第29話 夏休み

文字数 2,892文字

 私は日曜の夜の妻への電話を、欠かさず続けていた。修善寺の旅行以来、胸のつっかえが取れたように、彼女は明るく積極的に話すようになっていた。
「夏休みには、子どもに船旅を経験させたいから、八丈島に行きたい。今度はあたしがお金出すから」という妻に、私は喜んでいた。
 職場では、正社員の話が来て以来、「いろいろな仕事を覚えてほしい」と、班長から新しい作業を教わり始め、寮に帰れば「サボテン通信」を書き、読んでくれる人達に郵送作業をする。毎日が、充実を極めていた。

 そして八月になり、三ヵ月ぶりに妻子と再会。
 だが、東京駅で私の姿を見た妻は、心底驚いた様子で、「なあに、その恰好! いやだー」と笑いもせず本気で言った。隣りにいた子どもは「イヤダー」と嬉しそうに真似をした。
 私は短パンにヨレヨレのTシャツにリュックを背負っていた。
「変?」
「変! 下着みたいじゃない、そのTシャツ。なんでそんな靴下…」
「そうかなあ。まあ、乗ろう」
 電車の中でも、妻は私の姿をまじまじと見つめ、深い溜め息をついていた。
 フェリーのターミナルのトイレで、今年の誕生日に妻から贈られたスヌーピーのTシャツに着替え、靴下も履き替える。

 竹芝桟橋から、十時間かかる船旅だ。夜の出港、お盆と重なったこともあり、二等船室は大変な混みようだった。場所を確保しようと、多くの人が我先にとなだれ込んだ。私はその迫力に負け、妻がなだれ込んで確保した。
 通路にはゴザを敷いて眠る人、デッキには、足を海水で濡らしながら寝ている人や、お腹まる出しで、海風にさらしながら寝ている赤ん坊もいた。
 私の足の先に寝ていた若いカップルは、最初抱き合っていたが、夜が深まると背中を向け合って寝ていた。うつらうつらしてくると、隣りに寝ている知らない子どものキックが私の腹に入ってきた。

 妻子は、よく眠れた様子だった。朝になって八丈島に到着しても、われわれにあまり会話はなかった。
 どうでもいいような世間話などのことを、ちょっとは話すのだが、すぐに会話は終わり、あてどない沈黙に陥った。
 フェリーを降り、港から歩いてすぐのペンションへ。荷物を預け、水着に着替えて、海へ。子どもと、浅瀬でビーチボールの投げっこをする。妻は参加せず、遠くの木陰に座ってじっと見ていた。
 島の中を歩き、レストランで昼食を摂る。しかし、やはり会話がない。私はひとりで笑い、妻はしらけている。子も、何となく冷静だった。いたたまれず、棚にあった「クレヨンしんちゃん」を私は読み始めた。せっかく一緒にいるのに、なぜこんなのを読んでるのか…。

 夜は、浜辺で花火大会。
 ひとつの花火が終わって、けむりが風に流される時、大きな流れ星が流れ、歓声があがった。
 流れ星は一瞬で消え、願い事など唱える間もない。
「なんか、お願いした?」
 子どもに聞くと、
「トモちゃんは、流れ星を見たい、っていうのが、お願いだったんだよね」
 妻が笑って言った。

 そして翌朝、事件は起きた。
「昨日渡したトモミの財布は?」妻が聞いてきた。
 私が持っていたはずだった。しかし、昨夜の夕食後、一緒に外へ出た後、財布を確認した記憶がない。その財布は子どものもので、中身の500円玉10枚は、妻のものだった。
 昨夜歩いた道をたどって、私は探しに行った。どこにも無かった。
 浜辺沿いに戻っていくと、向こうから妻子も歩いてきていた。
「ごめん、無いや、ごめん」
 そう言おうとしたが、私は何も言えなかった。ほんとうに悪いことをしたと感じた時、私は何も言えなくなる。
「…ねえ、悪いことした、って思ってるんなら、なんで謝ろうとしないの?」
 やんわりと妻が聞く。
「思ってるよ。ごめんなさい!」
 ほとんど怒鳴り口調だった。なんで、いいよいいよ五千円ぐらい、と、笑って言ってくれないのかと思った。
「悪いと思っていて、なんでそんな態度が取れるのよ」
 妻は涙を浮かべた。

 宿の清算を妻が済ませる時、私はフテくされ、ひとりで外のベンチに座っていた。港でも、妻が列に並んで乗船手続きを済ませ、私は外のベンチでフテくされていた。
 帰りのフェリーも、大変な混みようだった。われ先に、と二等船室へなだれ込む。私は何もせず、呆然と見ていた。妻は場所を確保できなかった。
 貸し出されているゴザを敷き、通路に座る。私と妻は、まったく何も喋らなかった。私は、いっそどこかへ行くふりをして、誰も見ていないデッキから海へ飛び込んでしまいたいと思った。すると、
「今回の旅行、最初から何かおかしかったのよ」
 不意に妻はそう言い、泣き出した。
 その横で、子どもがしょんぼりしているのを見ると、私はたまらない気持ちになった。
「せっかくの旅行なのに! オレはオレでしかない。こんなオレがイヤなら、別れるしかないじゃないか」
「ホラまたそう言う。あなたは、いつも、オレがオレが、なのよ」

 フェリーが竹芝桟橋に着く。何の会話もないまま、電車に乗り、上野駅に着くと、妻が実家に「○時頃着くから」と電話を入れていた。
 私は、妻の実家のそばまで、妻の重い荷物を持っていこうとしていた。だが、家のある駅に着くと、誰かがこちらに手を振っていた。妻のお母さんだった。
「どうも、お久しぶりです」
「そうですね。サトシ君、元気ですか」
「ずっと、お世話になって、すみません」
「今夜、どこか泊まる所あるの?」
「いえ、特にないです」
「よかったら、泊まっていかない?」

 義父母との対面は一年ぶりである。
「お邪魔します」
 居間で、義父はテレビを見ていた。私は正座して頭をついた。
「ご迷惑かけて申し訳ありません」
 義父は、私を見て、「ああ、どうも」と言ったきり、またテレビへ視線を戻した。
 緊張しながら、私は八丈島の話を、義母に聞かれたら答えていた。妻は旅行で使った衣類を洗濯し、私のためにおにぎりをつくっていた。子は、お膳の上にあるメモ用紙に、
「おとうさんが、とまった。」
 と鉛筆で大きく書いた。
 子どもと一緒にお風呂に入る。あがって、二階の部屋に一緒に行くと、小学校の教科書を見せてくれた。眠そうだったが、一生懸命、コクヨの「かきかた」ノートに書いた、ひらがなを見せてくれた。
 部屋にある、かつて私と一緒に暮らした家具や机は、どこか「とりあえず、ここにいます」という感じで、そこにいた。
 妻が風呂から上がり、私たちは「川」の字になって寝る。

 翌朝、義母のつくった朝食を三人で食べ、私は礼を言い、荷物をもって玄関を出る。義父は庭の手入れをしていた。
「いろいろと、すみません。ありがとうございます」
 義父は私を見ず、はい、と、それだけ言って庭いじりを続けていた。
 結婚した時、「うちの親族から、現場仕事をするような人間は出したくない」と言っていた義父だったが、私が「一流自動車会社」の正社員になったらどうなるのだろう、と、一瞬考えた。
 玄関前にいた子は、「おとーさん、見て見て!」と、補助輪なしで自転車に乗れるようになったことを見せてくれた。
 妻子は、駅まで見送りに来てくれた。妻は笑わず、子と私だけが笑って手を振った。
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