第15話 遺された者

文字数 2,140文字

私がラボにきて、2ヶ月の時が過ぎた。

親ガモの後をちょこちょこついてまわっていた子ガモたちもすっかり巣立ち、この湖に残っているのは3羽だけになってしまっていた。



湖の畔のこのベンチは私のお気に入り。

天気の良い日はここに座ってよく本を読んでいる。

♪It's a world of laughter

a world of tears

It's a world of hopes

a world of fear

今日は雲ひとつない快晴。

あまりの気持ちよさに、鼻歌まで歌ってしまう。

♪There's so much that we share

That it's time we're aware

It's a small world after all

だいぶ調子良さそうだな
ミラー先生!

ちっぽけな世界は…どうだい?

……知らないこと

ほんの少しですけど、知ることできました

なんて……偉そうにすみません。

まだまだ知らないことだらけです…

それでいいんだ…焦らなくていい

ミラー先生は私が座っている隣に腰掛けた。
苦手だった英語にもチャレンジしたんだな
そうなんです!

ラボの談話室の本棚にこの歌の英語の歌詞があったので…

あぁ~。

アイツもよく歌ってたからな…

奥さん……ですか?
知ってるんだな
はい。

9年前に亡くなったとだけ…

そうか…
ミラー先生は顎の先で私達が座っている正面を指した。
妻は…そこに倒れていたんだ
え!?
自らこの湖に身を投げたんだ…3ヶ月になるお腹の子供と一緒にな
ミラー先生は煙草に火をつけてゆっくりと吸い、空に向かって大きく息をはいた。
そんな…
妊娠がわかったと同時に身体中に癌が転移してることがわかったんだ
生きていたとしても、赤ちゃんを産めるほどの体ではなかったし、もしかしたら既にお腹の中で死んでいたのかもしれない。

状況から判断しても妻の命も余命半年ってところだっただろう…

空を見上げながら、ゆっくりと煙草をふかしているミラー先生を見つめた。
なんて、そう自分に言い聞かせて、なんとか自分を保っているだけなんだけどな
煙草を地面に押しつけ火を消しながら、そのまま下を向き、手に持ったままの吸い殻をミラー先生は見つめていた。
医者としてどころか、夫として情けない話なんだが、妻が癌であることを僕は知らなかったんだ
すぐ隣に座っているはずのミラー先生がなぜだか遠くにいるような感覚になる。
妻の妊娠にうかれてたんだよ…僕は…。

そんな姿だったから、医者でもある夫に、余命宣告うけたなんて言えなかったんだろうな…。

いつもの先生とは違う表情を見て、なんだか急に不安になってしまった。

先生がお医者さんだからこそ、奥さん言えなかったんだと思います。


何となく…ですけど…

ありがとう…
ミラー先生は私の方を見て少しだけ微笑んでくれた。


そのまま、持っていた吸い殻を携帯灰皿に入れ、ポケットにしまい青い空を見上げた。

遺書すらなかった…。

あったのは、妻がフランスの医者から預かった「紹介状」だけ…

中を見て愕然としたよ、体はボロボロだった。

相当、キツかったと思う…

私は黙ったまま、聴くことしかできなかった。

なんで、妻は死んだんだ…

本当に自殺なのか?

事故や誰かに殺されたんじゃないか?

って、何度も考える。

ミラー先生は空を見上げたまま、話を続ける。

でもいくら考えても、結局たどり着く答えは毎回同じなんだよ『あの笑顔を守れなかったのは俺のせいだ…』ってね…。

空を見上げるような姿勢をしていたミラー先生はいつの間にか青い空が綺麗に映る、穏やかな湖面を見つめていた。
自ら命を絶つのも辛いだろうが、遺された者も辛いもんだな…
水面に映る太陽の光が悔しいほど煌めいていた。

あぁ、すまない…。

暗い話をしてしまったね。

そう言って、私の方を見たミラー先生はいつも通りの笑顔に戻っていた。
そういえば、“It's a small world”の英語の歌詞覚えたんだな

そうなんです!

ラボの談話室の本棚の中に読みたい本があって…。

それを取ったんですけど、ブックカバーが変えられていたんです。

そうなのか…
変えられていた中身が湖の写真集だったんですけど、その中にこの歌詞の紙が挟まってたので覚えました。
何の本読もうとしたんだ?
中山七里さんの…
ヒポクラテスの誓い!

えっ!?

何でわかるんですか?

ミラー先生は驚いた表情で口元に手をおいた。

嘘だろ…?

その本?

先生はベンチに置いてある本を指差した。

あっ、はい。これその写真集です。


手書きの紙もこの本にそのまま挟んであります…ほら。

歌詞の紙を差し出すと震える手でミラー先生は紙を受け取った。
紗奈の字だ…
ミラー先生は紗奈さんの書いた字を震える指先でゆっくりとなぞっていた。


遠くで鳥たちが囀っている。

ゆっくりと静かな時間が流れていった。


先生は優しい笑みを口元に浮かべ、大事そうに折り畳み、ポケットに閉まった

久しぶりに妻を感じられたよ…

ありがとう…見つけてくれて。

いえ…私は何も……
実は君に謝らなければならないことがあるんだ
えっ?

ミラー先生はジャケットの内ポケットから、一枚の写真を取り出した。


そこには、笑顔で笑うミラー先生と鏡子先生。

そして、最高の笑顔でミラー先生に抱きついている私にそっくりの紗奈さんが写っていた。

妻は、君にそっくりなんだ…
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登場人物紹介

加藤 信江

会社員

ミラー

SLSG研究所 所長

内科・精神科 医師

芳賀 鏡子

医師

ミラーの助手

吉川 咲枝

研究所家政婦

近藤 紗奈(旧姓 富樫)

沖田 保

俳優

警官

ミラーの母親

医師

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