第8話 初めての「会社員」

文字数 1,924文字

 将来、自分が社長になることを前提に入ったような会社は、社員はおらず、多くの中小企業が入ったワンルームマンションの一室にあった。
 貯水槽清掃業は、建設業に属する。私の会社は、建設業界で大手とみられる三つの会社の下請けで、私と一緒に現場仕事をしてきた親方は「外注工事員」、いわゆる「職人」と呼ばれる立場だった。
 この三つの親会社から仕事を頂き、その現場一つが五万円だとしたら、その三パーセントを我が社が取り、残りが職人の日当となる。その職人が、会社には三人いた。
 私の仕事は、三人の職人からファックスされる作業日報を、元請け会社に提出するために「作業報告書」としてきれいに書き直すことだった。

 だが、その仕事はパートのおばさんの仕事だった。会社の利益となる現場仕事は、元請けからファックスで流されてくるので、営業に行くこともない。私が社員になったことで、そのパートのおばさんの仕事を奪ってしまいそうだった。実際、社長も「亀ちゃんが書き方覚えたら、○さんには悪いけど辞めてもらおうと思ってる」と言っていた。
 時間に追われることもなく、自分がやらなければならない仕事もなかった。ただ私は将来のために、ここにいるだけだった。ホントウにオレの人生、決まってしまったかなと思った。

 通勤ラッシュに流されて、翌日も会社へ行く。しかし、一日約九時間、特にやるべきこともなく、貯水槽衛生管理の本などを読んだり、社長と将棋を差したりしていると、楽なはずの時間も苦しく感じられた。表面上は何ともなく、世間話などをして笑い合っていたが、パートのおばさんのことも気になった。
 四日目に、私は会社に行きたくなくなった。そして無断欠勤をすると、そのままズルズルと行かなくなった。
 妻は、(こいつはサラリーマンになれないヤツだな)と感じているようだったが、私が家にいることで、ずいぶん楽になっている様子だった。私は、今は家にいて、身重の彼女の代わりに家事をやろうと決めた。

 何日か経ち、OFFにしていた電話の音量スイッチをONにすると、すぐ鳴った。親方からだった。
「亀井君、会社行ってないんだって? 何してるの?」
「いえ、別に何もしてないです。家でファミコンしたりメシ作ったり…」
「じゃあ、オレんとこ来てくれ。また一緒にやろう」
 バイトがいなくて、困っていたらしい。これをきっかけに、社長に「すみません、現場の方がいいです」と、電話をかけることができた。

 秋に、子どもが生まれた。親方から祝い金を十万円も頂き、いっそう頑張って働こうと決意する。
 年が明け、また秋になる。その頃から、私はまっすぐ家に帰らず、パチンコ屋へ行くようになった。
 現場が二時三時に終われば、早く家に帰れる。ちょっとぐらい寄り道をしてもいいだろう、と軽い気持ちだった。
 たまに儲かれば、「親方から臨時収入が出た」と嘘をつき、彼女にケーキを買って帰ることができた。しかし、ほとんどは儲からず、お金を失くし、親方からお金を借りる始末だった。

 親方は、「また負けたのか。もう、やめたら? パチンコは。競馬の方がいいぞ」と、競馬の良さを講じながら、笑って気前良く万札を渡してくれた。
 しかし、これは当然、月末の給料から引かれるものなのである。現金支給だったので、妻に渡す時、ごまかすこともできてしまった。
 現場の肉体労働に従事する人間は、ギャンブル好きが多いようだった。勝負事に賭けることと現場で汗をかくことには、接点がある。まったく、「目先のことをどうにかする」という点だ…

 私は、環境を変えたいと思い始めた。なまじ早く、仕事が終わってしまう日があるから、パチンコ屋に行ってしまうのだ。また、毎月払う家賃の九万円は、ただ捨てているだけで、もったいないね、と妻と話してもいた。
 日当は、親方の払える最高額で、もう昇給はなくなっていた。もちろん生活はできていたが、先のことを考えると、このままではいけない気持ちになった。
 そんな時、彼女が「これ、いいんじゃない?」と求人雑誌を見せてきた。岐阜県土岐市にある、スーパーマーケットの正社員募集だった。固定給は年齢給で、一年、歳をとるごとに、一万昇給していく。そして最大の魅力は、3DKの部屋に毎月一万円で住めるということだった。会社の「借り上げ社宅」ということだった。

 ここにしよう、と決めた。けっこうな田舎のようだし、子どもを育てる環境としても良いだろう。会社の説明会が新宿で行われ、面接に行くと、合格した。
 親方に事情を話す。
「筒井君、何年やったんだっけ?」
「二年半ですね」
「二年半か…。ちょうど、辞めどきかもしれんなあ」
 少し淋しそうに笑いながら、そう言ってくれた。
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