§20 03月14日(水) 16時頃 新しい地図

文字数 3,940文字

 そっと扉を引いた友香里は視界に映った画に思わず息を呑んだ。鮮やかなオレンジ色をしたタートルネックのセーターは、聞こえた声から予定していた色でも姿でもない。が、記憶がすぐに助け船を出してくれた。こちらの病棟へ移ってくる前に衛を見てくれていた看護師の一人だ。
「こんにちは。お久しぶりです」
 腰を上げた木之下が椅子を譲り渡すようにその脇に立ち、会釈をした。
「……こんにちは」
 とは言うものの、友香里の胸の底に生じた微かな動揺がそう簡単に収まるものではない。
「じゃ、衛くん、私は帰るよ」
「うん」
「たまたま都合がついたらお見送りしてあげる」
「きっと都合をつけてくれるんだよね?」
「さあ、そんな約束はできないわ。じゃね」
「うん、ありがとう」
 衛がにっこりと笑い、木之下がふたたび友香里に会釈をして擦れ違うと、扉を閉める前にいかにも親し気に手を振った。それを見送った友香里がゆっくりとベッドに歩み寄り、上体を起こして座る衛の顎に手を伸ばして持ち上げると、ぐいっと顔を近づけた。衛はいつもとまったく同じように、にこにこといかにも嬉しそうに微笑んでいる。
「現行犯逮捕」
「逮捕? 罪状はなに?」
「姦通罪よ」
「確か男のほうには適用されないはずだけど」
「罪を認めるのね?」
「真由ちゃんのほうから押しかけてくるんだよ」
「……真由ちゃん!?
 あまりのことに眩暈を起こしそうになり、友香里はがっくりと椅子に腰を落とすと、芝居掛かった仕草で両手の中に顔を覆った。わずかに開けた指の隙間から覗く恨めし気な眼差しを、衛がこれまで見せたことのない至福の表情で受け止める様子に、友香里は諦めて首を振った。覆っていた手を解くとすぐに腰を浮かせ、待ち構える少年の唇に小さくキスをした。
「彼女、なにさんだったっけ?」
「木之下さん、木之下真由ちゃん」
「いつもあんなピッタリした服を着てくるの?」
「おっぱいに対する強い自負心の現れなんだろうな」
「まさか、あなた――」
「だけど相変わらず見せてもくれないし触らせてもくれないんだよ」
「当たり前です!」
 憤懣遣る方無いと言った様子で椅子に腰を戻した友香里は、ベッドからずいぶん離れているように感じて椅子を引き寄せながら、そのことに気づいて思わずちょっと笑みが零れそうになったのを、衛に見咎められる前に慌てて呑み込んだ。十も年下の少年にいいように翻弄されてどうするのか。我ながら恥ずかしく、自信を喪失しかねない気分だ。
「いいお天気だったわね。お散歩した?」
「うん。リハビリのあとぐるっと一周した」
「ひと月でなんとかなるかしらねえ」
「卒業するまで一緒に通学しようよ」
「そんなのダメに決まってるじゃない」
「友香里さんて案外コンサバなとこあるよね」
「常識的なだけです」
「十七歳の少年を誘惑しておきながら?」
「誘惑したのはそっちでしょ?」
「上も下も友香里さんの手のほうが先に動いたものと僕は記憶しているんだけど」
「違うわ。無理やり動かされたのよ」
「動かされた? え、それってなに?」
「さあ、なにかしらね……」
 とぼけて見せるように首を捻ったけれど、友香里は本当にもう忘れていた。回復期リハビリテーション病棟に移ってからの三ヶ月余りは、こうして二人が向かい合っている継起のことなどすっかり記憶から消し去ってしまうほどに、素晴らしく幸せな時間だった。相変わらず表向きは、警察の心理員に求められる職務として訪ねてくる紺野友香里であり、車椅子での生活を安定させるためのリハビリテーションに勤しんでいる久瀬衛である。しかし、実態は純然たる逢引きにほかならなかった。お互いに「大好き」だと口にしてからの三ヶ月余りなのである、この時間が甘くやさしくならず澄ましていられるわけがない。恐らく友香里が警察の人間であるということも手伝ってのことだろう、看護師も決してこの贅沢な時空間を搔き乱そうとはしなかった。
「退院したらすぐ学校まで行ってみましょう」
「そうだね」
「新しい地図を作らないといけないわね。衛が通れる道だけで描いてある地図」
「ひとまず学校との往き帰りがあれば事足りるんじゃないかなあ。買い物はネットで済むし、通院には友香里さんが車を出してくれるし。ほかにどこかある?」
「私の家」
「え、行ってもいいの?」
「バリアフリーにはなってないけど、部屋は一階に移したのよ。お庭から入れるように」
「誰かと取り換えてもらったんだね?」
「そう。父と交換。飛び石をどけて木を一本抜いたの。あれでたぶん入れると思うんだけど……」
「あゝ、こういう時なんだよな、ちょっと残念に思うのは」
「なにが?」
「飛び上がって抱き着きたいのにさ」
「私がそうすればいい?」
「でも飛び上がっちゃダメだよ」
「わかってるわよ」
 ――必要なのは新しい地図。衛と私が初めて足跡を記して歩くまっさらな地図。地図は現実を写すものではなく、現実に重ねて行くものだ。私たちは現実の上に何枚もの地図を重ね、地図を通して現実を見る。現実を直視することから逃れるためではない。現実を直視することは初めから認められていない。それをすれば目が潰れてしまう。
 衛がベッドの上にいる以上、どうしたって友香里が覆いかぶさる体勢に、友香里のほうから首周りを抱きしめる姿勢になる。姉の薫はずいぶん小柄だが、衛も決して大きいほうではないだろう。それでも十七歳の少年の体はすでに充分な肩幅と胸の厚みを獲得している。衛を抱きしめるたびに友香里はいつも微かな、身に覚えのない戸惑いを覚える。しかし次の瞬間には胸の奥深くからそこはかとない悦びが湧き上がってくるのを感じ、戸惑いはどこへやら消えてしまう。
 椅子を買わなければ、と友香里は思い出した。衛の身長を再現する高さの椅子。そこに腰掛ければ友香里の目の高さに衛の顎の辺りが上がってくる椅子。衛の腕が友香里の肩を外側から抱き、友香里のほうが顎を持ち上げなければ衛の唇を受け止めることのできない高さの椅子。しかしどうやって衛はその椅子に座るのか。どうすれば衛をその高さに持ち上げられるのか。
 友香里がずっと車椅子を押してくれればいいと衛はいつもそう言うけれど、そのこと自体はむろん友香里にとってもまったく問題ではないのだが、運動機能が回復しない膝下を切り捨てて両脚に義足を用意する選択肢もあることは、もちろん誰もが承知している。医者は判断を保留した。それはいつでも可能だと考えたのかもしれない。確かに理屈はそうだ。が、動かないとはいえ見えている脚を切断するには明確な理由が必要になる。
 上から抱き締めてほしいから、上から口づけてほしいから――そんな願いでは理由になり得ないのだろうかと迷いながら、他方でそんな願いが衛を不可逆的な決断へと追い込んでしまうのを恐れ、だから言葉にすることができず、だから友香里は上から衛の首を抱きしめて、だから友香里は上から衛に口づけをする。そうして医者が保留した判断を友香里もまた保留する。
 いつしかそんな夢を見るようになった。容易には追い払うことのできない夢だ。なぜならその夢は友香里を強く激しく揺さぶるから。熱く深く衝き上げるから。車椅子を押して歩く穏やかでやさしい夢などは簡単に押し退けてしまうから。
「そうか。そうだよね。これまで考えもしなかったよ。でもどうして考えなかったんだろう?」
「ここに来ないようにしてきたから。たまに長くあいだが空くことがあったでしょう? あのときは生理にぶつかっちゃってたのよ」
「本当に? そうか。ぜんぜん気がつかなかった。やっぱりそうなんだな。男には考えつかないんだよ。どうしようもないんだ、やっぱり」
「そうね。想像しろって言っても無理でしょうね」
「つらいの?」
「うゝん。私は軽いから、別にそれでつらくはないのよ。ただほら、女のほうだって欲情するわけだから、困っちゃうじゃない?」
「なるほど。なんらかトイレに行けない状況にいるのであれば水を飲むのは控えたほうがいい、そんな話だね?」
「え? なんでトイレと水に喩えるの?」
「あれ? なんかおかしい?」
「だって、もっと直接的な喩えができるでしょう?」
「あゝ! 家族みんなで同じ部屋に泊まるのにスマホでエッチな漫画を見ちゃいけないとか」
「そうそう」
「確かに、冷静に落ち着いて回避すべき状況だ」
「だから今日はあとで自分でやって」
「わかった。でも今日はそれでも来てくれたんだね?」
「ちょっと嫌なことがあったから……」
「どんなこと?て訊いてもいいのかな?」
「聴いてくれる?」
「もちろん」
「あのね――」
 それから日が沈み、衛の夕食を眺めてから、友香里は「お見舞い」としては最後になる訪問を終え、病院を後にした。次はもう土曜日、退院の日、姉の薫と一緒に古澤が運転する車に乗り、衛を迎えに来る。紺野さんと三人で――と薫が口にしたとき、友香里は思わず古澤の顔を確かめてしまった。古澤もまた、なにを驚いている?と訝し気な表情を返してきたので、あゝそれでいいのか…と友香里は不思議な気持ちになった。久瀬家のリビングでのことであり、衛の父母もそこにいて、しかし薫は、それに古澤も、当たり前のように友香里をメンバーに数えたのである。親族でもない、すでに警察を退職することが決まっていた、紺野友香里という女を。むろん、どうして?と怪しんだ。けれども衛の父親も母親もなにも口にしなかったものだから、すでに「契約」は成立しているばかりか始まっていたのだと、友香里は初めてそこで気づいたのである。
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