第16話_① 大切な人
文字数 1,602文字
そう言って、沖田保はホテルの特別室の窓から湖を指差した。
朝の回診に来た私は保にそう答える。
私達は大学時代、一時期付き合っていた。
俳優を目指して、養成所に通っていた彼は私のアパートに転がり込み、半分同棲のような日々を過ごしていた。
保が指を差している先を見るとミラーと信江さんが湖のベンチに2人で座っていた。
保の言葉に耳を傾けながら、カルテの入力用タブレットを見る。
タブレット上の電子カルテに名目上、回診記録をつける。
保はあの頃の夢を叶え、今や超人気の演技派俳優となった。
そして、あの時と同じく、たくさんの女を抱え、スキャンダルがおおやけになりすぎて、一時避難の意味でここへ来た。
保はベッドから立ち上がり、私を見下ろすほどの距離まで詰め寄ってきた。
保の口から何度も聞いて、聞き飽きているそのセリフを耳から耳へ流して、タブレットに入力を続ける。
保は私の髪を撫で、頬を指で撫でる。
彼の脇をすり抜けて、部屋の入口まで移動しようと体の向きを変え、窓の外を見た瞬間、ミラーと信江さんが笑い合っているのが見えた。
一瞬、胸が締め付けられるような痛みを感じる。
私は冷静を装うため、下唇を咬む。
保は窓枠に手をかけ、窓の外を見ていた。
部屋を出ようと歩き出す前に保が立ち塞がる。
再び、私の髪を撫で指の背で私の顎を持ち上げる。
保に正面に立たれたまま歩み寄られ、自然と後ずさりするような形で壁際に追い詰められた私は、保の真っ直ぐな目に射抜かれる。
一瞬だけ、学生時代に保と過ごした濃密な時が頭をよぎる。
手をつなぎ近所のスーパーへ行き、狭いキッチンで2人並んで夕飯を作ったこと。
夜のベランダで夢を語りながらビールを飲んだこと。
西日の入る暑い部屋の中で汗だくになりながら抱き合った日々を…
『第16話_② 大切な人』 へ続く