第5話 働く目的

文字数 1,685文字

 予備校を辞めると、私は無性に働きたい衝動に駆られた。
 求人雑誌を見て、「交通量調査」のバイトをする。国道沿いに椅子を出し、そこに座ってカウンタをカチカチ押し、国道を走る車の数を数える。実働十六時間の一日限りのバイトで、その日のうちに日当二万円が支払われた。
 友達から紹介されて、貯水槽の清掃というバイトをやる。マンションやビルの屋上にある飲料水用のタンクの中に入って、水垢汚れを落とすという仕事。やはり日雇いで、働いたその日に一万円が支払われた。

 私が、マトモに働いてお金を稼ごうとしたのには、理由があった。「脱学校の会」で好きになった女性をデートに誘いたくて、そのための資金稼ぎをしたかったのだ。
 彼女の顔を思い浮かべると、働くことも苦にならなかった。苦になるどころか、仕事ができることが嬉しかった。チャンと自分で稼いだお金で、二人で居酒屋に行き、乾杯し、一緒にいると、それだけで幸せな気持ちになれたのだ。
 バイト雑誌を見て、正社員募集の企業を探す。なるべく長く続けられるような職種を選ぼうとした。すぐ辞めてしまう情けない自分では、彼女に対して堂々と振る舞えないと思ったからだ。

 人間関係をやろうと思った。人との関係を仕事とするならば、そうそうナイガシロにできないだろう。「ユニバース」は理想的な「教育方針」だったが、それが私を惑わせたようにも思えた。どうせビジネスであるのなら、理想に心を奪われることのない、現実的な所がいいと思った。
 子どもの学力向上だけを目指す「普通」の塾に、面接と筆記試験を受けに行くと、採用された。新小岩にある中堅の進学塾で、中学生を対象に英語と国語の授業を受け持つことになる。
「自分がいなくなったら子ども達が困る」と思えば、私は辞められないだろう。自分で足カセをハメるべく、ここを就職先に選んだ。夕方四時から夜十時までの勤務で、月給は十三万円。
 ネクタイを締めて背広を着ると、新しい自分になったようで、やっとイッパシの「社会人」になれた気がした。

 また、塾が始まるまでの昼間の時間も、働きたいと思った。
 かつて生徒として通った代々木の大検コースでも、チューターという存在が新しくできていた。そこに自分を売り込みに行くと、「経験者」ということで雇われた。週に三日、八時半から十二時半までバイトをする。時給は九百円。
「ユニバース」と違って、ただ大検に合格するだけが目的だ。背広とネクタイの着用が義務づけられているのも、嬉しかった。
 午前中は予備校、午後は進学塾という日々が始まり、休日は生き甲斐のようにデートを重ねた。

 だが、この生活を三ヵ月続けると、身体に異変が生じてきた。鎧を着ているように、いつも重くだるく、頭には常に靄がかかった。ネクタイを締めると、首が絞められるようで、息苦しくなった。
 これはきっと気持ちの問題で、彼女と会えば元気になるだろう…そう思い、死にもの狂いでデートに向かったが、その日初めて、彼女には既に恋人がいることを知らされた。
 翌日、体調が悪いので休む、と予備校と塾に連絡し、そのまま行かなくなってしまった。
 私は、単純にできている自分を、この時になるまで知らなかった。調子のいい時は、心身がとことん充実するが、一度がっくり来ると、どこまでも落ちていく。だが、身体がしっかり変調を来たしてくれたので、二つの勤め先へ辞職を堂々と伝えることができた。

 家でゆっくり休んでいると、友達から「また貯水槽のバイトしない?」と電話が来た。また一日やってみると、アレ? 気持ちがいい仕事だなと感じた。
 一緒に働くのは親方の一人だけで、仕事の目的は「汚れを落とす」という全く単純なものだった。
 水垢で黒ばんだ水槽を、洗剤をつけたスポンジでゴシゴシこすると、みるみる綺麗になっていく。清掃前・清掃後の写真を見ると、その違いが一目で分かった。「自分はこういう仕事をした」という現実が、はっきり目に見えた。
 私は、この「やり甲斐」の虜となった。ちょうど親方の専属バイトが辞める時で、私がその後釜として、毎日このバイトを続けることになる。
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