§18 03月14日(水) 13時頃 城址公園

文字数 3,593文字

 気温が十℃を超えると気分が浮き立つようだ。それに今日は柏原と一緒に過ごす約束があり、それも合格通知が届いた直後ともなれば、気分の悪かろうはずがない。けれども柏原の合格は彼がまもなくこの街を離れてしまうことを確定させた。新幹線で二時間余り、高速バスなら三時間半――決して遥かに遠くはないけれど、そもそも時間なんてどうでもいいことだけれど、顔を見るにはそこそこのお金がかかる。
 二人はファーストフードで買ったランチを手に、江戸初期の築城とされる城跡公園の陽当たりのいいベンチに腰掛けた。高校はすでに卒業式も終わり在校生も年度末の試験休みに入っているが、義務教育課程の子供たちの姿はなく、園内は就学前の母子連れが散見される程度の静かさだった。むろん桜にはまだ早く、落葉樹も芽吹いていない。
「アパートはいつ見に行くの?」
「大学の紹介で決めちゃったからさ、引っ越してみるまでわかんないんだよね」
「開けてビックリ!てやつだ」
「いいほうのビックリであることを祈っててくれ」
「今時お隣さんの話し声が聞こえるとかないでしょ」
「エッチな声が漏れたら恥ずかしいって意味?――あ痛ッ!」
 言うまでもなく少年というやつは、少女の手が腕や背中を思い切り叩いてくれることを期待して、こうした軽口を発する。従って少女の手加減は許されないばかりか背信行為と見做され兼ねないことを、薫もまた進化論的性淘汰の厳密な意味合いで本能的に承知していた。
「バス代は私、向こうでのご飯とかは孝介、それでいいと思うんだよね」
「それでバランスとれてるのかな?」
「現地の情報持ってるのは孝介なんだから。でしょ?」
「ずっとアパートにいるなら全然お金はかからないぞ」
「まあ結局そうなっちゃうかもしれないけどね」
「日本史の勉強しにくるわけだしなあ」
「えッ…?」
「違うのか?」
「はい…?」
 南西よりの風が吹いている。この時間、春の陽射しがなにものにも遮られることなく降り注いでいた。十一月のある日、柏原が一緒に日本史の勉強をしようと放課後の視聴覚室に誘い、理系から文系に切り替えたばかりの薫はそのとき本当に困っていたものだから、渡りに船とばかりに怪しみもせずのこのこと後について行った。まさか薫が視聴覚室の意味を承知せずについてきたなんて考えもしなかった柏原は、受験が近くなってきた不安から逃げ出そうとしているわけではない、薫のことをずっと可愛いと思ってきたのだと告げた際、薫が間の抜けたような驚き方をしたことに驚かされた。そのときになって薫は卒業したあの高校における視聴覚室が持つ意味にはッと思い至り、慌てて周りを見回してそこに噂通りカップルと目される男女しかいないことを確かめて、ようやく柏原の意図を理解すると同時に耳から顔から首までを真っ赤にして狼狽したという、茶番のような経緯がある。この年の受験をスキップすると決めていた薫と、安定的に盤石の志望校判定を手にしてきた柏原ではあるが、そうはいってもそこは受験生らしく、あるいは田舎の高校生らしく、抑制されたクリスマスと年末年始とを許される限り二人で過ごした。バレンタインデーにお互い初めてとなる性の交歓があり、入試が終わった後には寸暇を惜しむように重ねてきた結果として、壁の向こうに声が漏れると恥ずかしいなんて冗談を口にできる余裕を獲得した現在である。
 その間、柏原は一度だけ衛を訪ねていた。入試を終えたあとの三月最初の金曜日だった。事前に薫から事故の経緯と事件の経過とを聞いていた。もちろん衛の運動機能に関する現状についても、だ。気温は低かったけれどよく晴れた日だったので少しだけ屋上に出た。柏原は一人っ子なので姉弟の会話を新鮮な気持ちで聴いた。衛という少年が遠慮も気後れもなく饒舌になんでもあけすけにしゃべるもので、いささか面食らったのもある。何度か「古澤」という名前が出て、それがあのフルサワ精器の代表その人であることを帰り道で薫から聞き、目を丸くした。薫から聞いていた事件のほうの経過に釈然としないものを感じていたのだが、抜け落ちていたピースがそれで埋まった。親戚のおじさんみたいな存在だと薫は言ったけれど、どうやらそんなに簡単な相手ではないらしいことを感じ取った。
「衛くんの部屋からこの公園が見える?」
「うゝん。衛の部屋は海のほうを向いてるから」
「そっか。あのとき窓は覗かなかったな。――そう言えば家の改装は終わったの?」
「ほぼね。お母さんが張り切って細かいとこチェックしてる。正直お父さんも私もホッとしてるんだよね、お母さんちょっと変になりそうだったから。でもほんとよかった。なんでもいいから自分が片付けないといけない実務ができると人は働くもんだって古澤のおじさんが言ってたんだけど、ほんとその通りなんだなあって思ったよ」
「僕はもっと衛くんと話したかったなあ。もっと早く薫のそばにくればよかった」
「う~ん、そこはなんとも言えないねえ。一年前に孝介が現れてたとして、そのとき衛が興味を持ったかどうか。孝介のこと完全に無視したとしても不思議じゃないよ。そういう子なんだよね。気紛れと言うか、気分屋って言うか。――でもさ、そもそも一年前に孝介に誘われて、私、視聴覚室に行くと思う? そうよ、それちょっとあり得なくない?」
「確かに、まあ、口実がないし、無理だったかもしれないけど、あり得なくはないんじゃない?」
「あり得ないでしょ?」
「薫はまったく僕の意図を理解してなかったのに?」
「理解してなかったからのこのこついてっちゃったわけだし」
「日本史がなかったら無理だった、て話かあ」
「そう、そう」
「そうかあ。日本史サマサマだなあ」
 朗らかに、いかにもおかしそうに笑う薫がいま隣りにいるのだから、そこはそれでいいのだろう。縁というものがあり、タイミングというものがあって、初めて今があるのだから。それでも仙台での新生活に薫が欠けてしまうのはどうしてなのか、三時間半も高速バスに乗らなければ顔を見られないのはどうしたわけか、やはり考えないではいられない。
 薫は東京に出なければいけないのだと言った。それが「古澤」との約束であり、うまく説明はできないのだが、守らなければならないものなのだ、と。確かにこの先しばらくは二週に一度くらいの間隔で仙台を訪ねてくると言うけれど、来春には薫は東京にいるはずであり、新幹線の乗車時間は短縮される一方で、物理的にはここよりさらに一〇〇㎞も遠くなり、高速バスを使えば二時間も余計にかかってしまう。そんなことが本当に可能なのだろうか。
 つまりはそれが答えなのだという囁き声を、柏原はこの間ずっと繰り返し掻き消している。その声はきっとこの先も一年にわたって囁き続けるだろう。薫とは繋がっていると主張する柏原に対して、薫は欠けているのだとその声は囁くのだ。事実ここにいないではないか、と。
「いつ退院するって言ってたっけ?」
「今度の土曜日だよ」
「え、じゃあもうあと三日?」
「うん、あと三日ね。でもなんか変な感じ。半年もいないとさ、衛がいない空気に慣れちゃうんだね。それに帰ってくるって言っても車椅子なわけだし。うまく繋げられるかなあ……」
「繋げるって、なにを?」
「だから、半年間を一瞬で飛び越える感じしない?」
「あゝ、なるほど。走行移動断層みたいに線がズレてる感じだな?」
「そう、そう。あみだくじみたいにさ、こう、隣りのパラレルワールドにひょいッて飛び移る感じ。わかる?」
「確かにひとつの屈曲点であることは間違いないと思うけど、衛くんは上手に繋げてみせる気がするな。一度しか会ってないけど、なんかそんな気がする」
「違うわよ。繋ぎ込みにしくじるのは私たちのほう。断絶するのは私たちのほうの世界。だってそうでしょ? 衛の脚は失くなっても衛のもので、私たちのじゃないんだもの」
「……そっか。……そういう話になんのか」
 この子は周りが思っているより遥かに頭がいいんだな、と柏原は思った。断層面上に立っていたのは弟の衛ではなく、薫たち家族のほうなのだ。衛はいわば断層運動という現象そのものであり、転んだり挟まれたり、あるいは別れ別れになったりするのは衛ではない。衛はそのような事態を引き起こす運動そのものだ。我々が久瀬衛と相対したとき、そこに断層を引き起こすかのような運動なり現象なりを見ることになると、薫はそう言っている。そしてどうやら自分もまた同じ断層面に立ってしまったらしいと柏原は理解した。衛は太古の昔に起こった運動なり現象なりの痕跡ではなく、今もなお動き続けているというわけだ。つまりは久瀬衛という運動こそが、これからも薫と同じ断層面上に立っていられるかどうかを左右する。衛が動けば、薫も自分も動かされる。直線にして百七十㎞余りの仙台にまで、その運動は影響するのである。
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