第20話 Uターン

文字数 1,924文字

 子どもを保育園に送り、自転車で会社に向かう途中、私はUターンして家に戻った。ちょうど雨が降ってきたせいもある。カッパを着て、再び家を出て自転車を走らせていたが、またUターンした。
 会社に行きたくないのだった。
 就職して七ヵ月目の、梅雨時だった。
 無断欠勤はいけないと思い、会社に電話をする。事務の女の子が出た。
「あ、筒井です。疲れちゃったんで、今日、休みます。」正直に言った。
 夕方、社長から電話がかかってきた。「何、疲れちゃったの?」

「はい、すみません。今日一日休ませてもらったんで、明日から大丈夫だと思います」
 しかし、翌日も行かなかった。その翌々日も行かなかった。会社には、連絡を入れなかった。電話の呼び出し音のスイッチを切った。
 何日か経ち、電話のスイッチを入れた頃、また社長から電話を受けた。
「ああ、やっとつながった。どうした? もう辞めるのか」
「ああ、すいません、ご迷惑ばかりお掛けして…明日、死ぬ気になって行きます」
 嘘ではなかった。死ぬ気で、明日は行こうと思った。しかし、明日になったら、死ぬ気になれなかった。また社長から電話をもらう。

「すみません。どうも、行けません」
「あの、健康保険証、返してもらえるかな。手続きしないといけないからさ。一度、来て欲しいんだけど」
「郵送でも、いいですか」
 切り際に、また謝った。あと一ヵ月勤めていれば、失業保険が下りることになるはずだった。
 だが、せいせいとした気持ちだった。平日の晴れた朝に、布団を干せることが嬉しかった。スーパーで、夕方のタイムサービスの特売品も買えた。子どもと一緒に公園へ行って、まるで自分が誘拐犯のように、他の主婦達から怪訝そうに見られても、さっぱりと受け流していた。

 私は、不登校体験を念入りに書き直し始めた。もはや、自分がやるべき「仕事」は、これしかないように思えた。「本にするといい」と言ってくれた、Eさんの言葉が大きなバックボーンになっていた。
 妻は、働け、とも、これからどうするんだ、とも言わなかった。
 私は妻に宣言した。
「十一月まで、オレは、働かない。これを書き切りたい。でないと、動けそうにない」
 あと四ヵ月位は、今までの貯金と妻の収入で、生活はやって行けるだろう皮算用があった。
「十一月まで、とにかく書き終えて、それでどうなるか分からないけれども、これが終われば、きっと何かが始まると思うんだ」
 妻は、了承してくれた。

 妻の弁当をつくり、行ってらっしゃいを言う。子どもには、「お父さん、ワープロのお仕事があるから」と言って、保育園に行ってもらう。
 ダイニングキッチンのテーブルの上で、換気扇に向かって煙草の煙りを吐き吐き、お父さんはワープロに向かった。
 昼になると、カップラーメンをすすりながら居間にあるパソコンを開き、インターネットに接続する。妻が、私のホームページを綺麗な体裁につくり直してくれていた。たまに、見ず知らずの人から、私の文についての感想が来た。その返信メールを書いたりする。

 八月には、東京の私の実父母の金婚式があり、妻子を連れて、二年ぶりに実家へ行く。式といっても、家のそばの料亭の一部屋を借り、兄夫婦とその二人の孫、私達家族が参加しただけの、ささやかな夕食会だった。
 私は、まだ印刷会社で働いているということにした。余計な心配を、老いた両親にかけたくなかった。これからどうなっていくのか分からない現状を正直に伝えたら、気まずい雰囲気になるに違いなかった。
「いや、今、文章書いててね。会社勤めなんかより、これで、やって行けたらいいんだけど」
 と、やんわり牽制球を投げる。
「またそんなこと言って…。働きながらでも、できるでしょう。文章は、趣味としてやればいいんじゃないの。まず、生活をしていかないとねえ」
 母は、まっとうな直球を投げ返し、父も横で無言でいた。

 嘘は、滅多に顔を合わせない間柄には通用する。だが、義父母には、すでに私が無職であることは当然知られていた。平日、スーパーで買い物をする時や、子どもと一緒に散歩をする時、私は義母に顔を見られ、挨拶をすることが多かった。
「ヨシコ、いますか」
 義母から電話を受け、
「いえ、まだ帰っていないです」
 そんなとき、時刻はもう夜の九時である。パート勤めで、たくさん収入を得るには、妻はたくさん残業をしなければならなかった。玩具メーカーのお客様相談室で、月収、十五、六万円。
 いくら、二人で合意の上で決めた生活とはいえ、私は圧迫感を覚え始めた。
 最初は調子良く進んでいたワープロも、だんだん進まなくなった。焦りと、これを書き終えたからって、どうにもならないんじゃないか、という不安が膨張した。
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