第1話 中退、その後
文字数 1,445文字
大学中退後も、私はSさんの家にイソウロウを続けていたが、ひょんなことから東松山市にある美術館に住み込みのバイトをすることになった。
そこには、展示する作品の入れ替える時などに、Sさんと一緒に手伝いに行っていた。老画家と話をしていた時、「モスクワで、穴の中で自然発酵させたチーズが本当に美味しかったのよ」という話になり、「じゃあここでも穴を掘って、チーズ作りましょうか」と私が言うと、「あら、いいわね、そうしましょうか」となったのだ。
敷地内の歩道沿いに、ちょっとした崖のような場所があり、私はツルハシと削岩機を使って横穴を掘り始めた。一ヵ月、ひとりで掘り続けると、三、四メートルほどの横穴ができた。さらに掘り進めると、じわじわと水が出てきてしまった。
「じゃあ、その水で鯉を飼います。ご苦労様でした」と謝礼を頂き、作業終了。
都会の生活も捨て切れず、いつまでもSさんの家にいるわけにもいかず、実家に戻って求人雑誌を見ていると、K先生から「新宿の予備校で大検コースを新設するから、そこで働かないか」と電話を受けた。二つ返事で承諾した。
それは「チューター」というアルバイトで、仕事内容は、生徒とよくコミュニケーションをとること。「フリースクール」のスタッフと同じだ。違っていたのは、時給千円が払われることだった。
私は、(ここが、オレの骨を埋める職場だな)と考えた。最初はバイトだが、正社員にもなれるという話で、職場も魅力的だった。スタッフ会議に行くと、「大学なんか行くより、そいつの好きなことをやらせて、それで食って行けるようにさせたい」「個性を伸ばしてやることが大切だ」「学校に合わない人間の感性を大事にしよう」といった意見が飛び交った。
ソウダ、ソウダ、と私も腰を浮かせて共感した。予備校の大検コースというよりも、何か社会運動体のような雰囲気だった。
会議の後は必ず酒の席へ繰り出し、講師たちと交流を重ねる。ルポライターをして本を出している英語の講師、衆議院選挙に出た国語の講師、ドヤ街・山谷で、日雇い労働者の支援活動をする古典の講師などがいた。
生徒募集をかける前の時期で、
── もし、作家になりたい生徒がいたら、この人に話を持ちかけよう。あの人には、こんなタイプの子が合うだろう。
私は、イメージトレーニングをして、来たるべき生徒達にそなえていた。チューターは、講師と生徒の中間に位置する。生徒一人一人の「やりたいこと」を把握し、講師への橋渡しをすることが、自分の仕事だった。生徒と打ち解けて、信頼される関係にならない限り、私は橋にさえなれない。
大検コースは「ユニバース」と名づけられ、『人間には無限の可能性がある。その可能性に向かって旅に出よう』とパンフレットが歌った。
毎週日曜日に説明会が行なわれ、講師や他のスタッフ達と一緒に自己紹介を重ね、開校近くになると、毎朝九時にタイムカードを押し、夕方五時まで教務室の中にいた。机に用意された電話に向かい、大検コースへの問い合わせを待っていたのだ。
まわりの社員達は、当たり前のように働いていた。大学受験科には、よく電話もかかってきて、デスクワークでやるべき仕事もいろいろありそうだった。
私は、バツが悪かった。大検コースには、電話待ち以外に特にやるべき仕事もなく、見飽きたパンフレットを広げ、読んでいるふりをしていたのだ。
広い教務室で、大検関係者は新人社員のSさんと私の二人だけだった。そしてSさんもパンフレットを読んでいた。
そこには、展示する作品の入れ替える時などに、Sさんと一緒に手伝いに行っていた。老画家と話をしていた時、「モスクワで、穴の中で自然発酵させたチーズが本当に美味しかったのよ」という話になり、「じゃあここでも穴を掘って、チーズ作りましょうか」と私が言うと、「あら、いいわね、そうしましょうか」となったのだ。
敷地内の歩道沿いに、ちょっとした崖のような場所があり、私はツルハシと削岩機を使って横穴を掘り始めた。一ヵ月、ひとりで掘り続けると、三、四メートルほどの横穴ができた。さらに掘り進めると、じわじわと水が出てきてしまった。
「じゃあ、その水で鯉を飼います。ご苦労様でした」と謝礼を頂き、作業終了。
都会の生活も捨て切れず、いつまでもSさんの家にいるわけにもいかず、実家に戻って求人雑誌を見ていると、K先生から「新宿の予備校で大検コースを新設するから、そこで働かないか」と電話を受けた。二つ返事で承諾した。
それは「チューター」というアルバイトで、仕事内容は、生徒とよくコミュニケーションをとること。「フリースクール」のスタッフと同じだ。違っていたのは、時給千円が払われることだった。
私は、(ここが、オレの骨を埋める職場だな)と考えた。最初はバイトだが、正社員にもなれるという話で、職場も魅力的だった。スタッフ会議に行くと、「大学なんか行くより、そいつの好きなことをやらせて、それで食って行けるようにさせたい」「個性を伸ばしてやることが大切だ」「学校に合わない人間の感性を大事にしよう」といった意見が飛び交った。
ソウダ、ソウダ、と私も腰を浮かせて共感した。予備校の大検コースというよりも、何か社会運動体のような雰囲気だった。
会議の後は必ず酒の席へ繰り出し、講師たちと交流を重ねる。ルポライターをして本を出している英語の講師、衆議院選挙に出た国語の講師、ドヤ街・山谷で、日雇い労働者の支援活動をする古典の講師などがいた。
生徒募集をかける前の時期で、
── もし、作家になりたい生徒がいたら、この人に話を持ちかけよう。あの人には、こんなタイプの子が合うだろう。
私は、イメージトレーニングをして、来たるべき生徒達にそなえていた。チューターは、講師と生徒の中間に位置する。生徒一人一人の「やりたいこと」を把握し、講師への橋渡しをすることが、自分の仕事だった。生徒と打ち解けて、信頼される関係にならない限り、私は橋にさえなれない。
大検コースは「ユニバース」と名づけられ、『人間には無限の可能性がある。その可能性に向かって旅に出よう』とパンフレットが歌った。
毎週日曜日に説明会が行なわれ、講師や他のスタッフ達と一緒に自己紹介を重ね、開校近くになると、毎朝九時にタイムカードを押し、夕方五時まで教務室の中にいた。机に用意された電話に向かい、大検コースへの問い合わせを待っていたのだ。
まわりの社員達は、当たり前のように働いていた。大学受験科には、よく電話もかかってきて、デスクワークでやるべき仕事もいろいろありそうだった。
私は、バツが悪かった。大検コースには、電話待ち以外に特にやるべき仕事もなく、見飽きたパンフレットを広げ、読んでいるふりをしていたのだ。
広い教務室で、大検関係者は新人社員のSさんと私の二人だけだった。そしてSさんもパンフレットを読んでいた。