第19話 印刷工場

文字数 2,909文字

 印刷会社といっても、ペーパーの印刷ではなかった。配線版の印刷だ。電卓を分解すると、緑色の板の上に、配線がハンダづけされている。そのハンダづけが、されていい箇所とされてはいけない箇所がある。されてはならない箇所を守るために、インクで「印刷」する。「ピールコート」と呼ばれるものだった。

 朝八時少し前に、自転車の後ろに子どもを乗せて家を出る。保育園に預け、そのまま工場へ。妻が毎朝早起きして、私の弁当をつくってくれた。
 最初のうちは定時に上がれたが、そのうち残業が当たり前になった。
 初任給の明細を見て、驚いた。基本給が、十万円だったのである。そこに、技能手当だとか色々な手当がついて、二十一万になるのだった。残業代は、基本給の時給換算で支払われるから、どんなに残業しても会社にとって大きなダメージにならない。うまくできていると思った。毎日、二、三時間の残業は当たり前で、これは家が近くでないと、できないと思った。

 社員・パート・アルバイト合わせて五十五人ほどの会社だったが、従業員の入れ代わりが激しかった。毎月、大袈裟でなく十人弱は、社員やバイトが辞めていった。そして常に求人広告を出しているから、代わりの人間もすぐ来るのだった。
「長」のつく人は、勤続十年の人ばかりだったが、ぺーぺーでは、最高四ヵ月が「ベテラン」だった。

 私の主な仕事は、フジフィルムの「写ルンです」のシャッター部分の印刷だ。コンビニにあるコピー機をひと回り大きくした程度の印刷機で、基本原理は、RISOの「プリントごっこ」と同じである。
「写ルンです」用の版をセットし、テーブルに灯りをつけ、印刷すべき配線板を置く。版の上から、うまくピールコートされるべく、インクが板に乗るべき箇所に合わせる。大体この辺かな、というところで、配線板の一角に合わせて棒状の薄い板をテープで貼る。版の上にインクをたらす。

 足元にあるペダルを踏めば、バタンと版が降りてきて、インクが金属のヘラによって手前から奥へ自動的になぞられ、ガタンと版が「く」の字に上がる。ピールコート印刷された配線板をチェックし、印刷がズレていたら、テーブルを縦横斜めに動かして合わせる。
 ヨシ、となったら、タイマーをセットする。これで、足でスイッチを入れることなく、五秒位の間隔で版が自動的に降り、また「く」の字に上がり、また自動的に降りる。
 この数秒のあいだに、インクの乗った配線板をサッとテーブルから取り、新しい配線板を置く。

 ピールコート印刷された配線板は、印刷機のすぐ横にベルトコンベアがあり、そこに流す。摂氏百三十℃の乾燥機・冷ますための冷風機にさらされて、八メートルほどのコンベアに流された配線板は、その先に座るパートのおばさんの検査を受けて、箱に詰められていく。
 私は、とにかくムキになって仕事に精を出した。「一日二千枚刷れば大したもんだ」と部長から言われていたが、三千枚刷れるようになった。
「たくさん仕事したって、しょうがねえじゃん。給料上がるわけじゃないし」という先輩もいた。しかし私は意に介さなかった。

 職場には、聴覚に障がいをもった男性もいた。三十代前半で、勤続十年は過ぎていた。私はこのSさんと、いちばん仲良くなった。
 Sさんには、やはり聴覚に障がいをもつ専業主婦の奥さんと、障害のない小学一年のお子さんがいた。高齢のご両親と同居もしていて、まさに一家の大黒柱だった。
 だが、給料の明細書を見せ合った時、私の給料より二、三万多い程度だった。「健常者」で勤続十年の人は、皆「長」がついているのに、Sさんには無かった。「障がい者」というだけで、何か差別があるのだろうかと思った。

 だが、Sさんは何の不平も見せなかった。内心ではどうだったのか、分からない。ただ、自分のやるべき仕事を真剣にこなす一途さには、差別だとか地位だとかを超えていく強さがあるように感じられた。
 私は、Sさんのように淡々と「わが道を行く」ように働けなかった。社長や部長が傍に来ると、要らぬ意識をしてしまうのだ。
「おう、筒井君、がんばっとるな」
 社長と二人の部長は、よくそう言って声をかけてきた。細められた眼を見ると、ああ、オレ、評価されているのかな、と意識してしまう。
 上司の目が介入してくると、何か「汚された」気になった。そして「部下」である同じ立場の従業員達からも、
 ── あら、この人、いいカッコして。
 そう見られかねなかった。

 ひとりの年配の女性社員から、私そう見られていたと思う。まるで私が「評価されたい」という考えの上で、せっせと働いている、と見ている様子だった。
 何かにつけて、私にイチャモンをつけてきた。文句をつける機会を、狙われている気がする。私は、この社員に嫌われていると感じていた。

「筒井さん、そのラック、どこから持ってきたの?」
 一階からエレベーターでラックを運んだ時だった。待ち構えていたように、つかつかとやって来て、彼女は顔を紅潮させてそう言った。
「いえ、一階です」
「一階のどこから?」
「玄関前からです」
「あそこにあるのは、一階専用なの。綺麗なラックでしょ。ダメよ、あなたのせいで、一階の人達に、二階はズルイ、って言われちゃうわ」
「あ、そうなんですか」
 平静そうに答えたが、心臓はどきどきしていた。なんでそんな赤い顔して、金切り声で言われなければならないのか分からなかった。知らなかったのだから、「これから気をつけてね」「はい気をつけます」、それで済む話だと思った。

 しかし、それだけでは済まされないような迫力を、私は感じた。
 彼女と隣り合わせの印刷機で版合わせの作業をしていると、いや、こうした方がいい、ああした方がいいと必ず口を挟んできて、私の作業が遅れてしまう。
 そしていざ印刷を開始すると、私の方をじろじろ見て、そのスピードをまるで競り合っているようだった。私は、この彼女の目線が気になって仕方なかった。

 思えば、この人が一日かかって何百枚か刷ったものを、私は半日で同じ枚数を刷った時があった。その翌日あたりから、私を見る目に、敵意のようなものが入り始めた気がする。
 ほかの人達とは、和気あいあいとつきあっていたが、この女性社員だけは苦手だった。
 あの、ラックを一階から私が運んだ時の、怒りの形相が忘れられなかった。そして、「二階はズルイと思われちゃう」という言葉も、引っ掛かっていた。

 同じ会社で働いているのに、ずるいもクソもないではないか。一階と二階、仲良くやっていけばいいではないか。なんで「ズルイ」になるのか。
 みんな、自分のことしか考えず、ただ働いているだけなのだろうか。一日十時間も拘束される、同じ会社に一緒にいながら、みんな自分のことしか考えていないのだろうか。
 私は、どうせ働くのなら、みんなと「気持ち良く」働きたかった。そうして一日一日、充実した日を過ごしたいだけだった。一生懸命仕事するだけでなく、できれば皆と仲良く接し、和気あいあいと仕事をすることは、私の一日の充実に必要なことだった。すると、私も自分のことしか考えていなかった、ということになる…
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