充実の必要性を痛感しました。よって、今年度から特に最難関校の受験対策を厚くし、具体策として「東大専科」の設立を検討しています。
 つきましては、皆さんにも、より良い結果のため受験勉強に万全を尽くしてもらいたいと思います。
 是非とも、今年は勝負の年だと思って頑張っていきましょう!」

 校長が…あの普段感情的になるのを見たことがない校長ですら、この様子だった。初めこそはちょっとした笑い話にしていた生徒も、徐々に本気で東大合格実績がいかに大きな影響を持つかを理解し、そして東大受験機運が急速に高まっていった。数人を除いては…
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