第6話 私の周りに

文字数 1,122文字

その日から何日たったのだろうか、私はただ単純に「食べて・寝る」という人間らしい生活をした。



ただ一つ違うこと。


『仕事にいかないこと』だった。

ここにきたあの日、鏡子先生が担当医として書いた診断書とともに会社には連絡を入れてくれたらしい。



『休職』扱いとなった私は、物心ついてから初めて何も描かない日々を過ごしていた。

幼い頃から共働きだった両親のおかげでテレビのついた部屋で1人で絵を描くことがほとんどだった。



その両親も事故で失い、その後施設で育った私にとって描くことだけが唯一の救いでもあった。



部屋から見える大きな湖と富士山。


起きてカウンセリングがない時間は富士山と周りの景色をただただボーッと見ていた。

おはよう。

昨日は少し風があったみたいだけど、今日は風もなくていいお天気ね

毎朝、鏡子先生の一言で1日が始まる。

先生、昨日湖に鳥の親子がいたんです

あら、気づいた?

5匹くらいかな…?お母さんのあと一生懸命付いていってました
鏡子先生は窓を背にして立ちながら私をみていた。


窓越しにうつる壮大な背景と美しい鏡子先生がなんだか絵画の一部のように見えた。



私の心が少しざわついた。

『イマ………………』

そうだ!

今日は湖の周り少し散歩でもしてみない?

ここに来た日以来初めて外に出て、2人で湖を沿うように歩いた。

う~ん、やっぱり外は気持ちいいわね~

鏡子先生は、両手を大きく上げ背伸びをした。


窓から見えた鳥の親子の方へ近づくと親ガモと5匹の子ガモたちだった。

カモの親子だったんだ

そうなの、咲枝さんがお世話しているカモさんたち。

生まれてから2週間くらいたつかな?

窓越しだと小さくて、なんだかわからなかった。

可愛いですね〜

うん。いい感じ

えっ?

あの日から半月経ったのよ。

やっと周りのことに目が向いた

半月…

…長いような

…短いような

いいのよゆっくりで、焦らなくていい

あの…ミラー先生は?

あぁ、そうよね。

あのカウンセリングの日以来彼とは会ってないものね

はい…

あそこの向かいのホテル見えるでしょ?…あそこが私たちの勤務先

キレイな病院…お城みたいですね

そうね~病院というよりは療養ホテルだからお城の方がピッタリかも

療養ホテル…?

心の風邪を引いた人たちがちゃんと休める場所

心の風邪…

芸能人、政界、ありとあらゆる業種の人たちがゆっくり安心して休める場所…

時間に追われて毎日生活してると、誰だって心の風邪を引いちゃうものなの

しっかり食べて、

しっかり寝て、

適度に運動すれば、自然と心の風邪は落ち着いてくる

信江さんのペースでゆっくりでいい。

私たちがついているから…

私の背中に鏡子先生の優しくて温かい手を感じた。


自分と違う『人の体温』を感じたのは久しぶりで、少しくすぐったい気持ちになった。


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登場人物紹介

加藤 信江

会社員

ミラー

SLSG研究所 所長

内科・精神科 医師

芳賀 鏡子

医師

ミラーの助手

吉川 咲枝

研究所家政婦

近藤 紗奈(旧姓 富樫)

沖田 保

俳優

警官

ミラーの母親

医師

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