ダブルシンク?
文字数 2,082文字
「はぁ」 思わずため息が漏れる。
角ばっていて、しかもかさばる画架を家から持ってくるのは実際かなり面倒な作業で、移動も一苦労だ。だけど、その大変さは絵描きにしか味わえない特権だろうな。そう考えると、さほど辛さは感じられなかった。
通学路、いつも歩くこの道も季節によって装いを変える木々が日々小さな変化を与えてくれている。時々、風が吹くと頭上の葉桜から枝にしがみついていた花弁がひらりと舞い降りてくる。
儚くありつつも、生命力を同時に感じさせる不思議な木が、颯は好きだった。
と、少し頭を上に持ち上げながら街路樹の桜を眺めていると後ろから声がかかった。
「おはよう。」
「ああ、おはよう。」
声の主は、鈴川拓。颯のクラスメートであり、且つ親友と呼べる存在だ。
「またそんなもの持って登校してるの?」
「まあね。今日部活あるから。」
「颯、絵上手いもんなぁ。毎日どれくらい描いてるんだ?」
「だいたい五、六時間かなあ。」
「えっ!?それでいて成績もいい感じに保ててるっていうのがすごいよな…」
少しの間沈黙が続く。
ふいに拓は口は開くと、
「なあ、始業式の時の校長の話覚えてる?」と尋ねた。
「なんか、難関大の受験対策で、「東大専科」がどうとかっていうのだっけ?」
「そうそう。それでさ、何ていうか…お前はどうするんだ。どこの大学受ける?」
「拓はどこ受けようと思ってるの?」
「俺は東大受けてみようかなって思ってるんだ。」
「そっか、自分はまだ決まってないかなぁ。」
また嘘をついてしまった。絵で進学しようと心に決めていたのに。
けど、颯ははっきりと記憶にとどめたままにしているのだ。確か中学生の頃だったか、拓に将来絵描きになるんだと打ち明けた時に真っ向から否定されたことを。
まあ、当然の如く拓はそんなことを言ったことは微塵も覚えていないのだが......
やがて、学校近くになるとちらほらと同じ学校の生徒が歩いているのが目に入った。皆、手に『鉄壁』や鉄緑会のテキストを持って登校している。
―鉄緑会:中高六年一貫校の生徒を対象とした東大受験指導専門塾。ちなみに、『鉄壁』は鉄緑会の英単語帳の名前である―
新学年が始まってからは、校長の言葉が原因かは分からねども、確かに校内でも時間があれば勉強をする生徒が増えてきているという実感がある。そしてその大半が鉄緑会に通っているといううわさだ。そうなってくると、颯のように鉄緑会に通っていない生徒は、通っていないというただそれだけのことを原因に、クラスメイトとの会話についていけないこともあった。
実体験を示す迄もなく、目を前に向ければ鉄緑会に通う同級生たちが話している。
「そういえばこの間の”鉄”の講評でさ、 “こんな誤答するなどチンパンジー以下です。”ってあったじゃん。」
「ああ、あれね。」
「なんかめっちゃチンパンジーに失礼じゃない?チンパンジーだってそんなに頭悪い生き物じゃないよな。」
「たぶんそういうことが言いたいんじゃないって。」
「え?」
「そういやその下には「鉄緑もここまで落ちたか」とか書いてたよな。うーん。まあでも…流石にあの誤答はヤバいって思ったわ。」
「いや、まあ自分チンパンジー以下なんだけどね。」
「まじかよ。なんかごめん。」
そんな風な会話を聞いていると、少しだけではあるが羨望の眼差しをむけてしまう。「絵で進学したい」という思いに揺らぎはない。でも、クラスメイトの会話の節々に何故か疎外感を感じてしまい、「自分の進みたい道ってホントは美術じゃないのかな」と、消極的になってしまう自分もいた。
始業の鐘が鳴る。この日の一時間目は数学だった。
「席ついて~はいはい、『鉄壁』もしまって下さいね。」
いつも通り、ざわめいている教室に、先生の声が響いた。
「今日はー、逆関数の微分についてやりたいと思います。具体的にまず逆関数がどんなのだったかってゆーと…」
教室を見渡すと、点々と内職にふける生徒の姿が見られる。そのほとんどが『鉄緑会』のテキストに集中しており、授業に耳を傾けようとするそぶりも見せない。
しかし、先生陣にとっても見慣れた光景であるためか、真剣に叱る人も少なく、たいていは放任されているのが実態だ。
「そういえばこの内容ってもう既習ずみなんですか?」
先生の問いに、
「もう何周かしました。」そう答えたのはクラスの隅の席に座っている塚田尚一、鉄緑会に通うクラス随一の”がり勉”だ。
「じゃあ、この問題分かるよね。解いてみて。」
いや、塾ってなんだっけ?学校って塾にこんなに影響されてていいの?......とまでは思わないが、颯は何となく反感のようなものを塚田に対して抱くことがある。
別に颯には塚田のような”がり勉”を嫌う気持ちも、鉄緑会のカリキュラムに変な口出しをしたいなどという気持ちは毛頭ない。けれども、何か一言で表し切れない妙な嫌悪感と、かすかな羨ましさのような気持ちを抱いてしまう。
こんな時、ついつい颯は絵なんて捨ててしまって皆と一緒に東大を目指した方がいいのかなと浮ついた思いを抱いてしまうのだった。
角ばっていて、しかもかさばる画架を家から持ってくるのは実際かなり面倒な作業で、移動も一苦労だ。だけど、その大変さは絵描きにしか味わえない特権だろうな。そう考えると、さほど辛さは感じられなかった。
通学路、いつも歩くこの道も季節によって装いを変える木々が日々小さな変化を与えてくれている。時々、風が吹くと頭上の葉桜から枝にしがみついていた花弁がひらりと舞い降りてくる。
儚くありつつも、生命力を同時に感じさせる不思議な木が、颯は好きだった。
と、少し頭を上に持ち上げながら街路樹の桜を眺めていると後ろから声がかかった。
「おはよう。」
「ああ、おはよう。」
声の主は、鈴川拓。颯のクラスメートであり、且つ親友と呼べる存在だ。
「またそんなもの持って登校してるの?」
「まあね。今日部活あるから。」
「颯、絵上手いもんなぁ。毎日どれくらい描いてるんだ?」
「だいたい五、六時間かなあ。」
「えっ!?それでいて成績もいい感じに保ててるっていうのがすごいよな…」
少しの間沈黙が続く。
ふいに拓は口は開くと、
「なあ、始業式の時の校長の話覚えてる?」と尋ねた。
「なんか、難関大の受験対策で、「東大専科」がどうとかっていうのだっけ?」
「そうそう。それでさ、何ていうか…お前はどうするんだ。どこの大学受ける?」
「拓はどこ受けようと思ってるの?」
「俺は東大受けてみようかなって思ってるんだ。」
「そっか、自分はまだ決まってないかなぁ。」
また嘘をついてしまった。絵で進学しようと心に決めていたのに。
けど、颯ははっきりと記憶にとどめたままにしているのだ。確か中学生の頃だったか、拓に将来絵描きになるんだと打ち明けた時に真っ向から否定されたことを。
まあ、当然の如く拓はそんなことを言ったことは微塵も覚えていないのだが......
やがて、学校近くになるとちらほらと同じ学校の生徒が歩いているのが目に入った。皆、手に『鉄壁』や鉄緑会のテキストを持って登校している。
―鉄緑会:中高六年一貫校の生徒を対象とした東大受験指導専門塾。ちなみに、『鉄壁』は鉄緑会の英単語帳の名前である―
新学年が始まってからは、校長の言葉が原因かは分からねども、確かに校内でも時間があれば勉強をする生徒が増えてきているという実感がある。そしてその大半が鉄緑会に通っているといううわさだ。そうなってくると、颯のように鉄緑会に通っていない生徒は、通っていないというただそれだけのことを原因に、クラスメイトとの会話についていけないこともあった。
実体験を示す迄もなく、目を前に向ければ鉄緑会に通う同級生たちが話している。
「そういえばこの間の”鉄”の講評でさ、 “こんな誤答するなどチンパンジー以下です。”ってあったじゃん。」
「ああ、あれね。」
「なんかめっちゃチンパンジーに失礼じゃない?チンパンジーだってそんなに頭悪い生き物じゃないよな。」
「たぶんそういうことが言いたいんじゃないって。」
「え?」
「そういやその下には「鉄緑もここまで落ちたか」とか書いてたよな。うーん。まあでも…流石にあの誤答はヤバいって思ったわ。」
「いや、まあ自分チンパンジー以下なんだけどね。」
「まじかよ。なんかごめん。」
そんな風な会話を聞いていると、少しだけではあるが羨望の眼差しをむけてしまう。「絵で進学したい」という思いに揺らぎはない。でも、クラスメイトの会話の節々に何故か疎外感を感じてしまい、「自分の進みたい道ってホントは美術じゃないのかな」と、消極的になってしまう自分もいた。
始業の鐘が鳴る。この日の一時間目は数学だった。
「席ついて~はいはい、『鉄壁』もしまって下さいね。」
いつも通り、ざわめいている教室に、先生の声が響いた。
「今日はー、逆関数の微分についてやりたいと思います。具体的にまず逆関数がどんなのだったかってゆーと…」
教室を見渡すと、点々と内職にふける生徒の姿が見られる。そのほとんどが『鉄緑会』のテキストに集中しており、授業に耳を傾けようとするそぶりも見せない。
しかし、先生陣にとっても見慣れた光景であるためか、真剣に叱る人も少なく、たいていは放任されているのが実態だ。
「そういえばこの内容ってもう既習ずみなんですか?」
先生の問いに、
「もう何周かしました。」そう答えたのはクラスの隅の席に座っている塚田尚一、鉄緑会に通うクラス随一の”がり勉”だ。
「じゃあ、この問題分かるよね。解いてみて。」
いや、塾ってなんだっけ?学校って塾にこんなに影響されてていいの?......とまでは思わないが、颯は何となく反感のようなものを塚田に対して抱くことがある。
別に颯には塚田のような”がり勉”を嫌う気持ちも、鉄緑会のカリキュラムに変な口出しをしたいなどという気持ちは毛頭ない。けれども、何か一言で表し切れない妙な嫌悪感と、かすかな羨ましさのような気持ちを抱いてしまう。
こんな時、ついつい颯は絵なんて捨ててしまって皆と一緒に東大を目指した方がいいのかなと浮ついた思いを抱いてしまうのだった。