第20話 〈作品に寄せて〉

文字数 4,687文字

1 大和朝廷の東国進出と常陸地方
(1)出雲氏の国譲りと鹿島神宮のタケミカズチ、那賀国の初代国造タケカシマの関係を考察する。
 今回の調査研究で、出雲氏が天照(大和朝廷)に国譲りする(軍門に下る)よりかなり以前に常陸地方に到達していた可能性を感じさせられた。かつて、神話でもオオクニヌシが葦原の中つ国(日本国土)の支配者であったのだから、その勢力は列島のかなり広い範囲へ及んでいたと考えるべきだと思う。大和の三輪山の祭神であるオオモノヌシとオオクニヌシが本来別であることは、古い縁起に頂上にオオモノヌシを祀る磐座(いわくら)があり中腹にオオナムチ(オオクニヌシ)を祀る磐座が、更に下にスクナヒコナを祀る磐座があったとされることからも明らかである。これは、出雲氏が大和の軍門に下った後の序列を示すものであろう。そして、『古事記』の編纂においてもオオクニヌシの存在を否定できない事情があったと考えられる。つまり、当時において周知の事実であったに違いない
 那賀(仲)国成立以前においては、出雲氏の勢力がいち早く那珂川周辺をはじめ内陸にも到達して開拓に当たっていたことが古墳や神社の祭神・地名などから窺い知ることが出来る。特に大和朝廷に最後まで抵抗したオオクニヌシの子、タケミナカタと関係があると思われる内原の「諏訪」筑地の「諏訪原」の地名や鯉淵の諏訪神社、出雲氏の祖スサノオを祀る須賀神社などはその一例に過ぎない。諏訪神社に関しては、全国的に見ても常陸地方に多く集中していることも見逃せない。
 それから注目すべきは、有賀神社(タケミカズチ・フツヌシ・後にオオクニヌシを合祀)の大洗磯前神社(オオクニヌシ・スクナヒコナ)への年一度の磯下りが、かつてオオクニヌシがタケミカズチに国譲りしたことへの御礼の儀式と大洗側が受け取っていたことである。(大洗磯前神社の縁起から)
 とくに出雲の国譲り神話は、鹿島神宮のタケミカズチを祀る中臣氏とフツヌシを信奉する物部氏の協力関係を物語るものともとれる。そうなると中臣氏はオオ氏であった可能性も出てくる。なぜなら、鹿島郡は元々タケカシマが国造りした那賀国内であった。つまり、国譲りはタケミカズチではなくタケカシマによって実現されたもののように見えてくる。つまり、朝房山を巡る伝説と重なって見える。鹿島神宮は、天大神(あめのおおかみ)・坂戸・沼尾の3社が合わさって出来た神社であるとされるが、複数の研究者から天大神が北浦を挟んで鎮座する大生神社(おおじんじゃ)ではないかと言われている。この神社は、その名の通りオオ氏と関係があるといわれ、かつて元鹿島と言ったと伝わっている。祭神は、タケミカズチだが、遙か昔そこにタケカシマが祀られていた可能性もある。
 藤原氏の祖、中臣鎌足の出身は、大和国の十市とされているが、平安時代後期の歴史物語『大鏡』には中臣鎌足の出生地を常陸国の鹿島としている。また、朝房山は、フツヌシの神山と藤内神社の縁起にあるが、鹿島神宮のタケミカズチとその神刀フツノミタマがオオ氏と物部氏との協力関係、そして鹿島神宮と香取神宮との関係を示唆したものに見えてくる。
 『常陸国風土記』が、中臣鎌足の孫であった当時の常陸国司、藤原宇合(不比等の子)に編纂が命じられたものと考えられる。もし、宇合が常陸の中臣氏の祖先をオオ氏であると認識していたなら、「行方の郡」(元は那賀国)の中でタケカシマがこの地方(潮来方面)で先住民と戦い活躍した場面に大きく紙面をさいた意味も見えてくるのである。
 鎌足の子孫、藤原氏が朝廷の側近として中央政界で活躍するには、氏神として春日大社に祀った鹿島神宮の祭神が、天照と関りが深いタケミカズチで、先祖が天岩戸の前で祝詞(のりと)を上げた天児屋根(アメノコヤネ)になっている事情も何となく見えてくる。
<参考>藤原氏が建てた奈良にある春日大社の祭神にみる序列
 第一段…鹿島の神(タケミカズチ)
 第二段…香取の神(フツヌシ)
 第三段…天児屋根(藤原氏の祖神)
 第四段…比売神(ヒメガミ)

(2)朝房山の風景
 朝房山は、こうしてみると場所によって違う見え方をする。那珂川沿岸からは、武力や(まつりごと)の象徴として、金谷・筑地方面からは、水・農耕・鉄・須恵器などの生産の象徴として見える。
 蛇神伝説を伝えた古老のいた笠間市小原は、風土記の編纂当時は那賀郡の茨城郷に当たる場所となっていた。この小原は、元は茨城国の国造(出雲氏)の本拠地であったと見られている。つまり、出雲氏より那賀国に譲られ編入されたことになる。この伝説は、オオ氏との交渉で出雲氏が譲歩せざるえなくなった事のてん末を語ったものだったのかも知れない。こうして、茨城国の国造は石岡方面へと退いた形となるが、大化の改新後に石岡に国府が設置されたことで大いに繁栄することとなった。
 日本国土は、かつて葦原の中つ国と呼ばれ出雲氏が中心に国造りを進めていたが、やがて大和朝廷が、遠征によって豊葦原(とよあしはら)瑞穂(みずほ)の国を目指す過程で、大足のダイダラボウやクレフシ山の蛇神伝説が成立したものと考えている。

2 終わりに
 拙い小説にお付き合いを頂き誠にありがとうございました。道案内をしてくれたサクヤとニニギという高校生とアクセス頂いた読者の皆様にも励まされながら、この連載を無事終えることが出来ました。深く感謝申し上げます。
 実は、19話を書き終えた翌朝に、激しい目まいと嘔吐で救急車にて病院へ運ばれ、五日間の入院を余儀なくされました。その間、妻に連載の手続きを頼み、なんとか途絶えさせることなく続けることが出来ました。良き理解者で読者でもある妻には、頭が上がりません。家族や親せき・友人にも大変な心配をかけ、つくづく健康には注意しなければならないと考えさせられた五日間でした。
「大足のダイダラボウの伝説」や『常陸国風土記』にある「クレフシ山の蛇神伝説」を中心に物語を進めさせていただきました。とくに、伝説の世界ですので古今様々な研究者の諸説があるわけですが『常陸国風土記』は、国内に現存する五つの風土記の内の一つで、2代水戸藩主の光圀が前田家にあったものを借用し、『大日本史』を編纂する彰考館の学者に書写させたものが水戸藩にもたらされたことで、当地では早くから研究が進み、古代の常陸国がどういった土地柄で、どういう人たちが住んでいたかを知ることができる貴重な手掛かりとなっています。また、それ以前の神代のことも伝説として多く記載されており、こうした研究も多くの先人によって手掛けられ様々な解釈がなされてきました。そうした方々の研究成果をベースに、今回は新たな調査から仮説を立て論証していくという過程を、サクヤとニニギの課題研究に託し示させて頂きました。
 とくに、オオ氏の朝房山山麓への進出のプロセスに関する仮説・クレフシ山の蛇神伝説が出雲氏とオオ氏の交渉を意味するとした仮説・両氏の調停にヤマトタケルのような親王が活躍したとした仮説は、拙著にて今回はじめて提示させて頂いたもので、読者の皆様にもご自身の視点で御検討いただければ幸いです。そうしたことから、拙著は今後の皆様の研究へ向けた投げかけであり、広く多くの人にお読みいただけるよう小説の形で提示させて頂きました。
 現在の世界情勢は、混とんとしています。日本が78年前に経験した世界大戦以前の危うい様相が思い浮かびます。平和の尊さ、互いに共存する事の大切さを噛みしめ、今こそ過去の歴史に学び、かつて多くの尊い命が失われたことを繰り返さない英知と努力が、私たちに求められているのではないでしょうか。
 先学からの多くの恩恵に感謝し、これからも専門分野や在野の多くの研究者によって、歴史的事象に対し様々な視点と発想で仮説が立てられ、広く深く論証され究明されていくことを願い、この連載を閉じさせていただきます。お付き合いを頂き誠にありがとうございました。
 最後になりましたが、この連載中に起きました能登半島地震の犠牲者の皆様のご冥福と被災者の皆様へのお見舞いを心より申し上げます。 (著者)

参考文献:「水戸市史 上巻」(水戸市)
     「内原町史通史編」(内原町)
     「笠間市史 上巻」(笠間市史編纂委員会)
     「新笠間市の歴史」(笠間市史編さん専門委員会)
     「木葉下窯跡 発掘調査資料」(水戸市)
「大渕窯跡 発掘調査資料」(笠間市史編纂委員会)
「常陸國風土記」(常陽藝文センター)
「新編常陸国誌」(中山信名著・栗田寛 補足 崙書房)
「産鉄族オオ氏 新編 東国の古代」(柴田弘武著 崙書房)
      「口訳常陸国風土記」(河野辰雄著 ふるさと文庫)
「常陸風土記の探求 上」(河野辰雄著 ふるさと文庫)
「常陸風土記の探求 中」(河野辰雄著 ふるさと文庫)
     「常陸風土記の探求 下」(河野辰雄著 ふるさと文庫)
     「風土記を読む」(志田諄一著 崙書房)
「常陸風土記の世界」(江原忠昭著 筑波書林)
     「茨城の民族文化」(藤田稔著 茨城新聞社)
     「古代常陸の原像」(水戸市教育委員会)
     「三輪山の神々」(上田正昭 他 学生社)
「私の日本古代史(上)」(上田正昭 新潮社)
「常陸国風土記にみる古代」(井上辰雄 学生社)
     「三輪山の考古学」(網干善教 学生社)
「たたら製鉄の歴史」(角田徳幸 吉川弘文館)
      「古代史の研究」(津田左右吉 毎日ワンズ)
      「古事記」神話の謎を解く(西條 勉 中央公論新社)
     「比較民俗研究11」 (「八幡」考 劉 福徳)
     「角川日本地名大辞典8茨城県」(角川書店)
     「日本歴史地名体系第8巻茨城県の地名」(平凡社)
     「日本古墳大辞典」(大塚初重 他 東京堂出版)
     「続日本古墳大辞典」(大塚初重 他 東京堂出版)
「古墳時代の時間」(大塚初重 学生社)
      その他

<留意点>神社の創建時期については、縁起などに記されているが、磐座のみ、或いは(ほこら)のみとして祀られていた時期もあったと考えられ、また戦災などに遭い貴重な史料が失われ定かでないことも多いので参考程度とした。延喜式内社については論社もあるが、置かれた状況から主観的に判断させて頂いた部分もある。明治三十九年に行われた神社の合祀などの影響についてはここでは触れていない。古墳の成立年代や測定規模にも、利用資料により差異があることをお断り申し上げたい。
かつて、義勇軍の青少年たちを見送った内原駅は、近年になって近代的な建物に生まれ変わったり、山麓付近の貴重な鉱泉も今回登場した鉱泉宿をはじめ数軒が廃業するなど、残念なことに年を追って歴史的景観は失われつつある。
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