第11話 無職

文字数 2,142文字

 引っ越しの荷づくりをする。とりあえずの行き先は、千葉県柏市にある妻の実家だった。
 私の実家でもよかったのだが、妻は私の母をあまり好ましく思っていなかった。妻の母と私も、けっして仲が良いとは言えないが、短期間ならどうにかなるだろうと思った。
 板橋の実家に電話をすると、
「あらあ、辞めちゃうのかい。まったく、しょうがないねえ。また、いやなことがあったから辞めちゃうんだろう」
 電話越しで、母は笑いのない声で言った。
「まあ、好きなようにやってくれよ。ただ、あれだよ、もう僕らも若くないんだから、しっかり頼むぜ」
 父も、いつになく厳しい口調だった。

 妻は、どうにも浮かない顔をしていた。また辞めて、こいつは何をしようというのか。具体的な見通しが何もないことが、彼女の気を重くさせているようだった。
 私は、努めて明るく振る舞った。そして何の確証もなく、「大丈夫、どうにかなる、どうにかするよ」と言っていた。まったく、どうにかしなければならないのだった。
「どうやってどうにかするのか」と聞かれると、何の具体案も見つからず、夫婦喧嘩になって気まずくなった。気まずくなると、私は発作的に家を出て行った。

 もう自分は会社勤めができないのだ。K先生やSさんという人間関係から、こんな私を生かしていく仕事を見つけ、やっていくしかない ── こんな心情を、妻が理解してくれないことに、私は腹を立てていた。腹を立てると自分が情けなくなり、情けなくなると、こんな自分がダメなのだと死にたくなった。街なかを徘徊すると、それで私の「家出」は終わり、また部屋に戻って一緒に荷づくりをした。

「おかえりなさい」
 義母が私達三人を出迎えた。
「よろしくお願いします」
 私は頭を下げた。
 義父が帰宅し、みんなで夕食を摂る。私は、とりあえず世話になることと、無職であるという現実に、縮こまって食していた。
「まあ、ここで、ゆっくり仕事を探しなさい。焦らんでいいから」
 義父から、そんなことを言われて、かしこまってビールを飲む。
 へたに明るく振る舞うのも不自然で、黙っているのも不自然だった。みんなでテレビを見ていても、今自分がするべきことはテレビを見ることではない。茶の間にいることがつらかった。

 私のするべきこと ── まず、住むべき家を探すことだった。そして、働くことだった。
「こっちへ着いたら連絡してよ」と言われていたK先生に、会いに行く。講師室の前で待ち合わせ、予備校のそばにある会社に一緒に行った。そこは、予備校生向けに機関誌を発行している、出版会社だった。
 この会社社長は、私がほとんど働かずして辞めた大検コースの係長だった。脱サラして、仲間と会社をつくったという。
 この出版社でオレは働くのかな、と思った。ちょっと意外な感じがしたが、K先生の仲間である社長の所で働けるなら、望むところだった。
 だが、雇用の話となると、あまり色よい返事はもらえなかった。経営が芳しくなく、社長と親しい予備校の職員が、仕事を終えてから自主的に手伝いに来ていた。社員はおらず、給料が払われていたのはアルバイトの女の子一人だけだった。

 しかし、K先生の紹介とあってか、社長も何か考えてくれるらしく、「また来てくれ。連絡下さい」と言われた。
 何か、自分と同じような境遇にある会社だなと思い、親近感が湧いた。自分でどうにかしない限り、会社経営も自分の人生も、軌道に乗ることはないのだ。会社と私が「一緒にやっていく」には、ちょうどいい場所だと感じた。
 問題は、家探しだった。私は早く、妻の実家から出て行きたかった。妻は、実家のそばがいいと言った。近くに保育園もあり、彼女自身も働けるし、何かあった時は母に子どもの面倒も頼める。
 私は、あまり気がすすまなかった。義父母がそばにいることで、妻が彼らに頼ることのできる環境が、いやな感じだった。妻に働くなんてことをさせず、しっかり私が就職すれば、堂々と実家のそばにでも住むことができた。

 義父母から見れば、可愛い一人娘に苦労を強いらせている私は、極悪人のように映っていることだろう。こんな甲斐性のない男を、妻が嫌いにならないことも、悲惨さに拍車をかけているのではないかと想像した。
 賃貸住宅雑誌を買い、二人で部屋探しをする。東京でも、2DKなら支払い可能な物件があった。だが、半年の3DK社宅生活で家具が増え、2DKの部屋では収まらなくなっていた。

 また、私は就職雑誌も買っていた。こんな情報誌を介しての会社勤めなど、やる気がサラサラなかった。しかし家賃の金額と、家族のいる現実を見ると、イヤでも「普通の」企業で働かなければダメなのかな、とぼんやり考えてもいた。
 私の憧れる、K先生やSさんの生き方は、マネをする類いのものではない。自分にしかできないような生き方をして、生きている。だからこそ、その生きざまが、私の中に深く入り込んできた。
 私は、私の生き方をして行きたかった。だが、その自分に何ができるのかと考えると、何もできないようだった。
 進学塾、予備校、貯水槽、店員、と行き当たりばったりで、ただその時だけを真剣に生きてきたつもりの自分がいるだけだった。長続きしないという自分が、致命的に見えた。
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